堕ちた女体と
華やかな晩餐
第二章
1



「千尋ちゃん、待って」
 亜希に呼び止められた。千尋は、そちらへわずかに顔を巡らせた。
「立ったままでいいから聞いて。これから、どうするの?」
 虫酸の走ることに、亜希の顔は、不敵さに満ちていた。
「家族と合流するわ……。わたしの家族にも、それと、あなたのお父さんにも、あなたがわたしを侮辱したことは、言わないから安心して。なんせ、わたしたちの家は、菅野さんに助けてもらってる立場だもんね。菅野家の娘に暴言を吐かれたからって、告げ口なんてできるはず、ないもん……」
 千尋は、自虐的な調子で言っだが、その実、悔しさで、奥歯がかちかちと鳴りそうだった。
「ア・ン・シ・ン・し・て……」
 亜希は、おうむ返しに呟くと、突然、吹き出した。つられて、加納までもが、口を押さえて笑っている。
 千尋は、唖然として二人の様子を眺めていた。

 ひとしきり笑った後、亜希は、上気した顔を千尋に向けて言う。
「安心して……、って、千尋ちゃん、それは勘違いし過ぎだよお。ま、本当のことを知らないんだから、仕方ないかなあ」
「なによ。もったいぶってないで言いなさいよ」
 すでに、千尋は喧嘩腰になっていた。
 その時、亜希の目つきが一変した。かっと見開いた目で、千尋を直視している。
「教えてあげるよ」
 亜希は、自信たっぷりに言った。
「千尋ちゃん衝撃のじじつー。うちのパパは、安城家を助けるつもりなんて、本当はなかったんでーす。リスクが大きすぎるってね。それを説得したのが、このわたしなんでーす。千尋ちゃんが可哀想だから、あの家の人たちを助けてあげてー、ってね。でないと、わたしグレてやるうー、とも言いましたあ」
 自慢話のように話す亜希は、一度言葉を切り、また話を続ける。
「要するに、千尋ちゃんの家族を助けたのは、パパじゃなくって、このわたしなの。だから、わたしの一言で、あなたたちの運命は、どうにでもできるってわけ。わたしたちに見放されたら、安城さんの家族は、本当にどうなっちゃうんだろうねえ。こわーい、こわーい」
 目の前が暗くなってきた。漠然とした、だが、とてつもなく巨大な恐怖が、千尋の精神と肉体を支配し始めていた。冷静さを失ってしまいそうだった。いったい、亜希は、何が言いたいのだろう……。まず、それが知りたかった。
「あんたは、わたしに、どうしろって言うわけ?」
 千尋は、内心の動揺を悟られまいと、取り澄ました口調で訊いた。
「この家で働いてほしいだけだよ。そのために呼んだんだから。千尋ちゃんがここで働くならば、千尋ちゃんの家族も助かって、すべてが丸く収まるってわけ」
 大切な家族の姿が、脳裏に浮かんだ。
「働くって、何の仕事をすればいいの?」
 とても悔しいが、もう亜希の意向を無視するわけにはいかなかった。
「詳しい仕事内容は、おいおい教えていくからさ。まず、千尋ちゃんには、繰り返しになるけど、適性検査を受けてもらうよ」
 すでに亜希は、勝ち誇った仕草を見せ始めていた。
「ふざけないで。本気で言ってるの……?」
 なぜ、わたしは、こんな馬鹿げた話に付き合っているのか。自分でも不思議に思えてならない。
「嫌なら別にいいけどね。でもね、千尋ちゃんが働かないつもりなら、安城さんの家族は全員、パパに追い出してもらうよ。そのためには、なんだって言っちゃうから、わたし……。千尋ちゃんが、わたしに嫉妬して、ひどい暴言を吐いてきたのー、……って言おうかな。どんな嘘であろうと、加納さんが、証人になってくれる予定だからね」
 千尋は、亜希の悪知恵に言葉を失った。亜希の性根の悪さは、底無しだと思い知り、背筋が寒くなったほどだ。
「どっちにすんのお?」
 腹立たしいが、亜希は、すでに勝った気でいるらしい。 
 
 千尋は、怒りで熱くなった頭の中で、逡巡していた。だが、頭の片隅では、半ば結論が出ていた。
 今、菅野社長に見捨てられたら、家族全員が、社会の闇に呑み込まれてしまう。わたしひとりが、すべてを耐えることで、少なくとも、その間は、家族が救われるのだとしたら……。
「ほらぁ! どうするのか答えなさいよ!」
 加納に怒鳴られて、千尋はびくりとした。
「……ここで、働くわ」
 聞こえるか聞こえないかの声量で言う。
「聞こえなーい!」
 加納が、大げさに文句を付けてくる。千尋は、小さく溜め息をついた。
「この家で、……働きます」
 千尋の敗北宣言によって、亜希と加納は、顔を見合わせて笑った。そして加納が、つかつかと歩いてきて、千尋のかたわらに立った。
「お嬢さまに、ちゃんと頭を下げるのよ。千尋お・じょう・さま」
 語尾には、もう令嬢でも何でもない千尋に対する皮肉が込められていた。



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