堕ちた女体と
華やかな晩餐
第六章
1



 頭の中にモヤのようなものが入り込んできて、思考能力が落ちていった。しかし、正気を保っていられなくなるような恐怖だけは、意識の中心から膨れ上がってくる。
 目の前の光景が、ぶれて霞んでいる。
 千尋は、体を動かすことも、声を出すこともできなかった。

「お嬢さまから言われたことが、聞こえなかったのかなあ、千尋は。もう……、仕方ないわね。わたしが『アレ』を持ってくるから、すぐに出せる準備をしておきなさいね」
 加納が、促すように千尋の背中を撫でた。
「ひっ……。え、えぇ……」
 いきなり体に触れられて、千尋は、小さな悲鳴を上げていた。加納の言葉は、千尋の頭には、まったく届いていなかった。
 時間の感覚もおぼつかない。
 記憶を失って、気づいたら砂漠のど真ん中に立っていた人のように、千尋は、きょときょとと視線をさまよわせていた。
 
 やがて、背後から加納の声が聞こえた。
「お嬢さま、申し訳ありません。この子ったら、ちょっと前に、大きいほうも出してしまったようで、臭いが、ものすごいんですよ……。もうすぐ食事ですし、朱美さまが、これをどう思われるかと心配なんですが……」
「え!?」
 亜希が、目を丸くして驚きの声を発した。
 朱美も、視線を真っ直ぐに加納のほうに向けている。
 事の成り行きがうまく呑み込めず、千尋は立ち竦んでいた。だが、背後から漂ってくる禍々しい気配は、ひしひしと肌で感じている。
 朱美は、魅入ったように目を向けていたが、その表情が、しだいに変化していった。頬が引きつり、唇がへの字に曲がる。
「えっ、やだ……。あの茶色っぽいのって……。もしかして……」
 その時、亜希が物静かな声で告げた。
「加納さん。千尋ちゃんのトイレはそれしかないんだから、しょうがないですよ。テーブルの上に置いて下さい」
 驚きを浮かべていた亜希の表情は一変し、その口もとは、白い歯を覗かせて不気味に緩んでいた。
 それを聞いた朱美が、小さく呟く。
「え。待って、うっそお……」
「かしこまりました」
 加納が、千尋の横を通り過ぎ、亜希と朱美の待つテーブルに歩いていく。
 
 著しく思考能力の低下している千尋だったが、加納の持っているものに、目が釘付けになった。そして、それがテーブルの上に載せられた時には、目を剥いた。
 向かい合わせに座っている、亜希と朱美に挟まれる位置に、千尋が用を足した、透明なガラスの容器が、熱帯魚の水槽よろしく鎮座しているのだ。当然、二人の少女の目は、容器の中のものに向けられている。
 そこから放たれる臭気は、少し離れたところに立つ、千尋の鼻孔にも流れ込んでくる。千尋は、ショックのあまり、思わず口もとを手で覆っていた。

「ごめんね、朱美ちゃん。まさか千尋ちゃんが、うんちまでしちゃってるとは思わなかったのぉ」
 亜希の顔の上半分は苦々しそうに歪んでいたが、下半分、その口もとには、うっすらと笑みが浮かんでいた。容器の中に、黄色い液体だけでなく、茶褐色の塊までもあったことは、亜希にとっては、愉快な誤算だったに違いない。
「ねえ、ちょっと息ができないよ、亜希ちゃん。どうにかして……」
 朱美は、鼻を摘んで訴える。亜希とは違い、心の底から不快に感じている様子だった。
「うん、ごめん朱美ちゃん。少しの間だから我慢して」
 亜希は、苦笑しながら友達を取りなしている。そうして、ゆっくりと千尋のほうに顔を巡らせた。
 千尋は、亜希と目が合った瞬間、ぎりぎりと全身を締めつけられるような感覚を味わった。亜希の表情に表れた、剥き出しの軽蔑と嘲り。
 そして、朱美も、顔をこちらに向ける。まるで、あんたのせいで、こんな臭いを嗅がされている、とでも言いたげな、怒りすら含んだ表情だった。
 最後に加納が、千尋の反応を窺うように振り返った。
 人間としての恥の極みの塊。恥の極みの臭い。それを初めて亜希に見られ、嗅がれる時を、千尋は怖れていた。しかし、やってきた現実は、予想以上に残酷だった。まさか、亜希の友達までいるところに晒されるとは。
 苦しい……。自分だけ、酸素の無い部屋にいるかのように、千尋は喘いだ。どこ……。わたしの出口は、どこ……?



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