バレー部キャプテンと
よこしまな少女たち
第十五章
クラスメイト
6



 教室が近づいている。そこでは、滝沢秋菜が待っているという。同じクラスになって数ヶ月。珍しく、涼子が苦手意識を抱くクラスメイトだ。涼子に接した時の彼女の言動、ちょっとした仕草などが、走馬灯のように脳裏によみがえる。
 そして、自分の体液で汚れた、彼女の体操着。この数日は、そのことが頭にこびり付き、後ろめたさと申し訳ない思いで、彼女の前に立つことさえできなかった。
 その彼女に対し、これから、自分がやろうとしていること……。
 自分と彼女との間に、まさか、こんな日がやって来るとは思わなかった。
 夢の中の世界にいるかのように、体の感覚が頼りない。脚は、陶器のように冷たくなっている。何もかも捨て去って逃げ出したい。今となっては、彼女と顔を合わせること自体が、怖ろしい……。
 
 涼子は、前を行く三人に付き従うように廊下を歩いていた。香織たちの作ったメッセージ、つまり滝沢秋菜の『保健』の教科書は、今は、涼子のバッグの中に入っていた。
 香織が、振り返って嬉しそうに言った。
「ねえねえ……。滝沢さん、そのメッセージを見たら、すごいショック受けると思わない? 放心状態になったり、するかな?」
 ショック……、か。それはもう、ショックを受けるだろう。こんなものを見せられては。涼子とは違い、滝沢秋菜は、まだ普通の高校生活を送っているのだ。さぞかし悲しみに暮れるに違いない。
 だが、涼子の思いは、一つだった。滝沢さんより、わたしのほうが、つらいような……。

「あー……、それと、滝沢さんに言うセリフ、ちゃんと全部、憶えたんだろうね? 一個でも言い忘れたら、あたし、許さないからね」
 香織に釘を刺される。
 メッセージを渡すだけではなく、香織の用意した、いくつかのセリフを、涼子の口から、滝沢秋菜に聞かせなくてはならないのだ。メッセージを受け取った彼女に、より一層の恐怖を与えるためだと、香織は言うが……。
 涼子は、そのセリフを頭の中で繰り返し暗唱し、思うのだった。滝沢さんがどうのというより、むしろ、それを言うわたしのほうが……。
 と、そこで、涼子は、漠然とした違和感を覚えた。理屈ではない。直感に引っかかるものがあるのだ。何かが違っているという感じがある。その感覚は、加速度的に強まっていった。いや、今回が初めてでは、ない気がする。なぜかはわからないが、なんとなく、今日この日に起こった出来事のすべてが、根本的に噛み合っていないような……。あるいはまた、正面にある恐怖だけに気を取られていると、別の方向から迫ってくる怖ろしいものに、まったく対処できなくなりそうな、そんな得体の知れない、不気味な感覚だった。
 直感が、訴えていた。ここで判断を間違えたら、致命的だ……、と。
 しかし、今の涼子には、物事を冷静に吟味することなど、土台無理な話だった。眼前に差し迫った恐怖に、押し潰されそうになっているのだから。

「じゃあ、終わったら、携帯に電話するから」
「あー、あたしも、南せんぱいと滝沢せんぱいのやりとりを、見に行きたかったなあ。香織先輩、どんなふうだったか、後で教えて下さいね」
 さゆりと明日香の二人は、教室には同行しないのだった。滝沢秋菜に怪しまれるからという理由らしい。
 
 香織に付いて、涼子は、最後の角を曲がった。もう、遠くに自分の教室が見えている。そこに足を踏み入れ、一歩間違えれば、何かの仕掛けによって、自分の体がばらばらに切り裂かれてしまう。そんな場所に向かっているような恐怖感だった。今日は、無事に家に帰れるだろうかと、不安になる。家に帰り、風呂の湯船に浸かっている自分の姿が、想像できないくらいだった。
 滝沢秋菜が、机に腰掛けて待っている姿が、眼前に思い浮かぶ。その彼女に、これから、自分がやろうとしていること……。
 ふいに、胃液が逆流してきて、涼子は思わず口もとを押さえ、背中を丸めた。口の中は、胃酸の酸っぱさで一杯になる。
「ねえ……、吉永さん。わたし、やっぱり駄目だよぉ。……怖いのぉ」
 涼子は、低く震える声で、本音を口にした。
 だが無情にも、香織は、苛々した様子で、こっちへ来い、と手を振っている。声を上げないのは、教室にいる滝沢秋菜の耳を気にしているからなのか。
 
 それでも涼子が立ち止まっていると、背後に足音が迫ってきて、背中を押された。ぎょっとして見やると、それは明日香だった。
「トトトトトトトトト……、っと」
 明日香は、奇妙なかけ声と共に、両手で涼子の体を前に押しやる。直前になって、涼子が怖じ気づくことなど、最初からわかっていたふうである。
 そうして前に進まされると、苛立った香織が、二の腕を引っつかんできた。小柄なわりに、びっくりするほどの握力を感じる。その手にぐいっと体を引っ張られ、涼子は、泣き声を上げそうになった。
「早く、来なさいよ……」と、香織は声をひそめて言う。
「りょーちん、頑張ってねぇーん」
 明日香が、涼子の背中へ、小声でそう投げかけた。
 
 もう、覚悟を決めなくてはならない。やるしかなかった。やるとなったら、自分に誓わなくてはいけないことがある。何があっても、『滝沢秋菜に謝ること』だけはしない……、と。
 自分の教室のドアの前まで来た。それでも、やはり、完全に覚悟を決めることはできなかった。涼子は、最後の可能性に思いを託していた。彼女は、香織との約束をすっぽかして、すでに帰っているかもしれないのだ。そうだ。二人は、仲が良いわけでもないのに、放課後、教室でたったひとり、待っているなんてことが、本当にあるのだろうか……。



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