バレー部キャプテンと
よこしまな少女たち
第十六章
二年前
4



 そして、秋菜について考える時、必ず思い出す出来事がある。あれは、高校入学後、初めての中間試験が、そろそろ始まろうかという時期だった。
 同じく美術の授業で、教室は、騒がしかった。それぞれの机には、マグカップやワイングラス、フォーク、スプーンなど、いくつかの食器類が置かれていた。生徒たちは、それらを鉛筆でスケッチブックにスケッチしていた。その日は、芝田さんが欠席だった。

「ああー、なんか飽きてきちゃった……」
 秋菜は、ぐたっと机に突っ伏した。ややあって、その手が、おもむろに動きだした。机の端に寄せられた、持ち主不在のスケッチブックをつかむ。芝田さんのものだ。
 スケッチブックは、サイズが大きいこともあって、生徒たちは持ち帰らず、普段は、美術室の棚に、班ごとに分けて置かれている。授業が始まる前に、班長が、自分の班のものをすべて、机に持っていく。そのため、欠席の芝田さんのスケッチブックも、机にあるのだった。
 秋菜は、体を起こすと、気分転換なのか、それをぱらぱらとめくり始めた。隣の未央も、興味ありげに覗き込む。
「可もなく不可もなく……、ってところかな」
 秋菜が、無機質な声で呟いた。
「あれ? でも、この『花』……、なんか、変」と未央。
「あっ……。わかった。色々と、自分でアレンジして描いてるんだ……」
「はあ、なるほど。……ホントだ。この『胸像』の絵も、マフラーみたいなのを、付け加えてるし……」
「わたしには、芸術のセンスがあるから、それを先生に見てもらおう……、みたいに、勘違いしてんのかな?」
「ありえる、ありえる」
 秋菜は、スケッチブックを膝にのせて開いているので、彼女たちが、どの絵を見ているのかは、こちら側からは確認できない。
「そうだ。そんなにアレンジしたいんだったら……」
 秋菜は、そう言って鉛筆を持ち、あろうことか、そのスケッチブックに、何かを書き込み始めたのだった。
「こんなふうに……。やっぱり、胸像の『目』も、ちゃんと細かく描いてあげないと……。可愛らしく、くりくりくり……、っと」
 それを見て、未央が、吹き出しそうになる。
 秋菜の言っていることからすると、どうも、芝田さんの描いた、石膏の胸像の絵に、いたずら書きを始めたらしい。
 うわぁ……、引く……。さすがの香織も、そう思った。(高三になって涼子と同じクラスになるまでは、香織は、人に重大な危害を加えるような人間ではなかった。)
 けれども、教室は、がやがやとしていて、教師も、よその班の生徒も、秋菜たちの言動に注目したりはしない。
「髪型も、アレンジ。こう……、芝田さんっぽい髪型に……」
 秋菜は、鉛筆を動かし続ける。その口もとには、背筋の寒くなるような、サディスティックな薄笑いを浮かべて。
「ああっ、なんか、だんだん、芝田さんに似てきてない!?」と未央がはしゃぐ。
 香織の両隣にいる二人の生徒は、むろん、その、悪ふざけの域を超えた行為に、気づいているはずだった。だが、香織と同様、秋菜のことは、まるで見えていないかのように振る舞い、目の前にある食器のスケッチに、集中しているフリをしていた。

「あっ……、ちょっと失敗しちゃった。ダメだわ、これ」
 秋菜が独りごち、舌打ちした。
 次の瞬間、聞こえてきた音に、香織はぎょっとした。びりびりと紙を破る音。
 愕然とすることに、秋菜は、今度は、落書きを加えていたページを、勝手に破り取ったのだ。何食わぬ顔をして。そして、それをくしゃりと潰し、両手で丸めると、体の向きを変え、ゴミ箱へぽーんと放った。紙屑は、壁に当たってゴミ箱の中に落ちた。
「よし、次いこう、次……」
 秋菜には、罪の意識というものがないのか、再びページをめくりだす。未央は、くくくっと笑っている。
 一線を越えてる……。香織の頭に、そんな言葉すら思い浮かぶ。なんて、性格が悪いんだろう……。(高三になって、香織が涼子に対してやったことに比べれば、この時の秋菜も、可愛いものかもしれないが。)
 香織の両隣の二人からも、息を呑むような緊張の気配が伝わってくる。
 結局、秋菜は、次に落書きしていたページも気に入らなくなり、破って捨てた。三枚目で、そこそこ愉快な仕上がりになったらしく、芝田さんのスケッチブックを、ようやく閉じた。
 
 滝沢秋菜。人のスケッチブックの絵を、平気で破るような女。香織は、彼女の冷酷さに、恐怖すら覚えた。
 この時の出来事は、三年になった今でも、秋菜のことを考える時には、決まってフラッシュバックする。
 そして、香織は、秋菜と未央、この二人と同じ班であることが、心の底から嫌になった。自分自身は、性格の悪い人間だが、自分の周りに、自分以上の悪人には、いてほしくない。それが、香織の考え方だった。
 
 ところが、少々意外なことに、秋菜の攻撃性は、日が経つに連れて、しだいに目立たなくなっていった。とにかく、芝田さんへの攻撃が減った。ついに教師から注意を受けた、あるいは、いたずら書きなどの悪事がバレて、こっぴどく叱られた、というわけではなさそうだった。それでもなぜか、一学期の終わり頃には、もう、秋菜が、芝田さんを馬鹿にするような場面は、ほとんど見受けられなくなった。
 
 二学期に入ると、秋菜は、オールバック気味だった髪を、自然な形に下ろしていた。それだけで、刺々しい印象が、ずいぶん薄らいだ。外見の変わりぶりと同様、その言動も、さらに丸くなった。芝田さんに対する接し方で、それがわかった。体がぶつかったら、一応は謝るようになったし、芝田さんのスケッチブックが、自分の近くにあれば、それを取ってやったりもしていた。当然といえば当然なのだが……。 芝田さんの表情も、一学期の頃に比べると、心なしか明るくなったように見えた。
 そして香織は、秋菜が、極めて学業優秀な生徒であることを知った。彼女のことは不良だと思っていたが、どうも、少し違うようだ、と香織は感じ始めた。というより、もう、生活態度は普通の生徒だった。
 では、入学して間もない頃の秋菜は、何だったのか。香織は、予想する。あれは、いわゆる『高校デビュー』のようなものだったのではないだろうか。あの、気性の激しそうな髪型も。気の弱そうな芝田さんを攻撃していたのも。悪意を前面に出すことで、彼女は、高校生活における人間関係で、少しでも優位に立とうとした。きっと、そんなところだ。
 だが、それは短い期間で終わった。その理由は、彼女にしかわからない。単に、そういうことに飽きたから。自分が、子供じみている気がしてきて、恥ずかしくなったから。あるいは、怖い、性格が悪い、と周囲から見られるデメリットに、気づいたのかもしれない。要するに、思春期の少女の、気まぐれである。
 しかし、表面上は普通の生徒に落ち着いたからといって、秋菜から毒気が消えたわけではない。その毒が、剥き出しにならなくなっただけのことだ。香織は、確信していた。秋菜の本質は、あの、人のスケッチブックの絵を、平気で破った姿なのだと。



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