バレー部キャプテンと
よこしまな少女たち
第十九章
しんしんと
2



 今。
 香織は、後輩の石野さゆりと共に、体育倉庫を出たところだった。これから向かう先は、バレー部の練習場である体育館だ。
 やや歩行速度を落とし、さり気なく後輩を先に歩かせるようにする。前を行く後輩が、こちらに注意を向けないことを祈りながら、右の手のひらを、そっと自分の鼻に当てた。
 
 先ほど、体育倉庫の地下での出来事である。
 涼子のボディチェック。腋毛の処理は禁止、という言いつけを、ちゃんと守っているかどうか、涼子に両腕を上げさせて、腋の下を検分した。結果は、文句なし。むしろ、毛深い子は、数日間、手入れを行わないだけで、こうも汚らしい状態になるのかと、ある意味、舌を巻くほどだった。続いて自分の取った行動は、少し悪乗りが過ぎたな、と自覚している。香織は、涼子の腋の下に、容赦なく、べたりと右手を押し当てた。揉み込むように皮膚を撫でると、伸び始めの硬い毛が、手のひらに、寒気を催すような感触を伝えてきた。手のひら全体に、じっとりとした腋汗を充分に付着させてから、その手で、自分の鼻を覆った。息を吸い込むと、脳を覚醒させられるような刺激臭が、鼻腔に流れ込んできた。あの時、涼子は、もう見るのも嫌だというふうに、その香織の行為から目を背けていた。そんな涼子に、さらなる屈辱を与える方法を、香織は思いついた。臭気のこびり付いた自分の手のひらを、涼子の鼻先に当てた。舐めるように命じた。あんたの腋汗の臭いを、舐めて落として、と。それを聞いた涼子のなかで、プライドとの激しい戦いが起こっているのが、ひしひしと感じ取れた。当然だろう。しかし結局、涼子は、例のごとく服従したのだ。だらしない涼子の顔つき。その唇から出ている、淡いピンク色の舌。指の間まで這う舌の、ぬめぬめとした生温かい感触。あの、肌のあわ立つような背徳感を、きっと自分は、生涯忘れないだろうと思う。
 
 あれから、すでに二十分ほど経っている。それでもまだ、手のひらの匂いを確かめると、涼子の唾液の臭気が、そこはかとなく残っているような気がしてならないのだった。
 くっせーな。侮蔑を込め、香織は、内心でつぶやいた。いったい、涼子に対して、幾度、そう思ったことだろう。唾液で上塗りされる前に、手のひらにこびり付いていた涼子の体液、あの腋汗の臭いも、思い出すだけで頭痛がするくらい強烈だった。だいいち、涼子は、部活の練習中に呼び出したりすると、目の前に立った瞬間から、ぷんぷんと汗臭さが伝わってくる有様なのだ。着ているTシャツが、どれだけ大量の汗を吸っているのかと、まったく、苦笑してしまう。
 鼻を摘まみたくなるような臭いの記憶は、同時に、涼子の体の、視覚的に汚らしい部分を想起させる。手のひら大に密生した腋毛。下のほうに視点を移動すると、陰毛も同じく、海藻のごとく多量にはびこっている。さらに、なんといっても、あの最悪に汚い穴である。おびただしい縮れ毛の奥に覗く肛門は、便の付着が視認できそうなくらい、不潔極まりないものに見えた。
 そういう涼子に関する数々の知覚情報が、頭の中に集積している。そんなわけで、今では、南涼子というと、どうしても、不潔で、臭い、ブタのような生き物、といったイメージが付きまとってくる。……これは頂けない。幻滅もいいところではないか。にわかに、涼子のことが腹立たしくなってきた。次に顔を合わせたら、このブタが、と罵倒してやろうかとも思う。
 しかし、とまた、自分に反論する。
 こればっかりは、香織たちが悪いのだ。涼子は、いつだって抵抗していた。女としての矜持にかけて、自分の体の恥ずべき部分を、必死に覆い隠していた。香織たちが、それを、無理やり暴き立てたのだ。腋の下に手を押し当てたり、パンツを引きずり下ろしたり。そうした行為の結果、その被害者たる涼子に、怒りを向けるというのは、我ながら筋違いだと感じる。
 
 そもそも、思い返してみればいい。香織にとって、涼子が、まだ、雲の上の存在に見えていた頃。涼子に対して、女を捨てているような印象を持ったことが、一度でもあっただろうか。女子校という環境下、男子の目を意識しないため、生徒たちの言動や素行に含まれる恥じらいは、霧のごとく希薄化している。汚い言葉が飛び交うのは、日常茶飯事だし、下ネタで大いに盛り上がる声が、教室中に響くような事態も、珍しくない。だが、涼子が、その発信元となっていたケースは、いくら記憶を探っても思い起こせなかった。むしろ、涼子の場合、そういう下品な空気を、どことなく避けながら、また受け流しながら、周囲とコミュニケーションを取っていたようにも思うのだ。クラス全体を見ると、はしたない、汚らしい、と感じる場面には事欠かない。体育の授業で着替える時になると、上は下着の格好で歩き回る子の姿も、目に入ってくる。ジャージや靴下など、見るからに汚れた衣類が、なぜか床に放置されていることもある。しかし、そうした出来事と、涼子の性格との間には、まるで水と油のような線引きがあることを、香織はよく知っている。
 
 バレー部のキャプテンという肩書き。また、それにふさわしい堂々とした体格。いかにも部活少女らしいショートヘア。それらが相まって、涼子からは、たしかに野性味みたいなものを感じさせられる。しかし、普段の涼子の、クラスメイトと接する時の立ち振る舞いを観察していると、そんなワイルドな印象は、肩透かしを喰うように薄れていくのだ。友人たちに『バイバイ』をする、その声音は、アルトボイスながら実に柔和で、無邪気に手を振るジェスチャーは、見ていて微笑ましい気持ちにさせられた。意外と照れ屋の一面もあるのか、交友関係のない子に話しかけている時には、表情や一つ一つの動作が、どうにもぎこちなかったりする。思いがけない事態に困惑すると、気後れをごまかすかのように、ショートの髪を両耳にかける仕草をするのは、涼子のくせだ。世の中で起きた猟奇的な事件の内容を、友人から聞かされると、大げさなくらい怯え、艶っぽく肩を抱きながら、悲鳴じみた声を発していたこともあった。何か、重大なへまをしてしまったらしく、バレー部の仲間から、慰めのように頭を撫でられていた涼子の、あの、赤裸々なはにかみ顔……。
 そう。日頃、香織の見聞きしてきた涼子の言動集からは、むしろ、乙女的ともいえる気品ばかりが伝わってくるのだ。総合的に見て、涼子は、クラスの中で間違いなく上品な部類に入る生徒である。あろうことか、そんな生徒のことを、まるで家畜みたいな生き物として捉えてしまう自分の心理は、まさに錯覚としか言い様がない。それも、非常に愚かな錯覚だ。
 
 もういい加減、自分が苦心に苦心を重ねて捕らえた獲物を、いたずらに過小評価するような思考は、ストップしよう。
 今一度、初心に立ち返ってみればいい。
 彼女に夢中になり始めたばかりの、あの頃の気持ちに。
 何がなんでも、彼女と仲良くなりたい。心の底から、そう願っていた。けれども、気の弱い自分は、彼女に声をかけることさえできなかった。そのやるせない思いゆえだろう、何度も、彼女の登場する夢を見た。夢の中で、彼女とお喋りしている間は、とても幸せな気分だった。途中で、薄々、これは夢だと気づき始めると、目が覚めないよう、精一杯、意識のコントロールを試みた。夢ならば、いっそ、思いっ切り彼女に甘えてみよう。そんなふうに欲を出したとたん、たいてい、現実世界の、布団の中に帰ってきてしまう。
 夢の中ですら、彼女をひとり占めすることは叶わない。それほどまでに遠い遠い、憧れの人……。
 現在、自分の作り上げたオリの中に入っているのは、その女なのだ。自分でも信じられないくらいだが、それは、紛れもない事実である。そして、当然のことながら、オリの主である自分は、その彼女の生殺与奪の権を握っている。彼女の人生を一刀両断に断ち切るも、じわじわと時間をかけて責め苦を与えるも、はたまた神のような慈悲でオリから解放してやるも、すべては自分の意思ひとつである。
 普通に考えて、これは、とてもすごい状況だろう……。背筋を伝うようにして、得も言われぬ感情が込み上げてくる。ぴょんぴょんと、飛び跳ねて歩きたい気分だ。この充足感、多幸感を、一時も忘れることなく常に噛み締めながら、自分は今を生きるべきなのだ。



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