バレー部キャプテンと
よこしまな少女たち
第十九章
しんしんと
11



 しかし、さらにその翌日、つまり今日、香織のそんな希望的観測を打ち砕く、決定的な出来事が起こった。
 古文の授業中のことだ。
 教壇に立っているのは、山辺という名の、五十代後半と思われる女の教師だった。小柄で、丸眼鏡をかけており、いつも柔和な表情を浮かべている、いかにも人のいいおばさん、という感じの人物である。
 その山辺教諭が、いきなり驚いた声を上げた。
「あっらぁ……。南さんっ、南さんっ」
 それを聞いた香織は、斜め前方の、涼子の席に目を向けた。
 涼子の背中が、はっと我に返ったように見えた。
「珍しいわねえ、あなたが、居眠りするなんて……。でも、駄目よお。部活で大変なのはわかるけど、勉強のほうを、おろそかにするようになっちゃ……。なんていったって、三年生なんだから。ねっ?」
 山辺教諭は、優しくさとす。
 涼子のほうは、後ろからでも見て取れるくらい、周章狼狽していた。
「あっ……。すいませんっ! 気づいたら、うとうとしちゃってて……。わたしっ、気合い、入れますんでっ」
 そう口にすると、両手で、自分の頬を二度、強く打ったのだった。ばちんばちん、という乾いた音が、小気味よいくらい教室に響いた。
 山辺教諭は、そんな涼子の体育会系っぷりに、あらあらと、半ば呆れたような顔をする。が、すぐに慈悲深い微笑みを見せ、授業を再開した。
 実のところ、香織は、その時点ですでに衝撃を受けていた。なにしろ、香織の知っている涼子は……。ほかの誰より真剣に、また積極的に、授業に臨む生徒だった。挙手しての質問や回答といった、授業中の発言回数の多さにおいては、クラスで頭ひとつ抜けているだろう。もしかすると、教師たちの、涼子に対する好感度の高さは、生徒会長と同等か、あるいはそれ以上かもしれない。その涼子が、あろうことか、授業中に居眠りだと……? 青天のへきれきといっていい。
 ところが、それだけでは終わらなかったのだ。
 それから、十五分ほど過ぎた時である。
 山辺教諭は、突然、嘘みたいな大声を発した。
「ちょっと! 南さんっ!」
 香織は、きもを潰した。クラス全体に、緊張が走った。
 一拍遅れて、涼子の背中が、びくりと跳ねた。どうやら、また眠っていたらしい。
 教諭の顔には、先ほどと違って、強い怒気が表れていた。つり上がった目じりと、ぴくぴくとけいれんを起こしている頬。普段の柔和な表情からすると、その顔もまた、冗談のように見えてならなかった。彼女は、絞り出すような声で言う。
「もういいですよっ。わたしは、二度と、あなたのことを信用しませんからねっ。そんなに眠くて仕方ないなら、どうぞ、好きなだけ、そうやって寝ていなさいっ!」
 のけぞった涼子の背中が、なんとも痛々しい。今や、狼狽を通り越して、ほとんどパニックに陥りかけているように思われた。涼子は、勢いよく椅子から立ち上がった。
「すっ、すいませんっ! わ、わたしっ、廊下で、立ってます!」
 言い終わるが早いか、自分の椅子も机も弾き飛ばすようにして駆け出し、ばたばたと教室から出て行く。
 山辺教諭は、その後もしばらく、わなわなと肩を震わせながら、放心したように口を利けないでいた。
 どう考えても、山辺教諭の憤りぶりは、尋常ではなかった。そもそも、この古文の授業で、居眠りをする生徒など、これまでにいくらでもいたのだ。だが、たいていの場合、それらの生徒たちは見過ごされてきた。それが、今回は大きく違った。南涼子だから、だ。可愛い教え子である涼子だからこそ、山辺教諭は、上空から落とされるような失望を味わったのだろう。そのことによる激しい怒りが、彼女を鬼に変えてしまったのだ。
 しかし、香織は、それ以上、山辺教諭について思いを巡らすことはなかった。次の瞬間には、もう、廊下に飛び出した涼子のほうに、意識が完全に移っていたからである。
 
 南涼子を南涼子たらしめている、最大の要素。それは、愚直なまでの真面目さ、にほかならない。その涼子が、授業中に居眠りをする。しかも、二度も。衝撃的というより、もはや、自然の摂理に反することが起こったような、そんな印象を受ける。
 おそらく涼子は、夜、布団に入っても、ろくに睡眠の取れない体になっているのだろう。極度のストレスによって、自律神経とか、そういう機能が、完全に狂っている状態なのだ。だから逆に、日中でも、体が睡眠モードに切り替わりうるし、もし、そうなると、溜まりに溜まった眠気が猛然と襲ってくる。ほとんど体力の残っていない今の涼子にとって、その睡魔に打ち勝つことは、崖をよじ登るよりも難しい。その結果、眠るというより、半ば気絶するように意識が暗転してしまう。きっと、そんなところだろう。
 とにかく、今の涼子が、生きるしかばねのごとき健康状態にあることだけは、確実といえる。そうでなければ、あの涼子と、授業中の居眠りという行為が、結びつくわけがないのだ。まさか、何者かが、涼子に睡眠薬を盛ったとか、そんなことはあるまい。
 その時、香織は、はっきりと悟ったのだった。現時点ですでに、涼子は、学校という境界線の、ぎりぎりのところまで追い込まれている状態なのだ、と。つまり、これ以上、その身を外へと押し出す力が働けば、もう、学校には留まっていられなくなる可能性が高い、ということ。それを思うと、否が応でも、ひとつの懸念が脳裏に浮かぶ。あの、よこしまな後輩たちが、どう出るか。もし、くだんの映像を端緒にした、涼子への逆風が、学校中で吹き荒れるようなことになったとしたら……。
 おそらく、涼子は、その時……、学校を飛び出してしまうに違いない……。そう確信するに至り、香織は、茫然自失の状態に陥った。
 気づけば、思考という思考が停止し、感情が麻痺し、そればかりか身体感覚までもが失われていた。
 自分の内側の世界が、空洞と化していることを感じる。
 が、間もなく、のどをかきむしりたくなるような感覚を抱いた。その感覚の正体が、激しい焦燥感であることに気づく。
 意識の中心から急速に膨らんでくる、烈々たる一念。
 涼子が学校を去る、その前に、先手を打たなくては……。
 香織の脳裏では、早くも、結論めいたものが、ぼんやりと形成されつつあった。
 明日だ……。明日、涼子をどこかに呼び出す。そして、涼子との関係に、自分の納得のいく形で、決着をつける。それしかない……。



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