バレー部キャプテンと
よこしまな少女たち
第二十章
地獄からの脱出口
6



 部活の練習は、永遠に終わらないかのように思われたが、どうやら、時間は、ちゃんと流れていたらしい。
 午後七時過ぎ、涼子は、自分の前に集合した部員たちに、練習の終了を宣した。
 最初に部室を使用できる三年生の部員たちが、三々五々、フロアを出て行く。
 だが、涼子は、彼女たちの後に続くことはせず、ひとり、壁にもたれかかっていた。これ以上、人と行動を共にするだけの余力は残っていなかったのだ。やむなく、壁に右腕を当て、そこに額をのせた。すさまじい疲労感が、体中の細胞に張りついている。まるで、血の最後の一滴まで絞り尽くしたかのような感覚だった。今や、指一本、動かすことさえ、しんどいくらいである。それに、意識も混濁しており、フロアに残っている、一、二年生の部員たちの喧騒が、どこかの遠い事象のように感じられてならない。いっそ、このまま倒れてしまってもいい、と思う。しかし……、果てしなく続いた、拷問のような時間は、ついに終わったのだ。それは、紛れもない事実だ。
 涼子は、むくりと顔を上げた。わたしは、最後まで乗り切った……! ようやく、家に帰れるのだ。この時を、ひたすら待ち続けていたではないか。出よう。この、監獄のような場所からは、一分一秒でも早く、出よう。そう思い直すと同時に、脚が動き始める。まるで、ゾンビと化したような、ふらふらとした足取りだった。しかし、着実に、前に進むことができる。だいじょうぶ。これなら、なんとか、家までたどり着ける。その安堵と喜びを胸に、フロアの出入り口を通ろうとした。
 
 その時、背後から、とんとんと肩をつつかれた。
 涼子は、誰だろうと思って振り返る。
 そこには、紺色のジャージの上下を着込んだ、マネージャーの竹内明日香が立っていた。どれだけ憎んでも憎み足りない相手であるが、相も変わらず、この学校には場違いなほどの美少女だと思わされる。実のところ、未だに、間近で顔を見合わせている時など、そのフランス人形じみた美貌ぶりに、不覚にも、息を呑むような気持ちになってしまう。しかし、だからこそ、とてつもなく穢らわしい存在に思われてならないのだった。今、その明日香の顔には、ほんのりと微笑が浮かんでいる。
「……なに?」
 涼子は、疲れ切った声を出した。
「りょーちん、色々と疲れてんでしょっ。今日は、久しぶりにぃ、体の、マッサージしてあげる」
 明日香は、柔らかい口調で言う。
「いや結構……」
 涼子は、即座に断り、明日香に背を向けようとした。
 だが、涼子の着ている白いTシャツの左袖の部分を、明日香は摘まんで引っ張ってきた。
「いいからいいからぁ、遠慮しないでっ、りょーちん」
 涼子は、大きくかぶりを振った。
「遠慮とかじゃないのっ。わたし、今日は、もうすぐに帰りたいの」
 すると、明日香は、すねたような表情をした。
「そんなに急いで帰ること、ないでしょっ。あたしが、りょーちんのこと、マッサージでぇ、気持ちよくしてあげるっ」
 涼子は、震える吐息を吐き出した。
「いいって言ってんでしょっ……。とにかく離してよっ!」
 Tシャツを握っている明日香の指を、手で押しのけようとする。
 しかし、明日香は、かたくなに涼子のTシャツを離そうとしない。
「あたしは、りょーちんのこと、癒してあげたいだけなのっ……。それなのに、そんな、つれない態度されると、なんか悲しいなぁ」
 そのしつこさに、涼子は、腹の底がけいれんするほど、うんざりさせられた。いっそ、明日香の腕をたたき落としてでも、今すぐ部室へと向かいたいところだ。しかし、弱みを握られているため、明日香に対して、乱暴な行為に出ることなど、決して許されない。なので、涼子としては、懇願するしかなかった。
「お願い、明日香……。わたし、今日は、色んなことがありすぎて、へとへとに疲れてるの。もう、本当に、立ってるのが、やっとなくらい。だから、今日だけは、もうすぐに帰らせて……。ね? お願い……」
 半分、涙声になっていた。
 明日香は、哀れむような目で、じっと涼子の顔を見つめる。それから口にした。
「りょーちんが、そんなに疲れてるんじゃあ、マネージャーとして、なおさら放っておけないよぉ。あたし、りょーちんの体、マッサージし終えるまでぇ、絶対に帰らないからっ」
 涼子は、その言葉を聞くと、失意のあまり、がっくりと首を垂れた。もはや、何を言っても無駄だと悟らされた。こうなると、結局のところ、立場の弱い涼子のほうが折れるしかない。いったい、何が目的なのか知らないが、明日香は、涼子の体をマッサージしたくてならないらしい。この女には、自分の体に、指一本、触れられたくないのだが、それは我慢するしかなさそうだ。それと、逆に考えれば、いい機会でもある気がした。明日香と二人だけで話せる。バレー部の合宿費を返してもらうためには、たとえ相手が悪魔であろうと、その心に訴えかける以外に方法はないのだから。
 涼子が観念したのを見て、明日香は、にんまりと笑った。
「さ、りょーちん、こっちこっち」
 弾むように言い、涼子のTシャツの左袖を握ったまま、フロアの出入り口を通っていく。それに引きずられ、涼子も、よろよろと館内通路に出た。
 愚かにも、まだ、明日香のことを、献身的なマネージャーだと信じ切っていた頃から、彼女による部員へのマッサージは、館内通路で行われるのが通例だった。フロア内で、あくせくと動き回っている、主に一年生の部員たちの、邪魔にならないよう、という配慮からである。



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