バレー部キャプテンと
よこしまな少女たち
第二十章
地獄からの脱出口
9



 しかし、それから何分も経たないうちに、またしても明日香と押し問答をすることになった。
 体育館の玄関で、涼子は、バレーシューズを脱ぎ、ランニングシューズを突っかけると、前を行く明日香に向かって抗議した。
「ねえっ! なんのつもりなの!? わたしのバッグ、返してよっ!」
 
 二人で部室に入ってから、間もなくのことである。
 涼子は、自分のバッグを探し当てると、かがみ込み、そのチャックを開けようとした。だが、それを見ていた明日香は、いきなり、涼子のバッグを奪い取ると、そのまま、部室を出て行ってしまったのである。
 そのため、今、涼子も明日香も、制服には着替えておらず、練習の時と同じ格好でいた。
 
 明日香は、玄関を出ると、こちらを振り返った。
「だいじょーぶ。あとで、ちゃんと返してあげるからっ」
 ぶっきらぼうに、そう答える。
「なんで!? わたしは、今、返してほしいの!」
 涼子も、引き下がらなかった。
「今はダメ」
 明日香は、ぷいっと横を向く仕草をする。
「どうして!? その理由を教えてっ」
 涼子は、強く問いただす。
「うるさいっ。ダメったらダメなのっ」
 明日香の態度は、取りつく島もない。
 これ以上、食い下がって、明日香の機嫌を損ねるのは、賢明ではないような気がし、涼子は、いったん口をつぐんだ。理由は不明だが、明日香は、どうあっても涼子にバッグを返さないつもりらしい。もしかすると、涼子が逃げるのを防ぐためかもしれない、と思う。だが、涼子としても、これだけは譲れない、というものを抱えていた。
「わかった……。なら、バッグは、明日香が預かってて。でも、わたし、何よりもまず着替えたいの。ものすごい汗かいてて、気持ち悪いし……。だから、せめて、着替えのものだけは、渡してもらえない? それならいいでしょっ?」
 そう言っているうちにも、汗で体に張りついたTシャツが気持ち悪くなってきたので、胸もとの部分を指でつまんで、ぱたぱたと扇ぎ、中に空気を送り込むようにした。いくらなんでも、この最低限の要求は受け入れられるはずだと思っていた。
 ところが、明日香は、首を縦に振ろうとはしなかった。
「いいのっ。着替えなんて、する必要ないのっ」
 その返答を聞いて、涼子は、あんぐりと口を開けた。
「えっ、えっ……。意味がわからない。必要ない、とかじゃなくて、わたしは、どうしても着替えたいの。だから、着替えのものだけは、渡してくれる?」
 なるべく、腹立ちを露わにしないよう、あくまでも穏やかな口調で要求する。
「着替えなんて、する必要ないって、言ってんでしょっ。りょーちんは、あたしの言うことに、黙って従ってればいいのっ」
 明日香は、眉間にしわを寄せている。
 理不尽にもほどがある。怒りのあまり、目のくらむような感覚を覚えた。
「どういうこと!? 着替えもさせてくれないなんて。わたしが着替えると、あなたにとって、何か不都合なことでもあるの!? ないでしょっ? わたし、この格好で誰かと会うなんて、嫌でしょうがないの!」
 涼子は、声を荒らげながら、自分の体を守るように両肩を抱いた。
 すると、明日香は、気だるげな表情をし、それから言った。
「香織にぃ、言われてんのっ。絶対に、りょーちんを、着替えさせないで連れてくるように、って。だから、その格好で、来いっ」
 吉永香織……。
 涼子を辱めることを目的としているグループの、主犯格の女。
 いったい、あの女は、どのような思惑で、明日香にその指示を出したのか。それは、考えても無駄だろうし、また、考えたくもなかった。しかし、なんにせよ、あの女に対しては、底知れぬ気色悪さを感じる。
 そして、ようやく、明日香が涼子のバッグを奪った、その意図を理解した。最初っから、バッグというより、その中に入っている、涼子の着替えの衣類が目当てだったのだ。明日香のかたくなな態度からするに、どう懇願しても、それを返してもらえる見込みはないだろう。取り返すためには、それこそ腕力を行使するしかない。しかし、そのような手段は、悪魔たちの策謀によって、完全に封じられているのだ。涼子は、自分の無力さが、心の底から恨めしくなり、下唇を噛んだ。
 
 明日香は、こちらに手を伸ばす。
「はい、りょーちんが、今、持ってるものは、バッグにしまってあげるから、よこして」
 涼子は、肘と膝のサポーター、それにバレーシューズを手に持ったままでいた。ため息がこぼれる。これらのものを、後生大事に自分で抱えていても仕方があるまい。その三点を、投げやりな手つきで明日香に渡した。
 明日香は、涼子のバッグのチャックを開け、それらを中にしまうと、すっきりしたような表情で言う。
「これでよし、と。じゃあ行こっか、りょーちん」
 そうして、くるりと体の向きを変え、体育倉庫へと歩き始めた。
 涼子は、少しばかり遅れて、その後ろを付いていった。
 
 数メートル先を行く、明日香の後ろ姿を、じっと見すえる。華奢な体のライン。おまけに、涼子が後ろを歩いていることなど、気にも留めていないかのように、油断しきっている様子である。いっそ、力ずくでバッグを取り返そうか、と思い始める。もちろん、涼子が欲しているのは、着替えの衣類だった。
 その気になれば、たやすいことだ。なにも、明日香に怪我を負わせるわけではないのだから、深刻に考える必要もないはずだ。まず、ほっそりとした彼女の身に、軽い体当たりを喰らわす。それで、彼女が驚いたその隙に、自分のバッグを奪い返す。一瞬で終わることだ。その後は、ダッシュで部室まで戻り、急いで着替えを済ませればいい。明日香は、烈火のごとく怒り狂うだろうが、それに対しては、ひたすら謝り続ける。ひょっとすると、暴力を振るわれるかもしれないが、明日香の非力さを考えれば、その痛みなど、蚊に刺されるようなものだろう。そして、こちらに、逃げる意思がないことを、どうにか伝えられれば、いずれ許されるはずである。そうだ。そうしよう。こんな、自分でも閉口するくらい、汗臭い格好で、バレー部以外の生徒と会うなんて、想像もしたくない。それに、今、体育倉庫の地下で待っているのが、もし、脳裏に浮かんでいる生徒だとしたら……。そのことを考えると、より一層、着替えておきたい、という思いが強まる。やっぱり、力ずくでバッグを取り返そう。今なら、まだ間に合う。絶対、行動に移すべきだ。
 涼子は、じりじりと明日香との距離を縮めていく。
 さあ、やれ……! そう自分に命令する。
 しかし、明日香の背中に向かって、あと一歩、踏み出す勇気が、なかなか湧いてこない。
 
 ふと、涼子は、さらに向こうへと視線を飛ばした。
 目的の場所は、すでに視界に入っている。夕闇の風景に溶け込んでいる、小さなやしろのような建物。周囲が暗いせいもあり、涼子の目には、その建物が、ことさら、おどろおどろしいものに映る。本当に、わたしは、あの場所に入っていくつもりなの……? 自分の正気を疑いたくなると同時に、冷たい恐怖が、足もとから這い上ってくる。それでも前に進み続けていると、だんだん、自分の格好を気にするだけの余裕すら、失われていく感じがした。
 
 結局のところ、涼子は、明日香に対して、なんら行動を起こすことなく、体育倉庫の前まで来てしまった。
 明日香は、鉄製のドアをがらがらと開けると、涼子のほうを見て、小馬鹿にするような含み笑いを浮かべた。その顔は、こう語っていた。何もかも、あたしたちの思いどおり……。
 涼子は、ドアの中の暗闇を、しばし凝視していた。まさに、いよいよ、鉄格子の中に閉じ込められるという心境だった。
 危険だ。危険すぎる。考え直したほうがいい……! そう本能が警告してくる。
 今一度、自分には、このまま帰るという選択肢もあることを思う。勇気を振り絞って明日香と戦い、バッグを取り返せばいい。そうすれば、すぐに、この監獄から抜け出し、自宅へと向かうことができるのだ。それは、ある意味、夢のような話である。しかし、目の前にある闇の向こうには、きっと、自分の運命を変えてくれる何かがあるはず……。その予感が、涼子の足を留めていた。



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