バレー部キャプテンと
よこしまな少女たち
第二十章
地獄からの脱出口
19



 ようやく、解放されるのだ。
 それにしても、ここは、この世の掃きだめに放り込まれたような、とにかく忌まわしい場だった。腐臭すら伝わってきそうな、腐りきった女、三人。それに加え、自己保身に狂奔するクラスメイトと、涼子のことを、性的な目で見ているような、一年生の生徒。この空間には、そんな五人の吐く息の成分が、充満している気がし、それが、じめじめとした空気と共に、肌にまとわりついてくるようで、腕をさすりたくなるほど不快である。
 家に帰ったら、なにより先に、熱いシャワーを浴びて、汗も、この場の残滓も洗い流し、自分の体を綺麗にしたい。それと、普段は、忙しさのせいもあり、湯船に浸かる時間は、ほとんど取らないのだが、今夜は、たっぷり三十分くらい、湯の中で、疲れた心と体を癒すことにしよう。その後は、どうしようか。なぜか、無性にコーラが飲みたい気分だ。健康面を考えて、もう、この何年かは、炭酸飲料を口にしていなかったが、今夜だけは、特別、自分にご褒美をあげよう。香織たちの呪縛から解き放たれたことを記念して、コーラで乾杯だ!
 
 涼子は、後ろにいる五人に、余裕を見せつけるように、両手の指を組み、両腕をぐっと上に伸ばした。そのまま、両腕を左右に動かして、ストレッチをする。五人とも、涼子が帰ることに、さぞかし、やるせない思いを抱えているのだろう。ザマアミロ。心の中で、そう吐き捨ててやった。
 それから、悠然と階段へと歩いていく。
 
 最後に、涼子の背中に、言葉を投げかけてきたのは、滝沢秋菜だった。
「そうやって、自分だけ、帰っていくわけね……。それなら、いいわよ……。わたし、学校の友達、全員に、こう証言するから。実は……、わたし、南涼子から、何度もしつこく、告白をされてたんだ、って」
 何を言っているんだ……? 
 涼子は、眉をひそめ、後ろを振り返った。
 秋菜は、能面のように無表情だった。
「告白をされるたびに、わたしは、女同士で付き合うのは、考えられないって、断り続けた。そうしていたら、ある日、南涼子に、屋上に呼び出されて、わたしは、なんか嫌な予感がしたけど、ひとりで、そこに行った。そこで、顔を合わせると、南涼子は、突然、わたしに抱きついてきて、無理やり、キスをしようとしてきた。わたしは、全力で抵抗して、危機一髪のところで、難を逃れた。正直、顔を殴ってやりたいくらい腹立たしかった。だから、南涼子に向かって、あんたは、わたしにとって、世界中で一番、気持ちの悪い女だから、もう、二度と、わたしに関わらないでって、強く言ってやった」
 意味不明な作り話である。
 もしかして、秋菜は、恐怖に耐えられなくなり、正気を失ったのではないかと、涼子は、本気で思い始める。
「さすがに、それだけ言ってやったから、南涼子も、わたしのことを諦めるだろうと思ってた。だけど、南涼子は、違った。わたしが、ほかの友達と仲良くしてると、なんか、悲しそうな目で、こっちを、じっと見てきたし、事あるごとに、わたしと、二人っきりになろうとしてきた。わたし、本当に怖くなってきたから、誰かに相談したかったけど、そうしたら、南涼子に、何をされるかわからない気がして、誰にも言えなかった。わたしの、そんな弱気なところが、南涼子を、よけい付け上がらせたみたい。それで、とうとう、南涼子は、こーんなモノを、わたしに渡してきたの……、ってね」
 秋菜は、両手に、あの三枚の写真と、体操着の入ったビニール袋を、それぞれ持って、そのセットを顔の高さまで掲げた。
 涼子は、金縛りに遭ったように動けなくなった。徐々に、意識が後方へと遠ざかっていく。
「なっ……」
 言葉が出ない。
 喉もとが、けいれんし始めた。
 
 この空間が、氷の世界に変貌したかのような、冷たい沈黙が続く。
 だが、やがて、涼子の胸中では、秋菜に対する、どう猛な怒りが燃え上がった。
 涼子は、せきを切ったようにまくし立てた。
「あんたさあ……! いったい、どういう精神構造してるわけ!? あんただって、その写真に写ってるのは、吉永たちが、わたしに、無理やりやらせたことだって、それくらい、当然わかってんでしょう!? それに、なに、その作り話は!? わたしが、いつ、あんたに、告白したり、抱きついたりしたっていうのよ!? ふざけんのも、いい加減にして!」
「関係ないわよ、そんなの……。わたしは、あんたが、自分だけ助かればいいっ、っていう態度で、帰ろうとしてるのが、許せないの」
 涼子は、絶句してしまった。
 秋菜は、面白いものを見るように、右手で掲げた三枚の写真を眺める。
「まあ、この写真を見ただけだと……、あんたが、誰かに強要されて、こんな変態行為をやらされたように見えるかもしれない。だけど……、わたしが、今、話した内容の『証言』をすれば、どうなるかな? この写真は、あんたが、前代未聞の変態であり、女の性犯罪者であり、レズのストーカーであることを、証明する代物になるのよぉ……? それと、わたし、友達を集めて、この、体操着の入ってるビニール袋のチャックを、開けることにするわ。あんたの、汚いところから流れ出た体液なんて、きっと、とんでもない臭いがするんでしょうねえ」
 涼子は、天地が、ぐるぐると回って見えるほどの、激しい目まいを起こしていた。
 秋菜の目に、涼子の事情は、お見通しだというような光が宿る。
「ねえ、南さん……。あんた、このところ、ひとりぼっちでいることが多くて、ずいぶん寂しそうじゃない。クラスの子たちに、露出趣味のある変態だっていう目で見られて、距離を置かれてるのは、どんな気分? 時々、親友っぽい子と話してる時は、『わたしは、大丈夫だから』みたいな笑顔を見せてるけど、本当は……、もう、つらくてつらくて、心が折れそうなんでしょ? そんな、あんたに、わたしが、とどめを刺してあげようか? わたしの『証言』と、この三枚の写真と、この汚物のこびり付いた体操着のシャツ。わたしが、その気になれば、この学校の、どこにも、あんたの居場所はなくなる。もちろん、かけがえのない親友からも、あんたは、軽蔑されることになる。要するに、あんたは、すべてを失うってわけ」
 もはや、涼子は、身体感覚までも喪失している状態で、今、自分が、地に足をつけて立っているのかどうかすら判然としなかった。
「わたしを見捨てて、帰りたいなら、帰ればいいじゃない……。その代わり、わたしは、絶対にあんたを許さない。この学校から、あんたを、抹殺してやるから」
 秋菜は、怒気を滲ませた表情で、そう言った。
 
 いやあぁぁぁぁぁぁぁぁ……!
 涼子は、絶叫しそうなほど震かんした。
 まるで、壊れかけのロボットのように、ぎこちない動きで、首だけ後ろに回す。
 地上への階段は、すぐ、目の前、三、四メートルほどの距離にあるのだ。勇気を出して、あと、ちょっとばかり、そちらに歩けば、階段に足をかけることができる。しかし、自分の両脚は、石化したように動かない。近くにあるはずの階段が、途方もなく遠いところに設置されているような錯覚を覚え始める。
 
 思い返せば、このところ、しばしば、こんなイメージが脳裏に浮かんでいた。
 地面に空いた、深くて暗い大穴。
 秋菜は、そこに落ちかかったものの、かろうじて穴の縁に手をかけ、なんとか地上に這い上がろうと懸命になっているところだ。しかし、彼女の両脚には、自己保身の権化と化した全裸の涼子が、死にもの狂いでしがみついており、秋菜を、道連れにしようとしている……。
 それは、とてつもなく後ろ暗い気持ちになるイメージだった。
 しかし、現実では、涼子と秋菜を逆にしたことが起こった。
 全裸だった涼子は、すでに、きちんと衣服を身に着け、穴の縁に手をかけていた。もはや、地上に這い上がるのは、造作もないことだった。これからは、前途多難ながらも、自由に生きることができる。そう信じて疑わなかった。
 ところが、その時、涼子の右の足首が、突然、がっちりとつかまれた。下を見ると、秋菜が、そこにぶら下がっており、涼子をにらみ上げていた。秋菜は、まだ、衣服をまとってはいるが、目が血走っていることも、顔が病的に青白いことも、以前までの涼子の姿そのものである。そればかりか、秋菜のその顔は、人智を超えた怨念のために、醜く歪みきっている。まさに、化け物だ。
 その秋菜が、荒々しい声で叫ぶ。
『あんただけ、助かろうったって、そうはさせないわよっ! どっちかが、助かるとしたら、わたしのほうでしょうが! あんたは、永遠に、地獄の底で、のたうち回ってればいいのよぉ!』
 秋菜の握力は、思った以上に強い。
 このままだと、秋菜と共に、穴の底へと転落してしまう。
 
 どうしたらいいんだろう……!?
 涼子は、顔だけ、階段のほうに向けたまま、身動きが取れないでいた。
 すると、誰かが、すっと動いた気配がした。竹内明日香だ。
 明日香は、涼子と階段の間に、割り込むように立つ。それから、こちらに近づいてきて、涼子の背中に、両手を当てた。
「とっとっとっとっとっとっとととととと」
 愉しげなかけ声を出しながら、涼子の体を押してくる。地上への階段から、涼子を遠ざけるように。
「あっ……。やっ……。いや……。ちょっと……」
 涼子は、途中で、何度か抵抗して足を止めるも、精神的にも肉体的にも踏ん張りがきかず、十メートル以上、強制的に進まされた。
 そして、結局、秋菜の横まで戻ってきてしまった。
 明日香は、低い笑い声を漏らし、香織たちのところに戻っていく。
 
 涼子は、後ろを振り向いた。十数メートル向こうにある、地上への階段を、狂おしい思いで凝視する。階段は、一キロ以上、離れた場所に存在するかのように、やたらと小さく見えてならなかった。
 しばらく、家には帰れない。きっと、そうだ。だんだんと、その現実を認めざるを得なくなってくる。
 熱いシャワーを浴び、風呂上がりに、コーラで乾杯したい……。涼子のそんな、ささやかな望みすら、夢まぼろしのごとく叶わぬものとなっていく。
 
 穴の縁にかけていた、涼子の手は、ついに離れてしまったのだ。秋菜と共に、穴の底に、どすんと落ちる。全身に、ものすごい衝撃を感じた。



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