バレー部キャプテンと
よこしまな少女たち
第二十三章
ジレンマ
7



 ところが、その時、思いがけぬ声が、この空間全体に響き渡った。
「ひどいっ!」
 空気を裂く鋭い声が、耳朶を打ち、涼子も、香織も、動きを止めた。
 一刹那、遅れて、竹内明日香が発した声だと気づいた。
「ひどい! 香織っ! いくらなんでも、りょーちんが、かわいそうっ!」
 長いこと、傍観しているだけだった明日香が、突然、火を吹くような勢いで怒鳴ったのだった。それから、いつになく、いかめしい表情で、こちらに、つかつかと近づいてくる。
 香織は、呆気に取られた様子で、涼子の左腕から手を離した。
「えっ、なによ、明日香、急に……」
 その声には、動揺が滲んでいた。
「りょーちんだって、滝沢さんや舞ちゃんにっ、ま○こまで見られるなんて、そんな恥ずかしいこと、耐えられないに決まってんでしょっ!」
 明日香は、苛烈な口調で、さらに畳みかける。
 
 どういう風の吹き回しか、明日香が、仲間である香織を、厳しく責め始めたのである。
 香織は、明日香の剣幕に怯んだらしく、決まりが悪そうにうろたえている。
「だって、しょうがないじゃない……。南さんの、腋毛の検査をしないことには、何も始められないんだから……」
 明日香は、香織の言葉を無視し、こちらに歩いてくる。
 今、漂っている雰囲気からすると、どうも、香織と明日香が、互いに対立する、という芝居を演じているわけではないらしい。
 つまり、香織にとっては、想定外の事態が発生したことになる。
 涼子の目の前に、香織と入れ代わる形で、明日香が立った。
 明日香の眼差しには、涼子への憐憫の情が、色濃く表れているように見える。
「香織ったら、ホント、ひどいねえ……? あたしぃ、りょーちんが、かわいそすぎて、もう、見てられなくなった。これ以上、りょーちんにぃ、つらい思いは、させられないっ」
 その口調は、彼女らしくなく決然としていた。
 涼子は、かすかながら、心の扉が緩むのを感じた。
 ひょっとして、香織とは違い、明日香のなかには、人としての最低限の良心が、まだ残っていたのだろうか……?
 しかし、あの冷血なサディスト、竹内明日香のことである。彼女の言葉を、うのみにするべきではないと思う。とはいえ、今の涼子には、ほかに、すがれそうな者など、誰もいないのだ。
「ねえ、明日香ぁ……。お願ぁいっ。もう、こんなこと、やめてっ。おかしいよっ、こんなの……。何もかも、狂ってる……。わたし、このままだと、本当に、心も体も壊れて、一生、その後遺症に苦しみながら、生きていかなきゃならない気がするの。それを考えると、わたし、すっごく怖い……」
 涼子は、わななく声で言いながら、明日香に、思わずにじり寄る。
 すると、明日香は、慈悲を示した。その両手をこちらに伸ばし、涼子の頭と肩を抱き込んでくれたのである。
「うーん、つらかったね、りょーちん……」
 涼子は、つかの間、逡巡した。
 このまま、明日香に心を委ねるのは、果たして、正しいことなのか……。
 だが、いずれにせよ、ここで、明日香に救われないのなら、もう、自分は、それこそ、お終いなのだ。つまり……、香織の思うままに、なぶり尽くされ、その過程で、まず間違いなく、まともな人間ではなくなる。脳裏にちらつくのは、地面に転がったまま、生気を失った目で、虚空を見つめ、口からは、よだれを垂らし、人間というより、人型の肉塊と化した、自分の姿である。
 やだよ……。ありえない……。そんな自分の未来図は、とても直視することができず、そのせいか、まったく根拠はないけれど、きっと、わたしは、なんらかの形で助かるはずだ、と思う。
 ならば、信じよう。信じるしかない。目の前の、この女を。
 涼子は、思い切って、額を、明日香の左肩にのせた。そのようにして動きを止めると、自分の体が、がたがたと震え続けていることを、一層、強く実感させられる。
 壊れかけの、わたしの、体……。
 汗まみれの肩を、明日香の、ひんやりとした手のひらで、そっと撫でられる。
「香織ぃ! りょーちんの体、すごい震えてるっ! りょーちん、心が壊れるくらい、怖がってるんだよっ! ちょっとは、りょーちんのことも、考えてあげなよっ!」
 涼子の耳もとで、明日香は、ふたたび、香織に向けて、痛烈な非難の声を響かせた。
「でも……、それじゃあ、セクシーショーは、どうすんのよ。せっかく、舞ちゃんも、スペシャルゲストとして、来てくれたのに……」
 香織は、ぶつくさと不満を漏らす。
 ふざけるな。なにが、セクシーショー、だ。
 
 明日香の体からは、花を思わせるような、ふんわりとした香りが、鼻腔に流れ込んでくる。涼子は、明日香に悟られないよう、静かに、その空気を肺に取り入れていた。いかにも、清潔感あふれる女の子らしい、いい匂い。それに包まれるだけで、こんなにも気持ちが安らぐなんて、初めて知った。なんだか、何時間でも、こうしていたい、と思い始める。
 だが、明日香が、つと、身を引いた。
 額が離れ、涼子は、一抹の不安を覚えながら、明日香の顔に目を向ける。
 すると、明日香は、心配いらないよ、とばかりに、今度、その両の手のひらを、涼子の両頬に優しく当ててきた。
 そうして、二人は、幼い頃からの親友同士のように、顔を見合わせる。
 よく見ると、意外にも、明日香の瞳に、湿り気が含まれていることに気づく。その瞬間、涼子の胸の内には、明日香が、本気で、この自分のために、心を痛めてくれているのだと、確信が芽生えた。
 明日香は、涼子の瞳をのぞき込むように、さらに、ぐっと顔を近づけてくる。
 涼子は、どきっ、としてしまった。
 今や、明日香に対する否定的な感情は、すっかり取り除かれていた。それゆえ、視界いっぱいに迫った、抜群の美貌には、心からの感嘆を禁じ得ない。
 骨や肉で構成されているとは、とても信じられないくらい、端麗な目鼻立ち。人の顔というより、きらびやかなガラス細工を目の当たりにしているかのような、そんな錯覚を抱かされるのだ。また、その肌は、永久に、汗のしずくひとつ滲み出ないのではないかと思うほどの、透き通るような白さに覆われている。
 この子、なんで、こんなに綺麗なんだろう……。

「りょーちん……。滝沢さんと舞ちゃんにぃ、ま○こまで見られるのがぁ、耐えられないんだよねっ?」
 夜桜すらかすむほどの美少女の口から、唐突に、下品な言葉が飛び出したので、涼子は、軽く面食らった。
 ま○こ……。その発音が、あまりに明瞭だったせいか、逆に嘘っぽく聞こえ、もしかして、彼女のほうは、体のどこを探しても、そんなものは、見当たらないのではないか、という思いが、脳裏に浮かぶ。こんな発想が生じること自体、自分の精神が、すでに病的な状態にある、証拠なのかもしれないが。
 でも、わたしの体には、それが、ちゃんとある。なにしろ、今、その部分を、直接、手で触れているのだから。両の手のひら全体に伝わる、ごわごわとした陰毛の感触。それに、そこに注意を向ければ、恥丘の肉が、こんもりと盛り上がっている様も、目で見るように確認できる。
 こんなところ、絶対に見られたくない……。滝沢秋菜にも、足立舞にも。いや、誰にも見られたくない。もちろん、明日香、あなたにも。
「そうでしょっ? 滝沢さんと舞ちゃんにぃ、ま○こまで見られるなんて、そんなの、耐えられないんだよねっ? そうだよねっ?」
 明日香は、念を押すように、もう一度、そう訊いてきた。
 滝沢秋菜と足立舞の、二人の目を、特別、意識してしまうということ。
「うっ……、うっ……、え、う……」
 涼子としては、公然と認めるのに、ためらいを感じる質問だった。
 そのため、それに返答するのではなく、自分の望みを、率直に口に出すことにする。
「あのっ、それでさ……、お願いだから、明日香のほうから、吉永さんのことを、なんとか、説得してもらえないかな? もう、こんな、人をなぶって遊ぶようなこと、やめようって……。お願いっ。わたし、明日香だけが、頼りなの……。ねっ?」
 明日香は、涼子の必死の哀願を、うん、うん、とうなずきながら、真剣な顔で聞いてくれた。
 それからも、涼子は、自分の両頬を包み込んでいる明日香と、親友というより、もはや、深く愛し合う恋人同士のような至近距離で、黙ったまま、目と目を合わせ続ける。明日香が、今にも、額を、こつんと当ててきそうな雰囲気である。もし、そうされたら、自分は、どのような反応を返せばいいのだろう……。
 そんなことを考えていると、明日香の息が、顔にかかってきた。しかし、今は、ちっとも不快ではない。そればかりか、明日香は、吐く息までも澄んでいるなと、大いに感心してしまう。
 そこで、遅まきながら自覚する。今、自分は、欲情している人間のごとく、明日香の顔に、はしたなくも、荒々しく息を吐きかけ続けている……、と。そのとたん、口臭にまで気の回らなかった自分を、深く恥じ、涼子は、ぴたっと口を閉じた。そして、すねるような心持ちで、唇をすぼめる。
 だが、そうすると、今度は、自分の体が発する、汗の臭いが、無性に気になって仕方なくなる。
 香織からも、さゆりからも、極めつけには、秋菜からも、体臭のひどさを指摘されたのだ。それに、粘っこいあぶら汗が、体中を覆っていることは、涼子自身が、一番よくわかっている。
 この距離で、明日香が、涼子の体から、臭気を感じ取っていない、という可能性は、残念ながら万に一つもないだろう。
 視界いっぱいに迫った、少女の顔を、美しいと思えば思うほど、また、その体の清潔さを、感じれば感じるほど、自分も、同じ思春期の女の子として、女子のたしなみ、というものを、嫌でも意識してしまう。だが、それを意識し始めると、目の前の少女と、今の自分との格差が、いよいよ生々しく浮き彫りになり、胸を掻き毟りたくなるような劣等感に襲われる。
 恥ずかしい……。
 涼子は、自分のことながら、女の子にとって、こんなに残酷なことが、ほかにあるだろうか、と思わされていた。
 しかし、明日香は、涼子の体の臭気など、気にも留めていない様子で、おもむろに言った。
「あたしはぁ、もう、りょーちんの、味方だよぉ。りょーちんのことはぁ、あたしが、守ってあげるぅ」
 涼子は、それを聞いて、不覚にも、安堵の涙をこぼしてしまいそうになった。五人の生徒の前で、自分ひとり、全裸姿にさせられているという、惨劇の被害者の身であるにもかかわらず。
 わたしは、神様に、見捨てられていなかったんだ……。
 明日香、あなたは、地獄に降り立った天使よ……。
 
 目の前の、フランス人形のような美少女は、続けて口を動かした。
「りょーちん、心配しないで、腋毛の検査、受けてだいじょーぶだよぉ。りょーちんの、ま○こ、滝沢さんと舞ちゃんに、見られないようにぃ、あたしがぁ、後ろから、押さえててあげるからぁ……」
 涼子は、きょとんとなった。
 えっ……。
 次の瞬間、明日香が、こちらに、唇を突き出したのを目にした。
 まばたきをする間のことだったが、唇に、ぷにっ、と柔らかな感触を味わった。
 涼子は、愕然として目をむく。
 女同士の接吻。
 明日香は、そうして、涼子の両頬から、両手を下ろした。
 以前にも、虚を突かれて、明日香に、唇と唇を合わされたことがある。あの、記憶から消し去りたい体験。それが、またしても再現されたのだ。
 気持ち悪さと、気まずさ。
 しかし、今は、その余韻も、さして残らないほど、頭の中で、疑問の念が加速度的に膨らんでいく。
 後ろから、押さえる……?
 涼子は、まだ、目の前の明日香の顔を、茫然と見つめていた。
 すると、だんだん、明日香の瞳に、悪意、それも、底無しの悪意が宿っていく印象を受けた。それと同時に、明日香は、スローモーションのように、ゆるゆると身をかがめ始める。
 逃げろ……!
 本能が、全身に指令を発する。
「……えあっ、やっ、やっ、やっ、や、や、やややっ」
 涼子は、即座に、その場から離れようと脚を動かした。
 が、その時には、明日香の両腕が、素早く背後から回ってきて、涼子の胴体に絡みついたのだった。



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