第一章


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第一章




 六月の半ば、梅雨のさなかで空気のじめついた夜だった。どんよりと垂れ込める雲の合間には、満月が覗いている。月光が、森に囲まれた暗い一帯を照らし出している。
 人里離れた場所に建つ屋敷の門が開き、ショルダーバッグを提げた美少女が出てきた。
 家具・インテリア業界を中心に、十数社の子会社を抱える安城商会。その社長の長女である、高校三年生の安城千尋。
 柔らかそうな栗色の髪を、ふわりと肩まで下ろしており、サイドの毛は、顎のラインを包み込むようにカールさせてある。ファッションモデルさながらの小顔だが、目鼻立ちは、極めてはっきりとしていた。黒目がちの落ち着いた眼差しや、すっと筋の通った鼻は、聡明そうな印象を人に与えるだろう。
 そして、お洒落な髪型と端正な顔立ちとが、洗練されたように自然に調和しており、彼女は、年齢よりだいぶ大人びた色気を醸し出していた。また、控え目に光るピアスとネックレスが、彼女の魅力に、程よいアクセントを加えている。
 服装も、やはりどことなく垢抜けていた。Vネックのカットソーの上に羽織ったシックなカーディガン。タイトな黒いジーパンは、すらりと伸びた美脚と、きゅっと締まったおしりのラインを浮き上がらせている。
 やはり、その姿には、お嬢様らしい気品が色濃く漂う。しかし、今夜の月明かりに照らされた令嬢の顔は、憂いを帯びていた。

 かつて一世を風靡した安城商会は、ある外国企業と結んでいた契約を唐突に解除されたことが発端となって、経営状態が急激に悪化した。そして、雪だるま式に膨れ上がった、二百億を超える負債を抱えて破綻。
 安城一家は、実家に住んでいられる状況ではなくなった。昨日の早朝、両親と千尋、弟の四人は、夜逃げ同然の格好で、所有する別荘の一つに身を隠したのだった。その別荘というのが、今、彼女が出てきた、この屋敷である。
 だが、今日の夕方、身動きの取れない安城家に、救いの報せが届いたのだった。千尋の父の携帯に掛かってきた、一本の電話。電話の相手は、安城家と家族ぐるみの付き合いのあった菅野社長だった。
 レジャー施設やホテル、旅行関連、外食サービスなど、幅広い事業を展開して成功を収め、年商七百億を誇る菅野グループ。その本社の社長である。
 菅野社長は、当面の間、避暑地のホテルに、安城一家をかくまってくれるというのだ。安城家の情報が外部に漏れることのないように、手を打っておくので、安心してほしい、と付け加えたらしい。
 菅野社長の厚意により、千尋たち一家は、ひとまず救われたのだった。
 ただし、千尋だけは、家族に一時の別れを告げることになった。というのは、菅野社長の一人娘である、菅野亜希たっての誘いを、千尋は受けたからだ。
 千尋と亜希は、大企業の社長令嬢同士、お互いが小学生の頃から親しく付き合っていた。亜希は、千尋より二つ年下で、この春に高校に入学したばかりだ。現在は、学校からすぐの場所に新築した邸宅に、家族と離れて暮らしている。
 そして、今回、菅野社長が、安城一家を保護するという話を聞いた亜希は、是非、自分の住む家に、千尋を呼んでほしいと願ったらしい。亜希が、どうしても、千尋と一緒に過ごしたいと言っている。そんなことを、菅野社長は、千尋の父親に伝えたようだった。
 家族と離れるのは不安だったが、千尋は、すぐに合意した。亜希が熱烈に歓迎してくれているという、嬉しい気持ちがほとんどだったが、今の自分は、それを断れる立場ではないような、複雑な思いも微かに混じっていた。
 そういった経緯の後、まず、亜希の家で働く使用人が、車で千尋を迎えに来るという話になった。千尋だけ、両親や弟より一足先に出発するということだ。
 その時刻が近づくと、千尋は、家族と抱き合い、励まし合った。そうして屋敷の門を出たのだった。

 千尋は、表通りを目指して、舗装の整っていない道を歩いている。
 脚を動かしていながらも、何不自由ない暮らしを失ってしまったという思いが、頭にこびり付いていて離れない。優雅なバルコニーやパーティー部屋の備わった豪邸。わがままを聞いてくれる使用人たち。コックの作る、好物が盛りだくさんの料理。欲しいものは何でも揃っていた、華やかで大きな自室……。
 千尋は溜め息をつき、夜空を仰いだ。
 けれども、いつまでも、そんな過ぎ去ったことを、未練たらしく思い返していても仕方がない。気をしっかりと持ち、これからは、人一倍たくましく生きていかなくてはならないのだ。
 待ち合わせの場所は、大きな案内看板だった。
 千尋が着いてから五分ほどで、迎えの車が到着した。黒光りのする高級車だ。
 運転してきたのは、亜希の家の使用人である、加納雅美という女性だった。亜希の新居には、何度か遊びに行ったことがあるので、彼女の顔は知っている。 加納雅美は、小ざっぱりとした黒髪のストレートヘアで、なかなか気の強そうな顔立ちをしていた。背が高く、成人女性の平均身長よりは高い千尋とも、十センチ近くの差がある。何事も要領よくこなしそうな雰囲気を漂わせており、使用人というよりは、社長秘書といった感じの風貌だった。年齢のことは、本人にも亜希にも訊かなかったが、三十をちょっと過ぎたあたりだろうと、千尋は見当を付けていた。
「こんばんは、千尋さま。どうぞ、お車にお乗りください」
 加納は、いつもそうするように、うやうやしく挨拶をし、後ろのドアを開けてくれた。
「あっ……。どうもすみません」
 ぺこりと頭を下げて、千尋は、後部座席に乗り込んだ。丁寧にドアが閉められる。
 千尋は、加納というこの女性には好感を持っていた。プライドの高そうな雰囲気があるのだが、高校生の千尋に対しても、決して礼を欠くことのないその姿勢。加納が、丁重に、かつ機敏に応接してくれるのは、いつも気持ちがよかった。
 しかし、ちくりと考えさせられることがある。
 これまで加納は、千尋に対して、大企業の令嬢として接してきたのだ。だが、もう千尋は、そんな身分からは切り離された、普通の高校生に過ぎない。いや、もっと悪いだろう。卑下した表現をすれば、路頭に迷い、亜希の家に居候する身なのだ。
 もしかすると、と勘ぐってしまう。加納さんは、わたしに対して、以前より粗末な態度で接するようになるかもしれない……。
 だが、そこで千尋は思考を止め、頭を振った。わたしは、いつまで甘ったれた気持ちでいるんだ。もう二度と、こんな馬鹿なことを考えるのはよそう。

 車に揺られながら、千尋は、亜希と共に遊んだ昔のことを思い返していた。
 小学生時代にまで遡ってみる。姉妹のような、仲睦まじい二人の女の子。だが、二人の遊びは、同年代の女の子たちとは、やはりどこか違っていたと思う。千尋も亜希も、欲しいものがあれば、お小遣いとして手元にあったお金で、何でも手に入ったのだ。また、行きたい場所が決まれば、どこへだって使用人が車で連れて行ってくれた。
 最後に亜希と会ったのは、二ヶ月ほど前のことだ。その時は、千尋が、グランドホテルにある高級ケーキ店に、亜希を誘い、二人で食べに行ったのだった。代金は、安城家の『つけ』として済ませた。
 安城商会の経営が危機にあることを、父から聞かされたのは、たしか、その二、三日後だったと思う。そして、周囲の環境は、瞬く間に崩れていった。多くの使用人を抱えた豪邸も、ベンツの出迎えも、セレブたちの集まる煌びやかな舞踏会も、今となっては、すべて過去の幻影である。
 現在の千尋にあるものといえば、一万円札が何枚か入った財布や携帯電話、化粧道具などが収められている、小さなバッグだけなのだ。

 車窓の眺めはがらりと変わり、やがて、加納の運転する車が、見覚えのある邸宅の前に停まった。乗車の時と同様、加納が、ドアを開けてくれる。 
 千尋は、加納に先導されて重厚な門を通り、噴水やプールの設置された巨大な庭の中に立ち入った。南国のホテルのような豪邸が、眼前にそびえている。亜希と、使用人の加納が、ここに二人だけで住んでいるのだから、まさに贅沢の極みといえよう。
 正面玄関の前で、加納と共に亜希の出迎えを待つ。
 ほんの数ヶ月前までは、わたしが当たり前のように持っていたが、今は失ってしまった様々なものが、ここにはある……。
 千尋は、溜め息を吐いた。この期に及んでも、自分は、安城家の令嬢という身分を忘れられないでいることを、否応無しに自覚させられる。これから自分は、亜希の好意に甘え、この家に住まわせてもらう立場として、頭を下げなくてはならないというのに。

 玄関が開いた。風呂上がりとおぼしき、パジャマ姿の亜希が顔を出した。その顔に、さっと喜びの表情が浮かぶ。
「ちひろちゃん!」
「あきちゃん……」
 互いに名前を呼び合った。亜希は、待ちに待っていたとでもいう調子で駆け寄ってきて、千尋の腕を取った。
「疲れたでしょう? さっ、入って入って」と千尋を引っ張る。
 だが、千尋は足を止めた。亜希は、どうしたの、と怪訝そうに千尋の顔を見上げた。
「亜希ちゃん……。ごめんね、面倒掛けちゃって。ここに呼んでくれるって聞いた時は、すごく嬉しかった……。これから、色々とお世話になります」
 千尋は、頭を垂れる。亜希は、驚いたように口を半開きにして千尋を見つめていたが、すぐに破顔して言った。
「そんな言い方やめてよー、千尋ちゃん。わたしたち、幼なじみじゃない。千尋ちゃんは、わたしのお姉さんみたいなものなんだからっ」
 亜希の優しさと心遣いに、千尋は涙ぐみそうになった。そして同時に、安堵のようなものが胸を覆っていた。いくら歓迎してくれているとはいえ、多少は、落ちぶれた千尋のことを、軽視する部分も出てくるのではないかと、密かに案じていたのだ。それが人情というものだ。
 しかし、隣にいる幼なじみの女の子からは、そんな気配など、微塵も感じられなかった。亜希に対して、ほんのわずかでも疑うような考えを抱いたことを、とても申し訳なく感じる。
 そしてもう一度、千尋は心の中で呟いた。ありがとう、亜希ちゃん。

 亜希は、高校に上がったばかりということで、まだまだ中学生っぽい幼さの残る少女だった。
 中学の校則から解放された直後で、思いっ切り派手にしたくなったというような、オレンジ色に近い茶髪をしている。前髪は、眉のあたりで長さを揃えるように真っ直ぐに下ろし、後ろ髪だけを幾つものピンで留めていた。髪の毛の量が多いので、頭の後ろが、どことなく花火を連想させる。
 顔は色白で、ふっくらとした可愛らしい顔立ちをしている。
 クラスの人気者であることは、まず間違いないだろうと、千尋は思っていた。けれども、亜希はいつもこう言うのだった。
 千尋ちゃんみたいな、綺麗なお姉さんっぽい顔になりたい。千尋ちゃんと比べたら、わたしって、すごい馬鹿面……。
 そうして、いじけたように頬杖をつく。千尋には、そんな仕草がとても愛らしくて、亜希の頭を撫でながら言ってやったものだった。拗ねた顔が、こんなに可愛い子も珍しいけどね、と。

 無意識のうちに、千尋は、廊下を歩きながら含み笑いを漏らしていた。亜希の優しさに、自分でも意外なほど、暗い気分が晴れて心地がよくなっていたのだ。亜希に続いて二階に上がると、加納は、一階に姿を消した。
 亜希が、自室のドアを開ける。何度か遊びに来ているので、中の豪勢さは、もう見慣れていた。
 五十畳はありそうな広さで、どれも一級品の家財道具が設えられている。天蓋ベッドや毛先の柔らかいカーペット。レザーのソファ。さらには、壁に巨大なスクリーンまで掛けられている。
 千尋と亜希は、テーブルを挟んで向かい合って、ソファに座る。
「千尋ちゃん、お腹空いてない?」
「あ、うん……。ちょっと」
 千尋は、控えめに答えた。だが、実のところ、今日はろくに食事を取っていなかったので、ひどい空腹を感じていた。
「ピザならあるから、加納さんに頼んで持ってきてもらうけど。それでいい?」
「ありがとう。それじゃあピザを貰っていいかな……」
 亜希は、にっこりと笑って部屋を出ていった。
 もう感謝しても仕切れないという思いで一杯になる。なんて優しい子なんだろう。
 やがて、テーブルに、ピザやジュース、サラダ、それに食後のデザートまで置かれていった。
 千尋は、最初こそ遠慮がちな素振りを見せていたものの、食べ始めると、あっさりと、それらを腹に収めてしまった。
「千尋さま、お食事のほうはいかかでしたか?」
 加納が、二人分のアイスティーをテーブルに置きながら訊いた。
「おいしかったです。ありがとうございました」
 千尋は、にこやかに返した。
 食事を取ったことで、心身ともにだいぶ落ち着いた気がする。すると、じわじわと、睡眠の欲求が押し寄せてきた。
 亜希と話したいことはたくさんあるが、今日は、もう、ゆっくりと休みたい気分だ。わたしの部屋はどこになるのだろう、と思った。空いている部屋なら、ちゃんとあるのは知っていた。だが、あまり気安く尋ねるのは、さすがに失礼だと感じる。
 そこで、肝心な頼み事を忘れていることに気づいた。風呂のことだ。
 昨日の朝、実家を逃げ出した。別荘に移ってからは、これからの人生に対する不安で、入浴をするような心のゆとりはなかったのだ。そのせいで、今は、体がべたべだしている感じがして、気持ちが悪い。

 アイスティーをストローで啜っている亜希に、千尋は切り出した。
「ごめん、亜希ちゃん。今日は疲れてるから、早めに寝たいの。それで、その前に、お風呂に入らせてもらっていい? それと、パジャマになるような服と、あと、下着も貸してほしいの……」
 すると亜希は、ストローを咥えたまま、何か考え事をするように目をぱちぱちさせた。そして、そばに立っている加納に、視線を投げかける。加納は、テーブルの食器類を片付けている最中だった。
「ねえねえ、加納さん……。あのこと、そろそろ始めようかなって思ってるんだけど」
 亜希は、何か意味ありげなことを言う。加納は小さく頷くと、唇の両端をくいと上げた。
 どういうわけか、千尋の質問には答えてくれない。なにやら、事前に打ち合わせておいたことがあるようだった。
「はい、お嬢さま。わたしのほうは、いつでも大丈夫ですよ」
 加納は、静かにお盆をテーブルに置いた。
 その直後、加納と目を合わせる亜希の顔に、にやりと、嫌な感じの笑みが浮かんだのが見えた。時が止まったかのように、その光景は、千尋の網膜に焼きついた。亜希のそんな表情は、これまでに、一度も見たことがなかったのだ。
 だんだんと、妙な胸騒ぎを感じ始めた。二人の態度は、あきらかに不自然だった。
 その時、加納が口を開いた。
「千尋さま……。お嬢さまは、家のものを、汚い人には使わせたくない主義なんです。千尋さまは綺麗なんですか? どうなんです?」
 当然、千尋には意味不明である。何を言っているんだ、この人は……。
「綺麗って……。どういう意味ですか? いまいち加納さんの言っていることが、理解できないんですけど……」
 加納は、何の感情も読み取れないような目つきで、千尋を見下ろしていた。先程まで見せていた、千尋に対する敬意や気遣いの雰囲気が、今は、どこにもなかった。
 千尋は、しだいに、この使用人を不審に思い始めた。
「それでは、これから、千尋さまの体を検査させて頂きます。服を脱いでもらえますか?」
「は……?」
 耳には入っていたが、頭で認識することはできなかった。完全に訳がわからなくなり、千尋は、亜希に向かって訊いた。
「ねえ、これって、どういうことなの……?」
 亜希は、ふっと笑うと、両手で頬を包むようにして、テーブルに頬杖をついた。その目は、テーブルの一点を見つめており、千尋とは目を合わせない。
 亜希の態度もおかしい。二人して、催眠術にでも掛けられているのだろうか。千尋は、本気でそんなことを疑った。
 その時だった。亜希の代わりに、加納の怒鳴り声が部屋に響いたのは。
「だ・か・ら、服を脱げって言ってんでしょ。裸になればいいの! なにとぼけてんのよ!」
 ぎょっとさせられた。加納は、腰に手を当て、千尋を威圧するように立っている。
 千尋は、ようやく、この使用人が異常であることを確信し、それゆえに、パニックに陥りそうになった。だが同時に、抑えきれないほどの腹立たしさも込み上げてきた。千尋は、加納を睨みつけた。
「裸になれって……? あんた、頭おかしいんじゃないの? それと、使用人のくせに、なんなの、その口の利きかたは。ふざけないでよ」
 その時、亜希の声が割って入った。
「千尋ちゃん……。なにか勘違いしてるみたいねえ」
 亜希は、頬杖をやめて両腕を組み、ソファの背もたれに体を預ける。いやに偉そうなポーズである。
「あなたは、これから、わたしの家で働くのよ。つまり、加納さんから色々と指導をしてもらう立場なの。言葉遣いが間違っているのは、千尋ちゃんのほうでしょう?」
 千尋は、殴られるようなショックを受けた。『あなた』なんていう、冷たく他人行儀な呼び方。言葉を失った千尋に、亜希は、さらに言った。
「ねえ……、まさかとは思うけど、この家で、以前と同じような、お嬢さま的な扱いを受けられるなんて、期待してたんじゃないでしょうね?」
 どうなのよ、とでもいうように、亜希は、顎を引いて千尋を見すえる。
 千尋は、頭が混乱し、思わず視線を逸らした。
 なに、どうゆうこと……。落ちぶれた安城家の娘なんて、一介の使用人程度の人間に過ぎないというの……。ぜひ、この家に来てほしいって、わたしを誘ったのは、亜希ちゃんでしょう。なのになぜ……。
 その上さらに、狂ったことを言い出す使用人の肩を持つなんて。と、いうことは……。
 千尋は、意を決して亜希に尋ねた。
「亜希ちゃんも、この人と同じことを、わたしに言いたいわけ?」
「同じことって、なあにぃ?」
 亜希は、にやけた顔をこちらに突き出した。もはや、その態度からは、千尋を慕っていた頃の可愛らしい面影など、かけらも感じられない。
「この家のものを使う前に、わたしは、服を脱いで体を検査されないといけないわけ?」
 もう敵対心を隠そうとはせずに、千尋は、強い語気で言った。
 亜希は、ふと真面目腐った表情になり、視線を落とす。
「ええっとね……。まず、うちのお風呂に入るか入らないかは関係なしに、体の検査はさせてもらうよ。だって、千尋ちゃんはこれから、うちで働くことになるんだからね。仕事の前の、適性検査……ってところかな。まあ、千尋ちゃんの健康的な体だったら、失格にはならないと思うから、安心していいよ」
 千尋は、頭に血が上った。もう我慢の限界だ。父の会社が破綻したとはいえ、自分は安城家の娘なのだ。自分のことを完全に見下して侮辱する小娘なんかの言いなりになど、どうしてなれようか。
 千尋はソファを立ち、亜希を見すえた。頭の片隅に、目の前に座っている小娘は、亜希とはまったくの別人なのではないかという思いが浮かぶ。しかし、どこからどう見ても、あの菅野亜希に間違いはなかった。
 要するに、この性根の腐った小娘の本性を見抜けずに、長い間、共に遊び、面倒を見てきた自分が、大馬鹿者だったというわけだ。
 最後の別れの挨拶に、思いっ切り横っ面を引っぱたいてやりたい気持ちだった。だが、千尋は、ぐっと拳を握りしめ、小さな声で告げた。
「わたし、出て行くわ。体の検査とか言っちゃって……。あんた、頭がおかしいんじゃないの。一度、病院で診てもらったら? もう、あんたとは、二度と会うことはないでしょうね……。さよなら、亜希ちゃん」
 言い終えると、千尋は、すぐに足を踏み出した。






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