第四章


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第四章




 三人は、亜希の自室に戻っていた。
 髪の染色と断髪により変わり果てた千尋は、未だに裸で立たされている。もはや、心も体も限界を超えていて、立っていることすらつらかった。
 今日、千尋の人生は、出口の見えない地獄へと変わった。明日が、どのような一日になるのかも、想像が付かない。
 しかし、今、千尋の頭の中にあるのは、人間として、もっとも単純な欲求だけだった。大小の排泄と睡眠。
 禍々しく置かれている水槽大のガラスケースに、千尋は目をやった。打ち震えるような悲しみに心臓を締めつけられ、意を決して口を開く。
「亜希ちゃん。……たった一つのお願いです。家のトイレを、使わせてください」
 ソファにもたれている亜希は、きょとんとした目つきで千尋を眺める。だが、その唇が、薄笑いの形に変わっていった。
「したいんでしょ、千尋ちゃん。もう我慢できないの?」
 もはや、申し訳なさそうに、本当のことを答えるしかない。
「はい……。お願いします」
「しなよっ……。あの入れ物が、千尋ちゃんのトイレだよ。恥ずかしいなら、あれを部屋の隅っこに持っていって、隠れてしたって、構わないのよ」
 この腐りきった小娘に、わずかでも情けを期待した自分が、馬鹿だったみたいだ。万策尽きた思いで、千尋は黙ってうなだれた。
「まだ納得できないみたいねえ、千尋ちゃんったら。なんなら、考え直してあげてもいいけど……」
 亜希は、ずいと上体を乗り出し、上目遣いに千尋を見る。
「もう一度、千尋ちゃんの体を、隅々まで検査することにしようかぁ? 加納さんの出した裁定が不服ってことなら、今度は、わたしが直々に調べてあげる……。うちのトイレを使わせてあげられるぐらい、マ○コやおしりの穴が、清潔かどうかをね」
 果たして、これほどまでに、いやらしい笑みを浮かべる人間が、この世にいるだろうか。亜希の顔を見ていると、そんなふうに思わされる。
「千尋……、再検査してもらいたいなら、お嬢さまに頭を下げてお願いしなさい」
 亜希のかたわらに立つ加納が、そう言った。
 途方に暮れ、言葉を失った千尋の様子に、亜希は、ことさら快感そうな声を出した。
「どうするのぉ? 千尋ちゃーん」
 答えることなど馬鹿らしい。だが、黙っていると、加納に、怒鳴り声を上げる理由を与えてしまう。
「……それなら、もういいです」
 再検査など、どうせまた、不潔な体という烙印を押されるだけである。それに……。千尋は想像した。恥ずかしく汚いところを、亜希の手によって調べられるとしたら、その恥辱は、加納の時より、はるかに耐え難いだろう。
「あっそ。じゃあ、おしっこやうんちは、そこにしなさいね。我慢してないで、早く出しちゃったら? 言っとくけど、お漏らしなんてしたら、さすがに千尋ちゃんでも、わたし承知しないからね」
「千尋……。あんた、お嬢さまのお部屋を、万が一でも汚すようなことがあれば、一生奴隷のようにこの家で働いて、償っていかなくちゃならないからね」
「はい、……わかってます」
 そう返事をしたものの、尿意は、意識から消えないほどに高まっている。千尋は、先行きの暗さに、気が遠くなりそうだった。

「ああぁー。今日はもう疲れちゃったなあ、わたし。千尋ちゃんも疲れてるでしょ、色々あったしね……。そろそろ寝よっか?」
 亜希は、伸びをして体を左右にひねっている。
「あの……。亜希ちゃん」
 この部屋に戻ってきてから、いつ言い出そうかと躊躇していたこと。千尋は、今もって意味もなく裸のままなのだ。
「ふく……。服を、着させてくれませんか」
 一瞬、奇妙な沈黙があったが、亜希は、ソファにふんぞり返った。
「ええー。でもわたし、千尋ちゃんに下着は貸したくなーい……。あ、それとも、あんなに汚いパンツを、また穿く気ぃ?」
「亜希ちゃんに服を借りようとは、思ってません。いいから、わたしが着てた服を返して下さい!」
 血の逆流するような怒りで、千尋は、つい語気を尖らせていた。
 けれども、亜希の余裕綽々とした態度は、微動だにしない。
「なに必死になってんの、千尋ちゃん。はっきり言ってダサいから。寒いわけじゃないんでしょ? だったらあ、服なんて着なくっていいじゃぁーん」
 頭の中で、何かがぷつりと切れて飛んだ。
「ふざけないでよ……。あんた! ほんとうにぃ、いい加減にぃ!」
 抑えようもなく、憤怒の魂がほとばしるかのごとく、声が荒くなる。気づくと、無意識のうちに脚が前に送り出されており、右の拳をぐっと握っていた。
「はぁ!?」
 張り合うように亜希が声を発する。だが、亜希の表情に、怯えの影が走ったのを、千尋は見逃さなかった。
 真っ直ぐに亜希の体を目指して突き進んでいた千尋だったが、ぬっと伸びてきた手に、顔面を押さえつけられる。
「ああぅ……」
 首を押し戻されるようにして、千尋の勢いは完全に止められた。忌々しい守護者によって阻まれたのである。とはいえ、頭の片隅には、やっぱりか、という思いがあった。加納が黙って見ているわけがないのだ。
 千尋は、短くなった髪の毛を、引き抜かれるほどの勢いでつかまれた。全身にみなぎっていた怒りのパワーが、徐々に消えていく。右の拳も、指が開いていった。
 くそ……。自分を抑えられなかったことに対する痛切な後悔と、叫び声を上げたいほどの屈辱感。
「千尋……。おまえ、まさか、お嬢さまに暴力を振るう気だったんじゃあないだろうね……。何を言われても、従わないといけないのが、おまえの立場でしょうが。お嬢さまに服は必要ないって言われたら、裸でいればいいんだよ!」
 怒号を上げた加納は、声を低くして続ける。
「髪をつるつるに丸められて、まん毛まで剃られないと、自分の立場ってものを理解できない? ねえ?」
 心臓が縮み上がるような脅しだった。
「すいません。本当にすいませんでした……」
 千尋は、すがりつかんばかりに謝った。
「お嬢さまに謝るんだよ!」
 髪の毛をつかむ手に体を引きずられ、千尋は、亜希のすぐ前に立たされた。
「すいませんでした」
 千尋は、深々と腰を折った。許されるまで、この体勢を取り続けるつもりでいた。
 それを見た亜希は、はあ、と溜め息をついた。
「ねえ、加納さん。やっぱり寝る時は、千尋ちゃんのこと、縛っておくことにする……」
「え!?」
 ぎょっとして、亜希の顔を凝視した。
 亜希は、千尋の反応は無視し、顔をしかめて加納のほうを向いている。
「だって、手をグーにして襲い掛かろうとしてきたんだよ。夜、わたしが寝てる時に、なにされるかわからないもん。……怖いよぉ」
 何もできない子供のような口調で、亜希は言う。
「それがいいと思います。お嬢さま、ロープはどこにあります?」
 亜希がタンスを指し示し、加納がロープを取ってくる。
 加納に二の腕をつかまれ、体を引かれたが、千尋は、縛られることに対する不安感から、足を踏ん張って拒んだ。
 すると加納が、凍ったような双眸をこちらに向けた。
「おまえ、抵抗する気なの? 本当に、まだ立場がわかっていないようね」
 脳裏に、つい今しがた言われた、怖ろしい脅し文句が蘇る。とたんに体から力が抜けていき、千尋は、操り人形のようにぎくしゃくと連れていかれた。

 亜希の天蓋ベッドのところで立ち止まる。加納は、ベッドの足側の脚にロープの片端を結びつけ、反対の端で、千尋の両手首を合わせて縛った。
 千尋は、まさに囚人と同じように、手の自由を奪われたのだった。そして、寝る場所は、どうやら亜希のベッドの足元ということらしい。
 茫然自失の状態で立ち尽くしていると、すぐ横に、どん、と加納が物を置いた。ガラスの容器、千尋のトイレと呼ばれるものだ。
「明日から、この家で頑張って働かなくっちゃいけないんだから、しっかりと休んでおくんだよ。……おやすみ、千尋」
 加納は、皮肉な笑みを口もとに浮かべる。
「……おやすみなさい」
 虚しい挨拶を返すと、千尋は、力なく頭を垂れた。
 そうして加納は立ち去りかけたが、思い出したように、千尋の背中に声をぶつけた。
「汚物は、ちゃんとこの入れ物に出すんだぞ!」
 剥き出しのおしりが、平手で勢いよく打たれた。微量の湿り気を帯びたような、鈍い音が鳴った。
「ひうっ」
 不意を衝かれた打擲に、千尋はぶるりと飛び上がっていた。
「お嬢さま、わたしはこれで失礼します。では明日。おやすみなさい」
「おやすみなさーい」
 千尋の後ろでは、亜希が陽気な声を出していた。
 ロープで拘束された両手に、千尋は目を落とす。なんて惨めな格好なんだろう……。ひどい、こんなの。これはいったい、なんの罰なの。
 胸を内側から叩かれるような悲しみが湧き起こってきた。頬の筋肉が震え、目の縁には涙が溜まってくる。
 しかし、何度も深呼吸することで感情を紛らわせ、必死に涙を堪えた。泣いているのが亜希にばれたら、なおさら惨めになる。

 亜希の足音が、こちらへやって来た。
 亜希は、千尋の横を素通りし、ベッドに体を投げ出した。布団の上で、じゃれる猫のように、もぞもぞと意味不明な動きを繰り返す。
 訝しく思って眺めていると、亜希は、ベッドの縁に腰かけた。えへっ、というような笑い顔を千尋に向ける。
 ふと、千尋は、戸惑いに似た複雑な感情を抱いた。なぜなら、亜希が今見せた仕草には、以前の、可愛いかった彼女の面影が、色濃く漂っていたからだ。
「千尋ちゃん。ちょっとこっちに来て座って。……話、しようよ」
 不自然だが、その口調は、何か純粋に千尋とのお喋りを望んでいるような感じがした。
 亜希の様子が、さっきまでとは一変している、と千尋は感じた。まるで、以前の亜希に戻っているような……。
 だが、千尋は、その思考を追い払った。全裸、拘束された両手、歪んだキノコのような醜い髪型、ガラスケースのトイレ……。他でもない、この小娘のせいで、今、自分は、こんなにも惨めな状況に陥れられているのだ。
 ベッドの縁で、脚をぶらつかせる亜希のそばに、千尋は、嫌々ながら寄っていき、カーペットの床に、そっと膝を下ろした。正座の姿勢になり、両手をそっと下腹部の上に重ねた。はたから見たら、王女とその奴隷のような絵であろう、と暗澹たる気持ちになる。
「千尋ちゃん……。今、わたしのこと、どう思ってる?」
 いきなり亜希はそう切り出した。亜希の顔に目を向けると、その口元は、やんわりと緩んでいた。
 唖然とさせられるような腹立たしさ。
 両手の自由を奪っておけば、もしも、千尋が堪りかねて暴走しようが、身の安全は守れるという確信から、挑発をしているのだろうか。ならば、怒りを露わにしては、それこそ亜希の思う壺である。
 千尋は、そっぽを向いて何も答えなかった。
「やっぱり千尋ちゃん、怒ってるよね? そりゃあ当たり前だよなあ……。わたし、千尋ちゃんのことを散々侮辱して、すごい恥ずかしい思いをさせて、髪を黒くさせたうえ、短くさせて、今だって、そんな格好させてるんだもんねえ」
 亜希は、いやにしんみりとした調子で話し始めた。
「……あのね、変な話なんだけど、千尋ちゃんを、こんなにひどい目に遭わせてるってことに、わたし自身も、なんて言うか、ちょっと意外な気持ちがするの……」
 意外……? なんで・・・・・・?
 その言葉に引っ掛かり、千尋は、亜希の表情を盗み見た。亜希は、こちらを向いておらず、物思いに耽っているかのような遠い目で、宙を見つめていた。
「だって、わたしと千尋ちゃんだよ。あんなに仲良かったのに……。もしかしたら、千尋ちゃんは、昔っからわたしが憎んでいたから、今こうして千尋ちゃんに、ひどいことしてると思ってるかもだけど、それは違うよ。わたし、千尋ちゃんに憧れてたし、本当に大好きだったんだよ……」
 なぜだか千尋は、亜希の話を聞いているうちに、背筋が寒くなっていくのを感じていた。
 嵐の前の静けさ。そんな得体の知れない不吉な空気が、今、千尋と亜希を包んでいる気がした。
「でもね、千尋ちゃんの一家が大変なことになったって聞いた時に、わたしの中にあった、千尋ちゃんのイメージ、可愛さや優しい声や、頭の良さや料理の巧さとかが、全部崩れていっちゃったの……。それでとうとう、わたしの中で千尋ちゃんは、暗くて狭いところで、助けを求めるように、両手を挙げて大声で叫んでいるような姿に、変わってたの」
 亜希は目を細め、話を続けた。
「……みっともないって思った。そう思ったら、なんだか千尋ちゃんを、もっとひどい目に遭わせて、痛めつけたいって気持ちが突然出てきて、一気に膨らんでいっちゃったんだ……」
 今、亜希は、嘘偽りのない告白をしている。その内容や喋る雰囲気から、千尋はそう確信した。
 大企業の社長の令嬢同士という、身分の均衡が崩れたのをきっかけに、亜希の中に眠っていたサディスティックな血が、目覚めたというのか。にわかには信じられない話であるが、おそらく、それが真実に限りなく近いだろう。
 その時、亜希が千尋に目を向けた。亜希の双眸に、みるみる妖しい光が宿っていく様を、千尋は、呆然と眺めていた。
 そして突然、亜希は、表情を活発に動かしながら、突き抜けるような甲高い声で捲し立て始めた。
「だってえ! しょうがないじゃーん! 千尋ちゃんを、いじめてみたいって気持ちが、止まらなくなっちゃったんだもーん。それで実際にやってみたら、想像してた以上に愉しくってさあ。……千尋ちゃん、こういうことされるの、すごい嫌でしょーう?」
 亜希は上体を屈め、いきなり右手を、千尋の体へと伸ばしてきた。愕然とすることに、その手が、裸出した乳房をぞんざいにつかんだのだった。
 びくりと肩が竦み上がり、頭の中が真っ白になった。千尋は、縛られた不自由な両手で体を守ろうとするが、亜希は、一向に離そうとしない。どころか、面白おかしそうに手を開閉し、乳房を揉み始める。
「うっうぁ……」
 燃えるような恐慌と恥辱の中で、千尋は呻き声を発していた。背中をくっと伸ばし、亜希に目で訴えかける。お願い、やめて……。
 だが、千尋は、すべてを諦めさせられるような絶望感に包まれた。亜希の顔が、世にも怖ろしい、まさに悪魔のような笑い顔に変わっていたのである。
「うふふ……」
 小悪魔の口から、心底愉快そうな笑い声が漏れる。
 亜希は、乳房の上部を絞るように指を食い込ませると、その手をじわじわと外側に捻りだした。千尋の乳房は、原形を留めないほどひしゃげ、圧迫されたピンク色の乳首がせり出していく。
「こんなことされて、すごい嫌でも、千尋ちゃんったら、手も足も出ないんだからあ……」
 亜希は、胸から手を離すと、今度は、千尋の頭を撫で始めた。
「あんなに綺麗だった千尋ちゃんが、今は、こんなに不細工になっちゃって。可哀想ねえ……」
 もはや、千尋は放心状態で、亜希に撫でられるがまま、頭を揺らしていた。

 ふいに、亜希が立ち上がった。
「さっ、今日はそろそろ寝ましょ。千尋ちゃんは、もう健康的な体しか取り柄がないんだからさ、体調を壊してもらっちゃあ、わたしも困るのよ。だから、ちゃんと布団は貸してあげる」
 亜希は、タンスからタオルケットを取り出して戻ってくると、千尋の膝に放った。
「千尋ちゃん、もう話すことはないよ。実を言うと、さっきから、ちょっと体が臭ってるのよ。不潔だから、早くベッドから離れて。それと、うちのトイレは絶対に貸さないから、何度も言うけど、おしっこやうんちは、その入れ物にしなさいね」
 そう言い捨てた亜希は、ベッドにうつ伏せに寝転び、枕元にあったリモコンをかちかちと操作した。部屋全体が急速に暗くなり、横たわった亜希の姿も、シルエットでしかなくなった。
 ベッドから離れろと言われても、ベッドの脚にロープで両手を繋がれているため、そう遠くに移動することはできない。
 結局、千尋は、ベッドの足側から二、三メートルほどのところで、カーペットに横になり、与えられたタオルケットを体に掛けた。その際に、そっと、千尋用のトイレとされた容器を、引き寄せておいた。
「千尋ちゃん。今日のことは、ごめんね。ひどいことしたなって、わたしだって感じてるんだ……。でも……、こんなに愉しいことは、滅多に体験できるもんじゃないとも思ってるの。だから、なんて言ったらいいのかな。もう、千尋ちゃんと、前みたいな関係には戻れないってことかな。仕方ないよね……。おやすみ」
 シルエットの亜希は、布団を被った。
 
 しばらくの間、千尋は夢うつつの状態で、何も考えられなかった。だが、静かになり、しだいに思考が回りだすと、精神的な衝撃の傷口が、ばっくりと割れて、広がっていくのを感じた。
 さっきまで、千尋は思っていた。ずっと前から、亜希は内心、千尋に対して、嫉妬などの歪んだ感情を持ち続けていたのだ、と。だが、それは違った。ほんの数ヶ月前まで、亜希が千尋に向ける、あどけない笑顔は、なんの混じり気もない純粋なものだったのだ。
 しかし、安城商会の破綻、千尋の凋落を機に、亜希の中に、小さな悪意が芽生えた。その悪意は際限なく膨らんでいき、その果てに、亜希は、裏の顔を持つようになった。先程、千尋の乳房を鷲づかみにしている時に表れた、あの怖ろしい笑い顔だ。
 亜希自身も、自分の心の変わりように、戸惑いを感じているらしい。だが、そこで、亜希は開き直ったのだ。快楽を得られるのなら、誰に何をしようと構わないと。たとえ相手が、姉のように慕っていた千尋だとしても。
 もしかしたら、大富豪の令嬢として、徹底的なまでに甘やかされて育った環境が、そんな自己中心的な思考を生ませる、温床となっていたのかもしれない。我慢というものを知らない、自分を中心に世界が回っていると思い込んでいる、お嬢さまだから。
 なんだか、もっとも救いのない結論に、行き着いてしまった思いがする。そして、人間というものが、何かのきっかけで、これほどまでに人格が変わってしまうという事実に、千尋は、心の底から戦慄した。

 微かに亜希の寝息が聞こえてくる。
 今日、自分のことを、散々もてあそんだ相手が、気持ちよさそうに寝ている気配は、不愉快だった。だが同時に、千尋が待っていた時でもある。
 千尋は、タオルケットから出ると、ガラスの容器に跨った。明日の朝、容器の底に溜まったものを見られるとしても、放尿の瞬間だけは見せたくなかった。そのため、亜希が寝静まるのを待っていたのだ。便意もあるが、出したものが、そのままの形で残ることを考えると、とてもすることはできない。
 はらわたの千切れるような屈辱だったが、千尋は、小便を出し始めた。
 暗順応した目は、部屋にある大体のものの輪郭を、見分けることができた。黄色い液体が、容器のガラスに勢いよく当たり、音が鳴っている。なんともやり切れない思いで、千尋は、その音を聞いていた。
 その時だった。千尋の耳に、ベッドから、くすくすと笑う声が飛び込んできたのだ。ぞっとして、全身が凍りついた。
 亜希が寝付くのを待って千尋は小便をする。それを亜希は予想しており、寝たふりをしていたらしかった。
 嘲笑われているとわかっても、溜まりに溜まってほとばしる尿を、止めることはできない。恥辱に脚がぶるぶると震え、知らず知らずのうちに、千尋は涙を流していた。気が触れるほど惨めな気持ちだった。
 最後まで出し切ると、拘束されている両手をなんとか動かし、性器を拭った。あまりにも情けない……。悔しさに涙をこぼしながら、便器から離れて横たわり、タオルケットにくるまる。
 この日の夜、この家で、千尋は、社長令嬢という身分から切り離された現実を、思い知らされたばかりではなく、最低限の人権すら、持つことの叶わない人間と成り果てた。
 もはや、嗚咽を抑えることもできない千尋の泣き声と、ベッドの上から起こる、亜希の愉快そうな笑い声とが、おどろおどろしい不協和音となって、響き続けていた。






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