色白の細長い指が、太ももの表面を触手のように這い回っている。脚の付け根や陰毛の生えぎわなど、際どい部分を指先で撫でられたり、押される感触。 ついに南涼子は、喉元に抑えていた声の塊を吐き出した。それは、およそ思春期の女らしからぬ、ひどくしゃがれた喘ぎ声だった。対照的に、セーラー服の少女たちの顔には、どこか酒酔いにも似た嗜虐の色が浮かんでいる。 涼子のおしりに回った両の手が、ぐいと強く太ももをつかんだ。 「よくがんばったねー、りょーちん……。まん毛の検査はぁ、ごーかく」 竹内明日香は、至近距離に茂る涼子の陰毛を見つめたまま言った。けだるげに立ち上がると、恋人同士のように顔を近づけてくる。 視界を占める、フランス人形めいた女の顔。涼子が呆然と向かい合っていると、彼女は、ちょろりと舌を出し、ようやく離れていった。 涼子は、肩を抱いて乳房を隠し、唇を噛んだ。体の震えは一向に治まらない。逆に、今の今まで、明日香に間近で恥部を観察され、臭気まで嗅がれていたという事実が実感として襲ってきて、収拾が付きそうになかった。 いやだ、わたし……、恥ずかしい。こんなことって、ありえるの。もう、何もかもめちゃくちゃじゃん。 「ねえっ、明日香……。あそこのにおい、きつかったでしょ?」 吉永香織が、露骨に、そして聞こえよがしに尋ねる。明日香は、返事の代わりに涼子を振り返り、意味ありげに笑った。 気づくと、彼女たちは、一様に侮蔑と嘲りの笑みを顔に張りつけ、一糸まとわぬ涼子の立ち姿を見すえているのだった。年下の石野さゆりまでもが、他の生徒に対しては絶対に向けないであろう蔑視に光る目つきで、先輩である涼子を真っ直ぐに見ている。 涼子は、たまらず目を逸らした。言い様のない屈辱感と恐怖に、体を締めつけられる思いがする。 「なんか南先輩、今度は、ま○こじゃなくて乳首隠しだしてんだけど……」 さゆりが調子に乗って、低く笑いながら悪態をつく。年下の挑発は、香織や明日香のそれとはまた異質で、免疫のできるものではなかった。その度、涼子のプライドにはざっくりと生々しい傷跡が残る。 にわかに、暗い憎悪が湧き起こる。おまえだけは絶対許せない。いつか必ず復讐してやる。後輩を視界の隅に捉え、涼子は誓った。 「南さーん。次は腋だよ、わ・き……。調べるから両手を頭の後ろで組んで。南さんにお似合いの、犯罪者のポーズ」 香織は、例によって皮肉たっぷりに告げる。 一時燃え上がった憎悪は、安堵と不安が複雑に混じり合うことにより消え失せた。肛門をおびやかされたり、性器を明日香の鼻先に差し出していた地獄の時間に比べれば、明らかに精神的苦痛の度合いは下がる。だが、問題はその先である。 「どうしたの? まさか、約束を守らないで処理したんじゃないでしょうね?」 香織は、疑わしげに目を光らせ、にやりと笑う。 その悪意に満ちた顔つきを見て、涼子の不安は一気に増幅した。『あれ』は本気で言っていたのだろうか。あんな馬鹿げたことを。処理したことを認め、しおらしく謝ってみせれば、単なる嘲笑のネタで終わるのかもしれない。しかし逆に、香織が、烈火のごとく怒りだすことも十二分に有りうる。 逡巡の末、涼子は命令されたとおりの格好を取った。ごまかそう……。 香織が、威圧的な態度で歩いてきた。それに同調して明日香も続く。 前日と同様、右の腋の下を香織が、左を明日香が、涼子の腕を押し上げて覗き込んだ。耐えがたい屈辱のため、筋肉がこわばるのを感じるが、処理跡のことを厳しく追及されるのではないかという恐怖のほうが大きい。 「あんた、剃ったでしょ?」 案の定、香織が刺々しい口調で言ってきた。 一瞬、涼子は返事に迷った。だが、睨み上げる香織の三白眼を見たとたん、身の竦むような恐怖を感じ、そして確信した。認めたが最後、命令に背いた罰は、これまでの何にも増して陰惨なものになるだろう。徹底してごまかす以外に道はない。 「え……、わたし、剃ってないよ」 涼子の声は、消え入りそうだった。剃ってたらなんなのよ、と当たり前のことを言い返せない自分が情けない。 「ええー、うそだぁー……。だってえ、全然毛が伸びてない……、ってゆうか、この間、見た時よりも、綺麗んなってるもーん」 今度は、明日香が半笑いを浮かべて言い募る。 「本当だよ……。わたし……、そんな、毎日剃ってるわけじゃないし……」 苦しい言い訳だと、自分でも思う。言葉を発する唇が震え始めていた。 明日香が、再び涼子の腋の下に顔を近づけて検分する。時を移さずして、彼女の冷たく鋭い眼差しが涼子に向けられた。 「うそをつくなぁ!」 およそ聞き慣れない怒鳴り声で明日香はそう言うと、出し抜けに、涼子の左の乳房を引っ掴んだ。 豊満な肉のふくらみには指先がめり込み、張りついた中指が、赤茶色の鋭敏な突起をひん曲げている。明日香が鷲づかみにした肉を邪険に押し上げ、乳房は、ぶるりと波打って不格好な形にひしゃげた。 「いやあっ……」 それは、思春期の少女の、か弱い悲鳴だった。明日香の手を払いのけると、涼子は体中から力が抜け、すとんと腰が落ちた。背中を丸め、傷を癒すように裸出した乳房を押さえる。 激烈なショックだった。ひんやりとした明日香の手が、肉体に張りついた瞬間の感触は、まるで刻印のごとく心と体に染み込んでいく。 もういや……。なんで、わたしが……。こんなことが、あっていいの。 「なんでしゃがんでんだよ、立てよ」 髪の毛を、香織につかまれる。あまりにも無情。 「もうお願いだから許してよ! どうしてこんなことする必要があんのよっ!」 仏頂面の香織を見上げながら、涼子は声を振り絞って叫んだ。言葉の最後のほうは、ほとんど涙声になっていた。 「うるせーんだよ。約束破ったおまえがいけないんだよ。おまけに嘘こきやがって。早く立てよ!」 髪の毛が抜けるほどきつく引っ張り上げられ、涼子は、はらわたの千切れるような思いでそろそろと立ち上がる。 他人に触れられた傷の残る乳房を隠している涼子に向かって、香織は、血も涙もなく再度ポーズを強要した。 涼子は、涙を呑んでガードを解き、両手を頭の後ろで組む。 「南さん、あんたが悪いんだよねえ? 一目見りぁあ剃ったかどうかなんてわかるの。約束守れなくて剃っちゃったなら、まずはそのこと謝るのが普通でしょ?」 香織の顔が、まるでデスマスクのように見えてくる。 「……はい」 「あたしたちが許せないのは、しらばっくれようとしたことなの。なんで嘘つくの? なんで謝ろうとしないの?」 「はい……。ごめんなさい」 「今さら、遅いから……」 そこで香織の手が脈絡なく飛んできて、涼子は頬を張られた。弱い打擲だったが、香織の掌が唇に当たったので、自分の唾液が付着したのがわかった。そのために、なんとも決まりの悪い気持ちになる。 涼子が見るともなしに見ていると、香織は、掌に目を落として顔をしかめ、吐き捨てる。 「きったねえ……」 このような状況下では、自分の臭気を持つ唾液や汗といった体液は、恥以外の何物でもない。 「拭きたいから動かないで……。じっとしてなさいよ」 渋面の香織は、有無を言わせぬ口調で言うと、なにやら、その口元を不気味に曲げた。 次の瞬間、涼子の肉体は反射的に竦み上がった。 明日香の指の感触が焼きついた左胸に、今度は、香織に手を擦りつけられたのだった。その掌に付着していた自分の唾液で、乳房の皮膚にうっすらと湿り気が付く。 同様に二度、三度と、香織の小振りの手が、涼子の豊満な乳房をなぶり、デリケートな性感帯の突起が、見るも無惨に捩じ曲げられる。 「うぐっ……」 涼子は、凍えるように両手を組み、その仮借なき刺激に身悶えた。浅く荒い息づかいに混じって、およそ日常とは似ても似つかない弱々しい声が、自分の口から漏れている。自我を切り裂かれるような、悲しみと絶望の極致。 その時、香織の黒目がちらりと上がり、涼子と視線が交錯した。直後、左胸を擦っていた香織の手が、脈絡なく乳房を押し潰した。その手が弧を描いて乳房の肉を押し上げ、時折、さり気ない素振りで指が蠢いては、乳首をひねくり回される。 「あぁ……、いやっ」 びくりと上半身が痙攣すると同時に、涼子は、不覚にもひときわ高い声を漏らしていた。だが、剥き出しの性感帯を、忌まわしい女の手に刺激されるという、身の毛のよだつ感覚の荒波が、痴態を演じてしまった恥ずかしさをもさらっていく。 視線を落とすと、その小柄な女の顔には、下卑た薄笑いが浮かんでいた。 きっと、わたしの唾液で手が汚れたことを、これ幸いと捉えたのだろう。そんな思いが、脳裏をよぎる。 量感に富む、涼子の乳房の手触りや、その形を卑猥に歪ませることに、香織は、ただならぬ愉悦を覚えている。考えたくないが、もはや、それは疑いようのない事実だった。 「あたしたち、あんたのこと、絶対に許さないから……。約束破って、さらに騙そうとしたんだから、当然だよねえ?」 散々、涼子の乳房をいじくり回した後、香織は、そう言い放った。 もう言葉も出ない。涼子は、終生拭えない手垢の付いた乳房を、そっと両手で押さえ、暗澹たる気持ちで頭を垂れた。 「ねえねえ、明日香……。ボディチェックにずいぶん手間取っちゃったけどさ、そろそろ、あのこと始めようかな、って感じなんだけど……。南さんに制裁ってことで」 どうやら、香織の物言いからすると、すでに、おおまかな筋書きが出来上がっているようだ。 なんのことはない。たとえ、涼子が『約束』を守り、『検査に合格』したとしても、自分たちが事前に盛り込んだ計画は、余すところなく実行するつもりだったのだ。 涼子の汚辱と香織たちの悪意とが融け合う黒い闇は、いつ果てるともなく続いている。希望の光の届く気配すらない、絶望そのものという闇だった。 だが、だんだんと、その闇に順応し始めている自分に気づく。順応とは、つまり、この状況で恥辱感や恐怖心といった感情が鈍麻し、人間性を失っていくことに他ならない。 ふざけてる、こんなの。ふざけてるよ……。 ふと、涼子は視線を落とし、自身の濃い陰毛を眺めた。こんな恥ずべき部分を、同じ女子生徒たちの目に晒しっぱなしだという実感が、いつからか妙に薄れていた。なにやってんだろう、わたしは……。 「あっ。でも、待ってくださいよ、香織先輩……。腋の処理してたんだから、やっぱり念のため、おしりのほうも調べたほうがよくないですか? 南先輩、剃っちゃってるかもしれないし」 さゆりは、横目で涼子の顔を見ながら言い、歯の間から摩擦音を漏らして笑う。 涼子は、腹の底からぐっと何かが込み上げるのを感じた。 「どうしよっか、南さん。さゆりがこう言ってるんだけど……」 香織は、加虐趣味を絵に描いたような笑みを浮かべている。 どうせ、わたしが何を言ったところで、やる気なんでしょうが。半ば諦めの心境だったが、どうして、たやすく受け入れることができようか。 「お願いします……。やめてください」 涼子の言葉に、香織とさゆりが目配せし合う。 「あたしはいいよ、南さん。だけど、言い出したのは、さゆりだからさ、どうしても嫌なら、さゆりに向かってお願いしてよ。検査するかしないかは、この子の判断で決めるから……。ちゃんと、なんで嫌なのか、理由を、はっきり正確に伝えなきゃ駄目だからね」 年下に辱められる女という構図を、香織は特に好きこのんでいる。だいぶ前から思い知らされていることだが、もはや迷う余地はなかった。 へらへらと舐めきった笑いを見せる後輩のほうへと、涼子は裸身を向ける。 「検査はつらいんで……、やめて、もらえますか……」 涼子が、後輩に対して屈辱極まりない丁寧語で言い終えると、わずかな沈黙の後、おもむろにさゆりは口を開いた。 「えっ……。それだけ? 理由になってないし。何がどうつらいのかも、よくわかんないんだけど。はっきり言えないんですかねぇ。……やっぱり、検査、やるべきかなあ、なーんて」 さいあく、こいつ。この女が、ただ年上の生徒に付き従っているだけの存在だと思ったら大間違いだ。紛れもなく、香織や明日香に匹敵する悪意の持ち主である。 涼子は、血管の切れるような思いをこらえ、一つ溜め息をつくと、乳房を押さえている両手を腰に添えた。香織がよく口にする『誠意』を示すためだった。 「えっと……、あの、毛の処理をしてしまったのは、腋だけです。信じてください。おしりの穴を見せるのは、恥ずかしくて、どうしてもできません。どうか、おしりの検査だけは、やめてください。お願いします」 赤裸々に言葉を並べ立て、涼子は小さく頭を下げた。なおも、さゆりが文句を付けてくるようだったら、もう黙って背中を向けよう、と腹を括る。 誰からともなく、女子生徒たちは失笑した。どうやら、涼子の無様な媚びようは、それなりに彼女たちの嗜虐心を満たしたらしい。 「ふうーん……。年下のあたしに頭下げるくらい、おしりの穴、見られたくないんだ? まあ、べつに、いいですよ。あたしだって見たくないし」 涼子を直接服従させた優越感が、さゆりの口調には、嫌というほど含まれていた。この後輩の意識上から、年上の生徒に対する遠慮や躊躇が完全に消え去ったとしたら、下手をすると、香織や明日香よりも、たちの悪い存在となるのではないか。そんな予感が脳裏に浮かぶと、涼子は心胆を寒からしめられる思いがした。 「南さん、勘違いしないでよ。おしりの穴の検査は免除してあげるけど、嘘ついたこととか、許したわけじゃないからね」 香織の戯言にさえも、目上の人に対するように、はい、と涼子は返事する。 「この辺の、動かしちゃった机を、元の位置に戻しておいて。それが終わったら、こっちに来て。大事な話があるの」 香織は、妙にしんみりとした口調で言いつけると、残りの二人に目顔で合図をする。彼女たちは、全裸で立ち尽くす涼子を尻目に、教室の窓際のほうへと歩いていく。 大事な話、はなし……。話だけなら、なんで移動する必要があるの。そっちに行ったら、何があるっていうの。 涼子は、鉛のように重たい体を動かし、どけられていた机と椅子を列に直していく。その作業の途中で、強烈な不条理感に襲われて立ち眩みがした。 三十以上、縦横に並んでいる机と椅子。そして、普段、そこに着席しているクラスメイトたち。時計の針を少しばかり戻せば、みんなの賑やかなお喋りの声が聞こえてくる。その教室で、なぜ今、わたしは、着ているものをすべて、下着までも脱がされて立っているのだろう。 自分ひとり、クラスメイトの輪から外され、異次元の中へと引きずり込まれているような気分だった。机を持ち運びながら、涼子は呪った。この黒い闇を作りだした三人の女を、そして、自分自身の不幸な運命を。 立て続けに背中を押され、涼子はよろめいた。 彼女たちが代わる代わる手を伸ばし、涼子の裸体を押しやるのだった。そして、くすくすと薄気味の悪い笑い声を立てている。まるで、魑魅魍魎の類に取り囲まれているような錯覚に囚われる。 その時ふいに、香織の手に勢いよく体を突かれ、涼子は、そばの机に腰をぶつけた。彼女たちの意図がまったく読めず、涼子は、おろおろと振り返る。 「ちょっと、なんで押すの……? もっとこっちに行けばいいの? 口で説明してよ」 香織が、了解を示すように何度か頷いた。 「ごめーん。南さんのキョドりかたが面白くって、少しからかっただけ。もうしないから、そこの椅子に座って」 心底愉快そうに言って、香織は顎をしゃくる。今、涼子の体が当たったせいで位置のずれた席を指していた。 そんなことできない。他の子の椅子に、自分の体の汚い部分を直に付けるなんて。 「あの……、べつに座らなくてもいいでしょ? 話すことってなんなの?」 涼子の反論に、香織の顔つきが、にわかに一変した。 「なんで、いちいち口答えするわけ? 座れって言われたら座ればいいんだよ。優しく言ってやれば、すぐに付け上がるんだね、あんた。いつになったら、身の程をわきまえられるようになるわけ?」 「はい……。すみません」 香織が言い終わるが早いか、涼子はすぐに謝った。機嫌を損ねてしまい、香織の怒りの導火線がじりじりと燃えていくような恐怖に、冷や汗の出る思いだった。 どやされる前にと、涼子は、ただちにその椅子を引き、腰を落とした。普段、誰が座っているのかわからない椅子に、今、自分は、剥き出しの性器と臀部をくっつけているのだ。ひどく後ろ暗い状況であるが、なるたけそれを意識しないようにした。 「うわー、きっつぅ……。南先輩、べーったり、おしりつけちゃってるし……。きったねえ」 「ねーえー。そのせきぃ誰なのー? もしかしてぇ、りょーちんの友達の子?」 さゆりと明日香の嫌味が、重なって降り掛かってくる。 香織はといえば、けろりと上機嫌な表情に戻っており、じっと涼子を見下していた。 やっぱりそうか、と涼子は心の内で溜め息を吐いた。香織は、話をするために座らせたのではない。下着も着けていない涼子を、他の生徒の椅子に座らせること自体に、意味があったようだ。 きたない。それはわかっている。誰だろうか、いつもこの席を使っている級友に対して、後ろめたい思いで胸を締めつけられる。そんなやり場のない感情がゆえに、涼子が醜くうろたえる姿を、香織たちは望んでいるのだろう。 あえて、文字通り腰を据えた状態で黙っていると、香織が、ぼそりと低い声で言った。 「なに、ぶすっとしちゃってんの……。南さん、そこ、誰の席かわかってる?」 意味ありげな物言いに、一瞬、思考がストップし、涼子は目をしばたたいた。 にわかに得体の知れない不吉な予感が、胸の内に流れ込んできた。どういうこと。いったい、何が言いたいんだ。『この席自体に』なんらかの意味があるっていうの。 涼子は、何気なしに、周囲に視線をさまよわせる。ふと、直感に引っ掛かるものがあった。その正体は判然としないが、この教室の、この位置が、いかにもまずい、という感じがするのだ。 べりっとおしりを剥がして、涼子は椅子を立っていた。ほとんど発作的な行動だった。 涼子の戸惑う様子を見た香織の顔に、ひときわ意地の悪そうな笑みが、くっきりと浮かんだ。 「南さんが、今座ってたところ……、滝沢さんの席だよ」 脳裏に、気を失いそうな閃光が弾けた。たちまち涼子は、救いのない恐慌状態に陥った。自分の直感は、香織の口から聞かされる直前には、すでに、その名前を当てていたのだった。 涼子は、乾き切った唇を湿し、香織に目をやった。 「えっ。滝沢さんの席だったんだ……? でも、それがなんなの?」 さらに直感は、ここで絶対に狼狽してはいけないという信号を発していた。 「南さん……、滝沢さんのこと、苦手でしょ?」 香織は、見透かすような目つきで涼子を見ながら、にやにやと笑っている。 「だってさ、よく一緒のグループにいるの見るけど、滝沢さんとは、あんまり仲良くしてないじゃん……。南さんのほうは、なんか一方的に話しかけてるけどさ……。必死って感じで、ウケるんだけど」 その一言一句に、涼子は、すっかり震撼させられていた。香織が常に目を光らせているのだろうことは想像に難くなかったが、まさか、そこまで微に入り細に入り行動を観察されていたとは、夢にも思わなかった。この女は、いったい、どこまでねちっこい性格をしているんだ。 滝沢秋菜。彼女との関係は、まさに香織の言ったとおりのものだった。 だが、どうして香織は、今、そんなことを言いだすのか。 いや、わたしは、薄々気づいているのではないか。あまりに怖ろしいから認めたくないだけで。滝沢秋菜というカードを、香織に何らかの形で使われることを。 「べつに……。わたし、滝沢さんのこと、そんなふうに思ってないけど……」 涼子は、全身全霊で否定の言葉を絞りだす。 「声がうわずってるよ、南さん。やっぱり図星でしょ。……ちょっと待ってなよ」 香織は嫌味な笑みを浮かべて踵を返し、教室の後方へと歩いていった。そして、生徒用のロッカーの前で足を止める。 涼子の目には、そこから先の香織の一挙一動が、まるで映像の中の光景のように非現実的に映り始めた。 やがて、香織は、ロッカーのひとつを開けた。その中から、なにやら、体育の授業で着る、学校指定の半袖シャツを取りだして、こちらに戻ってくる。 香織は、意味ありげな仕草で、その体操着を涼子の裸身に押し当てた。涼子は、否応なく持たされたそれを、おそるおそる広げた。 丸首の部分と袖が赤い色で縁取りされたシャツの胸元には、案の定、くだんのクラスメイトの苗字が刺繍されていた。 これで何をしようっていうの。あんたたちは、何を企んでいるわけ。 「ねーえー。それぇ、どんな臭いするかぁ、クンクン嗅いでみてよぉ、りょーちん」 つくづく、竹内明日香という女は変態的だと感じる。どんな面でそんな言葉を吐いているのかと、涼子は軽蔑の視線を投げかけた。 「はやく、明日香に言われたように、やりなよ。もういい加減、自分の立場はわかってんでしょ?」 もはや香織は、涼子のわずかな反発心すら許せなくなっているらしい。 涼子は、溜め息をつきたいのも堪えて、両手に持ったシャツを、そっと鼻に近づけた。強要されているとはいえ、自分の恥ずべき行為に、うなじの産毛がちりちりするような罪悪感に襲われる。なんで、こんなことをしているんだ、わたしは……。 白い布地から、仄かに汗の臭いが鼻腔に流れ込んだ気もするのだが、きっと気のせいだろう。ほぼ無臭だった。 ふと、この体操着を身に着けている滝沢秋菜のイメージが、脳裏に浮かんだ。バスケットの授業で、彼女が、経験者でもないのに、遠くからのシュートを何度も決めていたことを、涼子は思い出したのだった。学力に秀でた秋菜だが、運動神経もトップクラスなのだ。 そういえば、と涼子は思った。香織たちと相対する直前に、ちょうどこの場所で、自分は秋菜と二人きりでいたのだ。滝沢秋菜は、やはりどこか大人びた生徒であり、涼しげな余裕とでもいうべき眼差しが印象的で、時折、胸元まで垂らしたお洒落な髪型を揺らしていた。 その席に、ついさっき、わたしは、剥き出しのおしりを着けていたのだ。涼子は、ぼっと頬が熱くなるのを感じた。 なんだか、オールラウンドに物事をこなす滝沢秋菜のことを意識すればするほど、今の自分の惨めな立場を痛感させられていくような、そんな言い様のない感情が湧き上がってきて、涼子は、目尻に涙が滲みそうになるのを感じた。 「どーおー? それぇ、あせくさーい?」 明日香の間延びした喋り方が、涼子の神経を逆撫でする。涼子は、黙って首を横に振り、否定を示した。 「そりゃあ、そうだよねえ……。南さんの体やシャツと違って、臭くないはずだよ」 香織が、くつくつと笑いながら下劣な揶揄を入れる。 なんで、わたしは、こんな女たちに絡まれることになったのか。いつから、わたしは、プライドを傷つけられても何も言えないような人間に成り下がったのか。 「南さんさあ……、今度は、そのシャツの襟のところ、口に咥えてよ。苗字がこっちに見えるように広げてさ。滝沢さんと仲良くなりたいんでょ? 仲良しの、し・る・し」 呆然と立ち尽くしていた涼子は、訳がわからず、香織を直視した。 目が合うと、香織は、ウインクでもするかのように口元を歪める。そして、その隣の後輩は、うきうきした様子でカメラを構えていた。 うそでしょう……。そんなの。 裸出した全身の、ありとあらゆる部分が冷たくなるほど、体温が急激に下がっていくのを感じる。 「いやぁ……。できるわけないでしょ、そんなの。滝沢さんのことは、関係ないじゃん」 「はあ!?」 香織が、眉間にしわを刻み、聞き捨てならないというように声を発する。 「あたしたちとの約束破って腋の処理しておいて、なに言ってんの? ホント、ムカつくんだけど……。これは罰なんだから、拒否なんて絶対許さないよ」 「南せんぱーい。あたしも、頭にくるんですけどー。反省してないなら、おしりの穴、今から調べましょうかねえ。調べられたいですかあ?」 香織とさゆりは、まさに取り付く島もない。だが、それでも涼子がためらっていると、香織の怒号が耳朶をなぶった。 「襟のところ、口で咥えろって言ってんの! とっととやれよ!」 びくりと肩が竦み、涼子は、後先のことを考える余裕を失った。 サイズを合わせるように体操着を上半身に当て、赤く縁取りされた丸首の部分を、そっと口に含む。 「うっわー……。南せんぱい、まん毛だけ見えてて、なんかエロい……。ってゆうか、汚らしい」 「はい、南さん。にっこり笑ってカメラのほうを向いてー。仲良しのしるしだから」 香織は、今しがた怒鳴ったのが嘘のように、上機嫌な声で要求する。涼子は、耳を疑った。冗談でしょ、ふざけるのもいい加減にしてよ。 だが、香織の無言の圧力は凄まじく、涼子は、引きつる頬を動かして『笑み』の形を作り、カメラを持つ後輩を見やった。陰毛を晒した格好で、道化を演じさせられる屈辱感。どうしようもなく頬が紅潮してしまう。 「きゃーっ! りょーちんの、へんたーい。……気持ちわるぅーい」 「南せんぱい、もろストーカーって感じなんですけど……」 さゆりと明日香が、好き勝手にはやし立てる。 もはや、涼子の頭の中は、混乱の極致だった。どうしよう、どうしよう。これ、滝沢さんのものなのに。わたしが不甲斐ないせいで、あの子に迷惑がかかっちゃうよ。 涼子のもっとも怖れていたことが、現実に起ころうとしていた。関係のない、第三者への波及。 涼子の汚辱と香織たちの悪意とが融け合う黒い闇は、より深くなり、そして際限なく広がっていくのだった。 |
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