第十四章〜自己保身


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第十四章〜自己保身




 どれだけ頭をひねったことだろう。部屋の机に突っ伏して。熱い風呂の湯に浸かりながら。布団の中で暗い天井を見つめて……。
 しかし、ついに呪縛から抜け出す方法を思いつくことはなかった。つまり、あの薄汚い三人の女から呼び出しを受ければ、またしても自分は、慰み者としてもてあそばれることになる。彼女たちの行為が、以前よりさらにエスカレートするとしたら、もう、何をされるかわかったものではない。そんなことを思い、南涼子は、部屋の中で幾度となく叫び声を上げそうになった。
 何よりつらいのは、それでも学校から逃れることはできないということ。合宿費の問題があるのだ。先日、あの三人が返してきた額が六万。まだ、本来の合計額には三十万以上足りない。もし、ここで自分が家に閉じこもり、その問題から逃避してしまったら、どうなるか。おそらく、合宿は中止に追い込まれるだろう。ただの合宿ではない。自分たち三年生にとって最後となる大会を前に、これまでの練習の総仕上げを行い、そして、チームとしてのきずなを、今一度、確かめ合う場である。
 キャプテンとして、いやバレー部の一員として、どうして頬被りすることができようか。何がなんでも、合宿費を全額取り戻さなくてはいけない。そのためには、あの三人との接触は不可避である。
 六万円の入った封筒を見つめると、なんともいえない気持ちになる。
 この金はエサなのだ。涼子を学校へ誘い出すための。
 毎日登校し、上辺だけは、以前と変わらぬ高校生活を送ること。そして、呼び出しがあった場合は、指定された場所へ必ず赴くこと。そこでは、決して命令に逆らってはいけない。そのプロセスをこなすならば、合宿費は分割して返してやる……。そんな意味合いが、この金に込められているのだった。
 心も体も限界を超えて倒れそうな毎日でも、前のめりの態勢で、脚は一歩、また一歩と前に出る。そうして明日の学校へと向かう以外に、選ぶ道はない。
 涼子は、熱い湯船に勢いよく頭まで潜った。顔を出すと同時に立ち、湯船から出る。
 風呂椅子に腰掛けると、T字のカミソリを手に持ち、反対の腕を上げた。むだ毛にはコンプレックスを持っていて、毎日手入れを欠かせないほどだというのに、この数日、処理をしていない。部活ではTシャツで動いているため、周りの子の目が気になり、支障をきたしていた。
 早くも皮膚は、ちくちくとし始めている。もう放置できない。皮膚にぴたりとカミソリを当てるが、手が止まった。処理はするなと言われ、それが馬鹿げているとわかっていても、命令を無視するのが怖かったのだ。涼子の精神は、それほどまでに萎縮していた。
 結局、何度かカミソリで撫でただけの、不十分な形で終わった。
 涼子は、立ち上がって鏡を見た。最近では、鏡に映った自分の裸を見ると、ぞっとする。
 女として申し分のない曲線美。高校生アスリートとして強さを追い求めた筋肉。その二つを兼ね備えた自分の体には、涼子自身、少なからぬ自信を持っていたが……。この体が、あの女たちに観察されている、と思うと、鏡に映る裸の体が、ひどく不潔なものに見えてきてしまうのだ。
 逆三角状に黒々とした茂みに、涼子は指を入れた。軽くむしってみる。抜けた縮れ毛を確認し、シャワーで流す。何度かそれを繰り返した。
 今使ったばかりのカミソリを見る。この部分を少し処理したいという気持ちが、徐々に涌き上がってくる。放課後も休日も、部活で忙しく、これまで、誰かに見せるような機会は想定していなかった。そんな機会は、当分来ないはずだった。なのに……。
 恥ずかしい。また脱がされるのがわかっているのなら、せめて見苦しさを減らしたい、と思う。
 自分の体について、少女たちが吐いた侮辱の言葉の数々が思い出される。とくに、あの後輩が、自分の後ろに立っていた時に言い放った言葉が、胸によみがえる。
 涼子は、おしりにも手を伸ばした。しかし、そこで思い直し、割れ目に指を差し入れることはせず、肉をぎゅっとつかんだ。
 馬鹿なことを。脱がされた時に備え、手入れを行うなど、そんなに愚かで惨めなことはない。
 それに自分は、あろうことか陰毛の処理まで禁止されていたのだ。なんで、わたしは、こんなことにまで口を出されているの……。人前では決して見せない涙が、目から溢れてくる。
 明日また、辱めを受けるかもしれない。明日でなければ、明後日か……。いつまでこれは続くのか。恐怖と不安で神経がすり減る。悔しくて悲しくて何かに当たり散らしたい。いっそ誰かに泣きつきたい。
 学校が見えてくると、足がすくむ。校門を通るたび、涼子は思う。大きな心配事もなく登校してくる、ほかの子たちが、心の底から羨ましい。今日、わたしは無事に学校から帰れるの……?

 ついに来た、と確信したのは、最後に呼び出された日から四日後のことだった。
 教室で、クラスメイトの数人と昼食を食べている時だった。あの女は、白昼堂々と声を掛けてきた。
「りょーちーんっ、りょーちーんっ」
 はっとして見やると、竹内明日香が、含み笑いをして立っていた。
「明日香じゃーん、どうしたのー!?」
 いち早く反応したのは、涼子の隣にいるバレー部の浜野麻理だった。何も知らない麻理にとっては、明日香は、マネージャーとはいえ部活仲間なのだ。
「うーん? りょーちん呼びに来たのっ……。りょーちん、あのコのこと話したいからぁ、ちょっと来てっ」
 麻理と明日香は、なにやら楽しげに、両手で力比べのようなことを始めていた。しかし、涼子を見る明日香の目には、冷笑の色があった。
 体温が下がっていくのを感じる。あの子……。滝沢秋菜のことか。そうでなくても、人に聞かせられない話であることは確かだろう。涼子は、とっさに返事をすることができなかった。
「なになにー、あの子の話って? めっちゃ気になるー!」
 同じくバレー部の雨宮夏希が、近くの机の椅子を引き、そこをぽんぽんと叩いて、明日香に座るよう促した。
「ほかの子が待ってるからぁ、行かなくっちゃダメなのっ……。あーん! うぐぅ……」
 明日香は麻理にあっけなく力負けし、媚びるようなうめき声を出していた。周囲から不審の目で見られないよう、こんな時でも、普段通りの自分を演じているのだ。
 その姿を不快な思いで眺めていると、ふと、ねっとりとした視線を感じた。開いている教室のドアの向こう。陰から、吉永香織が、じっとこちらを観察しているのが見えた。
 体が凍りついた。呼び出しだ……。まさか、周りに友達がいるのも構わずにやって来るとは、思ってもみなかった。動揺を友人たちに悟られては、まずい。
「ああっ、うんっ、うんっ、わかった……。いま行くっ!」
 涼子は、努めて明るい声で言い、無言の間をごまかすように、とびっきりの笑顔を作ってみせた。明日香が、涼子のいじらしい振る舞いを見て、ふふふと笑う。
 涼子が席を離れると、友人たちは、二人のことを大して気に留めていない様子で、話の続きを始めた。バレー部のキャプテンとマネージャーとの間に、どす黒い真実が隠されているなどとは、夢想もしないだろう。
 仲間の輪から引きずり出される形となった涼子は、心の内で呟いた。あの子たちは、いいなぁ……。

「香織がぁ、話があるんだってぇ……。タキザワさんのことぉ」
 涼子が廊下に出ると、明日香は、機先を制するように言った。
 なんで友達がいる時に呼ぶの……!? そう抗議するつもりだったのだが、『滝沢』という名を聞くと、涼子は言葉を失った。涼子にとって、今、もっとも聞きたくないキーワードがそれだった。
 体操着のシャツが無くなった滝沢秋菜は、体育の授業では、見学を余儀なくされていた。その時の、彼女のふて腐れたような表情が、忘れられない。涼子は、申し訳ない気持ちで一杯になっていた。そして、あの、汚れた体操着と、その犯人が涼子であることを示す写真のセットが、いつ、彼女の元へ送りつけられるかと、この数日間、恐怖に震えるような思いで過ごしていたのだ。
 視線を転じると、廊下の片隅で、香織と、例のごとく後輩の石野さゆりが、こそこそと待ち構えているのが見える。明日香と違って目立たない風貌の二人は、陰気なオーラを発していて、幽霊のように薄気味悪い。涼子と同じクラスなのは香織だが、わざわざ明日香に呼んでこさせたのも、うなずける。涼子たちのグループの輪に、突然、香織のような生徒が割り込んできたとしたら、不審者扱いされるのがオチだ。
 こちらを見ている香織に、涼子は軽蔑の視線を送った。ふだんは、わたしに話しかけることさえ、できないくせに……。
「りょーちん、こっち、付いてきてっ」
 明日香は、香織たちを追うように歩きだした。
 悲しいかな、涼子は、それに付き従うことしかできなかった。
 前を行く三人が、渡り廊下に差しかかる。向かいの棟へ誘導しようとしているらしいことに気づき、涼子は足を止めたくなった。
 話がある、と明日香は言った。その内容がどんなものであれ、今回ばかりは、話だけで終わるだろうと高をくくっていた。五時限目の開始まで、あと二十分ほどしかないのだから。だが、人気のない場所へ連れて行かれるとしたら……。
 向かいの棟に移動し、一階に降りる。美術室や家庭科室、保健室などが並んだ廊下は、薄暗く、生徒たちの声は聞こえてこない。香織たちが、どこへ行こうとしているのか、ようやく見当が付いた。
「ちょっと、待って! もうここでいいでしょ? 話って何なの!?」
 不安を抑えきれなくなり、涼子は、三人の背中に叫んだ。
 香織が、にたにたと笑いながら振り返り、こちらに顎を突き出した。
「だ・い・じ・な話がある・のー。た・き・ざ・わ・さんのことー。文句言える立場じゃ、ないんじゃないのかなあ?」
 さっきまでは、涼子を遠目に見ていることしかできなかったというのに、今では、別人のように強気になっている。
 逃げられるものなら逃げてみろとでも言わんばかりの態度で、案の定、香織たちは、トイレのドアを押して入っていった。
 恐怖と不安で足が止まる。心臓がどくどくと脈打っている。だが、涼子には、前に進むという選択肢しかあり得ないのだった。
 体を守るように肩を抱き、自分に言い聞かせる。だいじょうぶ。香織たちにしても、次の授業をサボってまで、涼子に嫌がらせを続けるとは、考えにくい。どんなに長くても、あと二十分ほど……。

 ペンキの剥がれた古びたドアを押し、中に入る。掃除は行き届いているようで、不潔な感じはしないが、蛍光灯の明かりが弱く、ひどく陰気臭い。そして、このトイレに住み着いているかのように陰湿で性根の腐った、三人の女子生徒。
 自分が隔絶された世界にいることを実感する。さっきまで一緒にいた華やかな友人たちとは、根本的に住む世界が違っているのだ。
「こうやって南さんと話すのって、久しぶりだねえ。元気してたー?」
 香織が、ずいっと涼子の顔を見上げて言った。
 涼子は目を逸らし、小さく溜め息をついた。馬鹿らしくて答える気になれない。
「明日香から聞いたんだけどさあ、ここのところ、南さん、部活で調子が悪いらしいじゃん。具合でも悪いのお?」
 数日ぶりに涼子と話せることが、嬉しくて堪らないような、そんな声音で香織は話す。
 不調なのは事実だった。その最大の原因は、未だに明日香が、何食わぬ顔をして、マネージャーとして部活に参加していることにあった。
「平気……。べつに、吉永さんに、心配してもらわなくっても……」
 腹立たしさのあまり、つい、涼子も皮肉で返してしまった。
「南さんの体調の問題は、マネージャーの明日香にとっての問題でもあるわけよ。今回、こんな、人の来ないようなトイレまで来てもらった理由は、実は、南さんの検尿のためなんだよね。おしっこの、色とか臭いとかで、南さんの健康状態を調べてあげる」
 検尿……? おしっこ……? 涼子は、目をしばたたいた。
「南さんは、これから全部服を脱いで裸になって、個室のドアを開けたまま、おしっこして。あたしたちが見やすいように、和式のほうでね」
 香織は、野卑な笑いを口もとに浮かべ、並んだ個室を指差した。
 ほどなくして、涼子は震かんした。
「うっ、うそでしょう……? あんた、なに言ってんの?」
 あたま、おかしいんじゃないの? よっぽど、そう言ってやりたかった。
「あーそう……。そんな口の利き方していいんだあ? あんた、滝沢さんのシャツでオナニーして、シャツに、くっさいまん汁を付けちゃったこと、忘れたわけじゃないよね? あのシャツ、いつだって滝沢さん本人に返せるんだからね」
 香織のつり上がり気味の両眼が、ぎらぎらと光っている。
 心臓が締めつけられるように息苦しくなった。脳裏から片時も離れることのなかった問題。今、実際に脅迫を受けたことにより、その恐怖はリアルなものとなって、はち切れんばかりに膨れ上がっていく。
 そこで明日香が、突き抜けるような甲高い声を上げた。
「しょーんべぇーんっ! しょーんべぇーんっ!」
 その汚いコールに合わせ、香織とさゆりも嬉々として手を叩く。
 ひどい……。ひどすぎる……。ここへ来て、まだ五分と経っていないのに、もう涼子は、泣きたくなっていた。想像以上の下劣さ、下品さ。 
「このトイレなら、誰も入って来ないから大丈夫だって。万一、誰か来たら、個室のドアを閉めていいから。恥ずかしいことなんて、ないでしょ? 滝沢さんに、南さんが変態のストーカーだってバレるほうが、よっぽど恥ずかしいと思うよ?」
 クリーム色の個室のドアは開いていて、和式の便器が見える。涼子は、そこへ視線を向けたまま、頭部に銃弾を撃ち込まれたかのように呆然としていた。
 数秒後、涼子の足は、じりじりと動きだした。個室のほうへと。これから自分が、何をやろうとしているのか。それを自分でわかっているのか、いないのか。
 あと一歩で、個室の中に入るというところまで来て、数分後の光景が脳裏に浮かんだ。全裸になり、人間としてもっとも浅ましい姿を、同年代の少女たちに晒している自分……。
 小さな嗚咽が漏れる。この場で泣き崩れてしまいそうな境地だった。涼子は、そろそろと振り返った。
「できない……。お願いだから、こんなこと、もうやめて……」
 そう言葉を絞り出すと、三人は、くすくすと笑った。
 香織の答えは、意外なものだった。
「もしかして、南さん、本気にしちゃった?」
 涼子は、あっけに取られた。
「ありえなくない? 南さんのおしっこ姿とかさ、そんな汚いモノ、あたしたちが見たいわけ、ないでしょう?」
「でも、南せんぱい、今、ホントにトイレ入ろうとしてましたよね。気持ちわるーい」
 香織とさゆりは、寒風が吹いたかのように身を寄せ合った。
 ほっとしてよいものか、涼子にはわからなかった。ありえない。たしかにそうだ。人前で排泄することも、また、それを見たがることも。だが、その『ありえない』ことを、散々やってきたのが、香織たちではないか。

「あーあっ……。もう、南さんで遊ぶの、なんだか飽きてきちゃったなあ。大抵のことはやっちゃったし。なんていうか、やり甲斐がない。新しい刺激が欲しいところだよね……」
 香織は、遠い目をして、妙なことを言い始めた。
「あのさ、聞きたいんだけどさ、南さん。ぶっちゃけ、滝沢さんのこと、どう思ってる?」
 つい目を合わせてしまった。香織は、にやりと笑う。
「滝沢さんのこと、苦手っていうか、ぶっちゃけ、あんまり好きじゃない? だって……、南さんが話しかけても、滝沢さんは、そっけない返事しかしないし、南さんがグループに入っていくと、滝沢さん、どっかよそに行ったりするじゃん? ああいう態度されて、嫌いにならないの?」
 どこまでねちっこく涼子を観察しているというのだ。その行為だけでも寒気がする。
「べつに……、嫌いなんかじゃ、ないよ……。ねえ、なにが言いたいわけ?」
 否定しなければ、肯定と捉えられそうだったので、涼子は、仕方なく言葉を返した。
 香織は、露骨な疑いの目で涼子を見ながら、なぜか不愉快そうに顔を歪めた。
「あたし、実は……、滝沢さんのこと嫌いなんだよね……。頭がいいのか知らないけど、なんか、いつも澄ました顔してるのもムカつくし。あと、最近、体育のバスケの時、すごい強引にぶつかってこられて、あれで完璧にムカついた……」
 自分は、どのような反応をすればいいのかと、涼子は考えさせられる。胸の内には、少なからぬ驚きがあった。
「それでさ、明日香とさゆりにも、滝沢さんの姿を実際に見せて、どんな子かってこと、詳しく話したんだよね。二人とも、滝沢さんのことは、ほとんど知らなかったから。そうしたら、明日香もさゆりも、あの子、ムカつくって言ってくれて、あたしたち、全員の意見が一致したってわけ。気が合うでしょ?」
 香織を中心にした三人が、どこか誇らしげにも思える笑みを、こちらに見せつけていた。
 まさか……。涼子は、予感が当たらないことを祈った。
「そういうわけで……、今、あたしたち、滝沢さんに、目、付けてるんだよね」
 その言葉を聞いた瞬間、時間の流れが遅くなるような感覚を覚えた。涼子の胸の内には、なんとも言い様のない感情が渦巻いていた。
「目、付けるって……、なに? 滝沢さんに、何する気なの?」
 涼子にしてみれば、こう問うしかない。
「それは、まだ秘密。後で、きっとわかるから、愉しみにしてて。それより……、今回、南さんに来てもらったのはさ、ちょっと頼み事を聞いてほしいんだよね」
 頼み事……? 涼子は、眉をひそめた。
「今日さあ……、滝沢さんが、ほかのクラスの子から、写真を受け取ってるのを見たんだよね。十枚くらい。どうも、友達とどっかに遊びに行った時に、みんなで撮った写真らしいんだけど……」
 香織は、三白眼の目つきで続けた。
「滝沢さんのバッグに、その写真が入ってるから、そのうちの一枚を、こっそりと盗ってきてくれない? 滝沢さんの顔が、しっかりと写ってる写真を選んで」
 頭の中で、軽い混乱が生じた。
「なんで……? 滝沢さんが写ってる写真なんて、何に使うつもりなの?」
 涼子が問うと、香織は唇を曲げた。
「ちょっとした、いたずらを思いついちゃってさ……。やってくれるよね、南さん? 次の時間、体育でしょ? 日直から教室の鍵を借りて、誰もいない間に、滝沢さんのバッグから、写真を一枚、盗っておいてよ」
 涼子は、怒りを通り越して呆れてしまった。
 さすがに香織も少しばかり後ろめたいのか、その頬には、苦笑するようなシワが刻まれている。嫉妬や恨みに歪んだ、醜い、醜すぎる顔だった。
「できるわけないでしょ? 人の写真を盗むなんて……。滝沢さんに文句があるなら、滝沢さんに、直接言えばいいじゃん……」
 香織には、滝沢秋菜に面と向かって文句を言うような勇気がない、ということは、涼子にも察しが付いていたけれど。
「だめ。あたしたちの計画には、滝沢さんの写真が必要なの。そういうわけで、やって」
 香織の物言いに、頭に血が上った。どこまでも人を馬鹿にして……!
「なんで、そんなこと、わたしがやらないといけないの!? じ……」
 自分でやればいいでしょ、と続けそうになったところを、涼子は呑み込んだ。かりに香織が自分でやるのだとしても、それは見過ごしていいことではない。クラスメイトの写真を、こっそり盗むなど。
「できない、そんなこと……。滝沢さんが、可哀想」
 涼子は、呟くように付け加えた。
「だめ。許さない。やってもらう。もし、やれないって言うなら……、罰として、今日の放課後、このトイレで検尿やらせる。今度は冗談じゃなく、本気だからね。あたし、紙コップ持ってくるから、それに入れさせる。あたしたちが見やすいように、便器でじゃなくって、トイレの真ん中で、おしっこしてもらうから」
 コ・イ・ツ……、というわずかな音を、涼子は唇から漏らしていた。この、つり上がり気味の目をした小さな女に向かって、自分が襲いかからないでいることが、不思議にすら思われてくる。
 香織は、気だるげな態度で、こちらに歩み寄ってきた。
「どうなのお? あたしたちの前で、おしっこしてみるぅ? こうやって……」
 その手が、涼子のスカートの裾をつまんだ。スカートの生地が、ふわりと持ち上げられ、太ももが露出しそうになる。
「やめてっ!」
 涼子は叫び、スカートを両手で押さえつけた。
 だが、香織は怯む様子もなく、もう一度、裾をつかんだ。
「手、どけて。逆らえる立場じゃ、ないでしょ?」
 香織は、自分が絶対的優位にあることを確信しているらしく、ふてぶてしくこちらに顎を突き出している。
 くそ……。涼子は、そっぽを向き、血管の切れるような思いで両手を離した。
 スカートが捲り上げられ、むっちりとした涼子の下半身と、そこにフィットした薄いグレーの下着が露出した。
「どう? 恥ずかしい? でも、写真盗ってこないと、放課後、もっと恥ずかしい思いすることになるよ? なんったって、おしっこだからね。冗談じゃなく、本当にやらせるよ。今の南さんに、人のことを心配してる余裕なんて、ないんじゃないのかなあ?」
 香織は、下着の中を見透かすかのように、涼子の下腹部に視線を這わせる。
 変態……。涼子は、屈辱のあまり、体が小刻みに震えるのを感じていた。過去の自分が、こんな変態女の前で、服をすべて脱いだということが、自分で信じられなかった。誰かほかの人が、自分の身代わりとなって、その苦痛に耐えていてくれたのではないかと、本気で考えてしまう。
「どうすんのお? 写真、盗ってきてくれるよねえ? それとも……」
 香織の人差し指が、涼子の下腹部に迫った。排泄器官としての女性器を意識させるかのように、下着状態の腰骨のあたりを指で突かれ、涼子はびくりとした。
 目が合うと、香織は、にいっと歯茎を見せて笑う。
 もういや……。こんな変態女の前で、服を脱ぐだけでも有り得ない話なのに、あろうことか排泄の瞬間を見せるなんて、想像するだけで気が狂いそうだ。もしかすると……、と涼子は思う。言われたとおり、写真を盗らないといけなくなるかも……。
 その時だった。剥き出しの太ももの付け根、つまり下着のラインを、香織の人差し指がなぞり始めたのだ。つま先から頭頂まで、戦慄が走った。
「やだっ! 待ってっ! ちょっと、わかった、待って!」
 涼子は叫び声を上げ、捲られていたスカートごと、両手で恥部を押さえ、二、三歩、飛び退いた。香織の舌打ちが聞こえる。乱れる呼吸を整え、反抗的だと香織に責められる前に、口を開いた。
「ねえ待って! そんなに写真を盗りたいなら、自分でやればいいじゃん!? なんでわたしに、やらせようとするの!?」
 さっきは呑み込んだ台詞を、ついに吐き出してしまった。もはや、滝沢秋菜への心遣いを念頭に置いておく余裕は、涼子にはなかった。クラスメイトを裏切っているみたいで、胸に罪悪感が残る。もう、どうしたらいいのか、わからない……。
 思いのほか、香織は落ち着いていた。
「南さんに頼むのはさ……、今日の日直、バレー部の雨宮さんでしょ? あたし、バレー部の子って、いつもうるさくしてるし、嫌いなんだよね。教室の鍵を借りるために話しかけるのも、なんか嫌なの。まあ、そういう理由も、あるってわけよ」
 想像以上の小心者である。相手の弱みを握るなどし、優位な立場にならなければ、活発な生徒に対しては、話しかけることすらできないらしい。そういえば、さっきも、涼子の周りに友人が集まっている時には、香織は、自分で涼子を呼ぶことはせず、違うクラスの明日香にやらせていたのを思い出す。
「待って……。滝沢さんの写真が盗まれたってことを、クラスのみんなが知ったら、教室の鍵を借りたわたしが、まず疑われるに、決まってる。わたしのバッグやロッカーの中、見せないといけなくなるかもしれないし……。そうなったらもう……。こんなリスクのあること、やらせるって、いくらなんでも、ひどいでしょう?」
 かりに涼子が写真を盗んだとして、それは発覚するか、どうか。話の焦点は、いつの間にか、そんなところに移っていた。発覚したら、当然、涼子の高校生活は、そこで終わってしまう。
「大丈夫だって。バレないから。だって、写真は十枚くらいあったんだよ。そのうちの一枚くらい無くなったって、滝沢さんは、気づかないって。絶対にバレないから、安心して、ちゃっちゃっと盗ってきてよ」
 本当にそうだろうか……。写真が十枚ほどあるというのが本当ならば、たしかに、一枚減ったところで、本人は気づかない可能性のほうが、高いかもしれない……。そうだ。きっと気づかない……。気づかないということは、彼女を傷つけたことには、ならないはず。香織たちが、その写真をどう使うつもりかは知らないが、香織たちに写真を手渡したからといって、即、彼女が実害を被るというわけでは、ないのだし……。それに、何より、こんな変態女の前で排泄するなんて、絶対にいや……。
 と、そこで、涼子は我に返った。ショックだった。心の中に、自分のことしか考えない自分がいることを、知ってしまったのだ。
「できない……。盗ってくるなんて、やっぱりできない……」
 涼子は、微かな声で言った。そう口に出して拒まなければ、また虫のいいことばかり考えだしそうで、怖かった。
 香織は、はあーっと大げさな溜め息をつく。
「あーっそーっ。クラスメイトを庇って、自分が犠牲になるっていう精神なんだあ? 立派だねえ、南さん。ただ、それはつまり、『わたしは、おしっこを出しますので、見てください』っていう宣言と同じ意味だからね。いいんだね?」
 涼子は、床の一点を見つめたまま答えなかった。香織の脅しに、気持ちが揺れる。
 心の中の暗い部分に、自己保身に染まった自分が、うずくまっている。その自分は、病的に青ざめており、目に涙をたたえている。助かりたい……。そんなの耐えられない……。写真を盗ってこないと、わたし、ひどい目に遭わされちゃう……。そう訴える声が、心に響く。
 ともすると、そちらに気持ちが傾きそうになる。だが、涼子は、ひとり首を振り、そんな迷いを追い払う。滝沢さんに対する嫌がらせに、手を貸したら、わたしも、こいつらと同類になっちゃう……。

「さゆりっ……。なーんか、南さんが、検尿くらい、どうってことないって顔してるから、写真を盗ってこなかった場合の罰を、追加しようと思うの。あんた、何か、いいアイディアない?」
 香織は、横目でこちらを見ながら言った。
「あー、はあー……。うーん、何がいいでしょうね……」
 いきなり話を振られた後輩は、小首を傾げた。
 なんで、そこで、考えたりするの……! 年下のくせに。涼子は、心の内で怒鳴っていた。
「じゃ、こういうのは、どうですか? 検尿ついでに、ギョウ虫検査。あの、小さい子供がやるヤツ。セロテープでやればいいんですよっ。南せんぱい、おしりの穴、汚かったから、変な菌とか虫の卵とか、くっついててもおかしくなかったですしぃ」
 どろどろとした言葉が、耳から頭に流れ込んでくる。いっそ声の限りに絶叫し、後輩の言葉をかき消したい思いだった。
「いい! その案、採用! さすが、さゆりだね。セロテープを肛門に貼り付けて、ぐりぐり押した後に、剥がして、保管」
「あ、でも、南せんぱい、おしりの穴の周りも、毛がいっぱい生えてたから、セロテープ剥がす時に、毛がぶちぶち抜けて、やばいことになりそーう」
 香織とさゆりは、その下品な会話に似つかわしいだみ声で笑い合う。
 さゆりを凝視しすぎて、涼子の目には、その姿が二重に映っていた。後々、犯罪者として裁かれても、悔いはないかもしれない。この後輩を、自分の手で絞め殺せるのなら……。
「あっ、なんか、あたし、睨まれてるんですけど……。こわーい」
 さゆりは、ふざけて香織の背中に隠れようとする。
「はい、南さん、もう決定したからね。おしっこ検査と、ギョウ虫検査。言っておくけど、これ、マジだから。滝沢さんの写真を盗ってこないなら、今日の放課後、この場で、マジでやらせるから」
 香織は、目を見開いて言った。
 涼子の視線が香織に移ったとたん、さゆりは、ささやくような小声で呟くのだった。
「睨まれた……。ムカついた……。ギョウ虫検査、絶対やってやる。絶対やってやる……」
 そして、黙っていた明日香も、ここで追い打ちを掛けてきた。
「りょーちん、ギョウ虫検査、受ける場合はぁ、おしりの穴ぁ、キレイにしといてねーん。前みたくぅ、うんち付けたままにしとくのはぁ、やめてねぇ。あたしたちもぉ、触りたく、ないからぁ」
 今日の放課後、口から泡を吹くほどの汚辱に悶えている自分の姿が、まぶたの裏に浮かぶ。涼子は、恐怖と悲しみのあまり、嗚咽をこぼしていた。顔がくしゃりと歪み、唇がへの字に曲がる。耐えられない……。そんなの、耐えられる女の子なんて、いない……。脅されたんだから、盗んだとしても、仕方がないじゃない。自分の身を守るため。悪いことじゃない。滝沢さんには、申し訳ないけど……。
 しかし、土壇場で、涼子は雄叫びを上げるような気持ちで踏ん張った。
「盗むなんて、わたし……、できないから」
 これから開始される拷問の内容を聞かされ、助かりたければ仲間の情報を吐けと迫られても、なお、突っぱねる。それと似たような境地だった。
 香織は、口笛を吹くような仕草を見せた。
「へえー……。立派、立派。じゃあ、最後に訊くけど、放課後、検尿とギョウ虫検査を受ける覚悟が、できたったことね? あとで後悔しても、遅いからね。絶対にやらせるから」
 涼子は、両手の拳をぎゅっと握った。自分がここまで意地を張る理由は、何なのだろうかと思う。滝沢秋菜のためかというと、少し違うような気がする。盗みが発覚するのが怖いからでもない。正義感とも異なる。きっと、自分のプライドの問題なのだ。誰のためでもない。自分の誇りにかけて、人の道を踏み外すような真似だけは、したくなかった。
「好きにすればいいでしょっ!」
 涼子は、半ばやけを起こして吐き捨てた。放課後、自分は、死ぬほど恥ずかしい思いをさせられるかもしれない。けれど、恥ずかしい人間になるよりは、よっぽどマシだ。
 香織は、無表情でじっと涼子を見すえていた。
 涼子の荒い息遣いだけが聞こえるような沈黙が流れる。
 案外、余裕のないのは、香織のほうだった。
「こいつ、ムカつくわ……。ああもう、マジでムカつく」
 にやにやとした笑いは影を潜め、その表情には、怒りが浮かんでいる。香織は、つかつかと個室のほうへ歩いていくと、仕切りの壁を蹴りつけた。砲弾が当たったような音が響く。
「もういい。滝沢さんのこととか、もうどうでもよくなった。すごいムカつくから、南さんの高校生活、終わらせてやる。滝沢さんに、まん汁の付いたシャツと、シャツでま○こをこすってる写真、同時に送りつけてやる。教室に、いられなくしてやる。これで、あんた、終わりだから」
 涼子の体の中を、恐怖という激流が駆け抜けていく。
「待って……! 待って、お願いだから、待って。わかった……」
 涼子は、すがりつかんばかりに声を発した。もう意地を通すのは無理だった。
「滝沢さんの写真、盗ってくるから……。それだけは、やめて……」
 とうとう言ってしまった。自分の中の誇りが、がたがたと崩れていく。
 香織は、腰に手を当て、こちらを斜めに睨んでいる。
「なに、今さら……。最初っから、そう言えばいいでしょ。あんただって、本当は、自分のことしか考えてないくせに」
 涼子は、何も言えなかった。
「ちゃんと盗ってくるんだね? もし盗ってこれなかったら、それが、どんな理由だろうと、滝沢さんにシャツと写真のセットを送りつけて、高校生活を終わらせてやるから」
「……わかった」
 涼子は、かすれる声で返事をした。とてもじゃないが、打開策を見いだせる気がしなかった。
「滝沢さんのバッグの中に、黄色い封筒があるはず。写真は、黄色い封筒に入ってるから。そのうち、滝沢さんの顔が、ちゃんと写ってる写真を一枚、盗っておいて。次の、体育の時間中に。その写真を持って、今日の放課後、また、このトイレに来て」
 取り引きが成立したことに満足したのか、香織の声から、険が消えていく。
 涼子は、その手順を頭の中で反芻した。特別難しい場面は、無いように感じられた。良心を押し殺せれば、の話だが……。
「……わかった」
 涼子は、もう一度返事をし、がっくりとうなだれた。わたしは、悪魔に魂を売り渡してしまったのだろうか……。
 香織は、今回の目的を達成できたことで、一時の怒りも吹っ飛んだらしく、得意げな表情を浮かべ、胸を反らした。
「話がまとまったことだし、そろそろ、教室に戻ろっか。あたしたちのクラス、次、体育だしね。南さんが駄々こねるから、話が長くなっちゃった。それじゃあ南さん、写真、よろしくね。失敗は、許さないよ」
 香織たちが歩きだし、涼子の前を通り過ぎていく。明日香が、涼子に向かって投げキッスを送った。
 ドアを開けたところで、香織が振り返った。
「ねえ南さん……、もうすぐ仲間ができるかもよ。よかったね」
 香織は、にやりと笑った。
 仲間……。
 三人が去ってから少しして、涼子もトイレを出た。たった十数分の間だったが、自分の中に、幾度、深刻な葛藤が起こっただろうか。気づくと、真っ直ぐに歩いておらず、壁にぶつかりそうになるほど、涼子は、心も体もへとへとになっていた。
 怖ろしいことだ。悪夢を見ているように怖ろしい。ひとりのクラスメイトに邪悪なものが迫ろうとしている。そして、自分が、それを見て見ぬフリどころか、よこしまな側に荷担するような行為を行おうとしている。
 思い直すことはできないのか。自分は、本当に、そうするしかないのか。
 香織の最後の言葉が、耳にこびりついている。『もうすぐ仲間ができるかもよ』という言葉が……。
 つまり、滝沢秋菜が、涼子の『仲間』になるかもしれない、ということ。では、その『仲間』とは、何を指すのか。おそらく、涼子と『同じ状態』になるという意味だと考えて、間違いないだろう。
 やっぱり、と涼子は思う。滝沢秋菜のことが嫌いだと、香織が言い始めた時から、なんとなく、そんな気はしていた。そして、香織の最後の言葉で、確信した。滝沢秋菜を標的とした、香織たちの陰謀。その筋書き通りに事が運ぶと、最終的に滝沢秋菜は、涼子と同じように、女としての誇りを蹂躙されることになる可能性が高い。
 頭のいい彼女が、そう簡単に毒牙にかかって、無力な人間と化すとは思えないが、なにせ香織たちのやることだ。悪魔のように狡猾に陰謀を張り巡らすに違いない。実際、自分はその餌食となったのだ。彼女とて危ない。
 脳裏に、滝沢秋菜の顔が浮かんだ。ゆったりとしたストレートヘアを胸もとまで垂らし、その毛先だけ、少し内側にはねさせている、お洒落な髪型。彼女の特性を象徴するような、涼しげで余裕のある眼差し。学業優秀で、ちょっと大人びた雰囲気のクラスメイト。
 その彼女が、涼子の脳裏では、見る影もなく変わり果てた姿を晒している。
 放課後の教室。場違いにも、彼女は、下着一枚、身に着けていなかった。恥部に、両手をきつく押し当てており、陰毛の一本たりとも見せたくないという思いが、痛いほど伝わってくる。乳房を隠すのは諦めていて、淡い色の乳首が、寒々しい。プロポーションの取れた剥き出しの肢体が、恥ずかしさに縮こまり、かたかたと震えている。
 普段の、どことなくひんやりとした顔立ちは、見るも無惨にくしゃくしゃに歪み、目には涙が滲んでいる。
 そして、その姿をあざ笑っている、三人の少女。
 香織は、たった今まで彼女が着けていたパンツの両端をつまんで、顔の高さに持ち上げ、彼女の屈辱感を煽るように見せつけながら、下卑た笑みを浮かべている。涼子に対してやったように。さゆりが、そのパンツの股布の部分を指差し、何事か言っている。
 彼女の下着をいじくり回した後、香織の口から出た言葉は、人間とは思えないものだった。
『その手をどかして、そこを、ちゃんと見せなよ』
 彼女は、涙目で首を左右に振る。
 すると明日香が、ゆらりと彼女に歩み寄った。明日香は、震える彼女の首筋に触れ、あの笛の音のような笑い声を立てる。彼女の目尻から、一筋の涙がこぼれ始めた。かたくなに恥部を押さえる両腕を、つと、明日香はつかんだ。両手が股から引き剥がされようとした時、彼女は、けたたましい金切り声を上げる……。
 そんなイメージが脳裏で展開され、涼子はショックを受けた。かわいそう……。滝沢さんが、わたしみたいな思いをさせられるなんて……。
 いっそのこと、魔の手が伸びる前に、滝沢秋菜に何もかもを話そうか。涼子は、そんなふうに思い始めた。まず、自分が経験した、筆舌に尽くしがたい恥辱の数々を告白する。赤裸々に。そして、次に狙われているのが彼女であることを、しっかりと言い聞かせる。彼女を思いやるのなら、そうするべきだ。
 しかし、涼子が、勇気を振り絞ってすべてを話したところで、彼女が信じてくれるものかどうか、はなはだ怪しい。涼子自身ですら、現実の出来事とは思えないような話を。正気を疑われて終わりかもしれない。
 それに、涼子のそのような行動が、香織たちに知られたら、どうなるだろう。香織たちの次なる獲物を、涼子が逃がそうとしていることが、知られたら……。身勝手なあの三人が怒り狂うのは、目に見えている。今、香織たちを怒らせると、自分は、学校に通うことすらできないような事態に追い込まれかねないし、最悪、そこで人生の歯車が狂ってしまうかもしれない。
 やっぱり、彼女を助けようとするのはリスクが大きすぎる。自分の人生を犠牲にする覚悟がなければ、それはできない。
 そして、怖ろしいのは、彼女を守る側に付けないのなら、もう、香織たちに荷担するしかないということ。極端な二者択一なのだ。いくら思考を巡らしても、第三の道は、頭の中のどこにも発見できなかった。考えれば考えるほど、香織の言うとおりにするしかないという現状が、浮かび上がってくる。
 ごめん、滝沢さん……。本当に、ごめん……。許されることじゃないのは、わかってる。だけど、わたし……。念仏のように心の中で謝り続ける。
 だが、その後、涼子は教室に着くと、『罪』を意識しないよう、頭を切り替えた。

 教室のドアを開けて入る。体育の授業は体育館で行われるが、まだ七、八人の生徒が残っていた。それでも、皆、着替えは終わっているようだ。丸首の部分と袖が赤く縁取りされた、半袖の白いシャツに、紺色のハーフパンツ。香織から今日の日直だと教えられた、雨宮夏希の姿もあった。
 自分は今、取り憑かれたような顔をしている。そう思った涼子は、意識して頬を持ち上げ、夏希のところへ歩いていった。
 夏希は、バレー部員らしく、涼子と同じくらいのショートヘアで、すらりとした体型をしている。
「あれ? 涼子……。どうしたの? もう、教室、閉めちゃうよ」
「ああ、うんっ。今日、日直、夏希?」
 涼子は、自分に鞭打って軽やかに訊いた。
「そうだけど……?」
 夏希は、くりくりとした目で涼子を見る。あの吉永香織は、この子には話しかけることすら、できないという。それが、なんとなくわかるような、わからないような……。
「あのさ……、ちょっと用があって、これから職員室に行って、それから着替えて授業に行くからさ、わたしが、鍵、閉めていくから」
 自分でも意外なくらい、あっさりと口から嘘が出た。
「そっか。じゃあ、鍵、お願い。なるべく早く来なよ、今日もバスケ、試合だから」
 夏希は、詮索することはせず、不審に思った様子もなく、涼子に鍵を手渡した。
「オッケー」
 友人を騙したという罪悪感を感じるものの、涼子はそれを押し殺し、にこりと笑って見せた。これから涼子がやることを知ったら、間違いなく夏希にも軽蔑されるだろう。
 幸か不幸か、このやりとりに注意を向けている生徒はいなかった。全員が教室から出て行くと、涼子は時計を見た。あと三分ほどで、五時限目の授業の鐘が鳴る。時間は掛けられない。
 涼子は、念のため、教室の前後のドアの鍵を内側から閉め、電気を消した。薄暗い教室で、ひとり溜め息をつく。廊下から聞こえてくる騒がしいお喋りの声が、身に染みる。周囲の同い年の少女たちが、賑やかであればあるほど、自分の陰鬱さ、惨めさが際立っていくように感じられた。
 窓の外に目を向けた。抜けるような青い空を背景に、ゆったりと雲が流れている。遙か遠くを飛ぶ飛行機も、小さく見えた。
 わたしだって、色んな目標を持っているの……。大学も行きたい。スポーツ推薦も考えてる。もっともっと自分の可能性を見つけたい。わたしは、自分の人生が、大事……。
 涼子は、その席へ向かって、足を踏み出した。滝沢秋菜の席は、わかっている。心の中の念仏の声が、ひときわ大きくなる。ごめん、ごめん、滝沢さん……。守ってあげられないばかりか、あなたのものを盗んじゃって……。ごめん、許して。ごめん、本当にごめんね……。ごめん……。
 そして、それと同じくらいに呪詛の声が膨れ上がった。あいつら……、絶対に許さない。吉永、竹内、石野。あの三人は、一生許さない。わたし、こんな人間じゃないに……。こんなこと、やらせて。いつか、思いっきり殴りつけてやる……。
 机の横に置かれた彼女のバッグの、チャックを開ける。教科書やノート、ポーチ、携帯電話などと一緒に、それは本当にあった。一目でわかった。黄色い封筒を手に取る。その中から、ビニールに入った写真を取り出す。香織の言葉どおり、写真は十枚以上ある。
 ざっと見てみると、四人の友達と、どこかのレジャー施設に遊びに行った時のものらしかった。ジェットコースターや観覧車、クレープ屋などが背景に写っている。写真の中の滝沢秋菜は、学校の時と変わらない髪型で、青いロングカーディガンに、タイトなクリーム色のパンツという格好だった。高校生というより、もう女子大生のような雰囲気だ。全員、この高校の生徒らしく、中には、涼子が一、二年の時に同じクラスだった子もいる。こうして見ると、わりと派手なグループで、もちろん、彼女もそこに溶け込んでおり、ルックスからすると、むしろ、その中でも目立つほうだった。学業優秀な彼女だが、勉強ばかりしているわけではなく、それなりに青春を謳歌しているらしいことが窺える。
 選ぶ写真は、彼女の姿が大きく写っているものは避け、だからといって、小さすぎても、香織を怒らせることになる。そんな基準で、最終的に一枚を選んだ。屋外レストランのような場所で、全員が揃ってテーブルに着いている写真。彼女は、隣の友達に肩をもたせかけ、少しいたずらっぽく微笑んで、Vサインをしている。
 こんな楽しそうな思い出の写真を、自分は盗むのだ。申し訳ない、後ろめたい、という気持ちで、その写真を見つめていると、そこに写る彼女の涼しげな眼差しが、なんとなく、冷ややかに自分を見ているような気すらしてくる。まるで、涼子の行為を軽蔑するかのように……。涼子は、背筋が薄ら寒くなる思いがした。
 しかし、涼子は思い止まれなかった。入っていたビニールに、その写真は戻さない。それ以外の写真をビニールにしまい、黄色い封筒に入れる。そして、黄色い封筒を彼女のバッグに戻し、チャックを閉めた。
 とうとうやってしまった……。涼子は、選んだ写真を手に持ち、Vサインをしている彼女に向かって謝った。ごめんなさい、滝沢さん……。
 こんなことをした自分が、彼女の身を案じる資格は、ないとわかっている。しかし、それでも、祈らずにはいられない。どうか、滝沢さんが、あの三人から、ひどい目に遭わされませんように……。あの子には、助かってほしい……。
 だが、本当にそうだろうか。
 はっとして、涼子は顔を上げた。
 本当に、わたしは、あの子に助かってほしいと願っているのか……。
 さっきトイレで、香織が、滝沢秋菜について話し始めた時のことを思い出す。たしか、香織は、こんなふうに言った。
『今、あたしたち、滝沢さんに、目、付けてるんだよね』
 その言葉を聞いた直後、自分は、何を思ったか。どんな感情を胸に抱いたか。
 クラスメイトである彼女への心配。彼女に何をするつもりなのかという不安。そして、彼女を守らなくてはという使命感……。そういったものが、心の中を占めていたはずだ。
 けれども、それらと相反するような感情も、同時に生まれていたのではないだろうか。
 一言で表すのなら、きっとそれは、微かな、期待……。
 あの時、頭の片隅では、冷静に、冷酷に、計算をしていた自分が……。
 もし、彼女が、自分と『同じところ』にまで落ちてきてくれたら……。つまり、彼女も、自分のように、香織たちの慰み者に成り果てたとしたら。そうなったら、あの、涼子の汚辱がこびりついた体操着や、その瞬間を写した写真の存在が、涼子にとって、それほどの脅威ではなくなってくる。たとえ、彼女の手元にそれらが送られるのだとしても、そのことは、涼子の命取りには、ならなくなるはずだ。なぜなら、彼女だって、涼子と同じ立場なのだから。涼子の事情を、わかってくれるだろう。
 一番の問題は、一段高いところから彼女に見下され、軽蔑され、嫌悪されるという状況なのだ。その立ち位置の『落差』が消えるということ。つまり、それは、滝沢秋菜という涼子の最大の弱点が、弱点ではなくなることを意味している。
 利点は、それだけではない。もしかすると、香織たちの標的となった者同士、彼女と共闘できるかもしれない。頭のいい彼女と知恵を出し合えば、香織たちの呪縛を破る方法だって、見つかる可能性も出てくる。
 もう、高校を卒業するまでは、この地獄から抜け出せないと思っていた。しかし、そこに、一筋の光明が差したような……。
 涼子は、ぞっとした。いくら自分の身が大事だからといって、そんな、クラスメイトの不幸を望むような考えを、頭の片隅で巡らせる自分が、いたなんて……。なんだか、自分は、転がり落ちるように、卑しい人間になっていっている気がする。
 真っ直ぐな性格。間違ったことだけはしたくないという信念。バレー部のキャプテンとしての誇り。そういったものは、しょせん、これまで自分が、恵まれた環境の中で生きてこられたからこそ、育まれていたに過ぎないというのか。本当は、わたしって、こんなに弱かったんだ……。
 心の中の暗い部分には、自己保身に染まった自分が、うずくまっているのを感じる。その自分は、病的に青ざめた顔をし、血走った目を見開いている。今や、その存在が、どんどん心の前面に出始めていた。
 抜き取った写真を手に、涼子は、教室の後ろの並んだロッカーへ向かった。自分のロッカーの戸を開け、念のため、中にある教科書に写真を挟んだ。戸を閉め、溜め息をつく。
 涼子の脳裏で、身の毛のよだつようなイメージが動きだしていた。
 地面に空いた穴のような場所に、涼子が落ちている。涼子は、一糸まとわぬ姿で、性的な部分を隠すように、体を丸めている。不気味なのは、涼子の顔が、亡霊のように青白いことだ。そして、地上から、セーラー服姿の香織たち三人が、穴に落ちた涼子を見て、にたにたと笑っている。
 と、そこに、同じくセーラー服を着た滝沢秋菜が、ふらりとやって来た。秋菜は、穴の縁に立ち、涼子の姿を認めると、口もとを手で覆い、好奇とも同情とも取れるような眼差しを向ける。
 その時だった。全裸の涼子は、突然、飛び上がったかと思うと、地上にいる滝沢秋菜の脚をつかんだのだった。秋菜は、驚愕の悲鳴を発する。涼子の手で、引きずり落とされそうになった秋菜だが、なんとか穴の縁に手を掛けた。落ちまいと懸命に堪える秋菜と、その脚にぶら下がった涼子。
 秋菜は、片方の脚で、涼子の顔面を激しく蹴りつけた。
『離してよ! なんで、わたしを道連れにしようとすんのよ! わたしは、あんたとは違うんだから!』
 しかし、青白い顔をした涼子は、死にもの狂いで秋菜の脚に食らいついている。
『あなたも、わたしのところまで落ちてきてよお! そうじゃないと、わたし、助からないのよお!』
 ほどなく、穴の縁から秋菜の手は離れ、二人は下に落ちた。
 その後、涼子は、倒れ込んだ秋菜ににじり寄り、両手を地についた。
『お願い! 服を脱いで! あなたも、わたしと同じ格好になって!』
 憤慨した秋菜は、思いつく限りの罵倒を涼子に浴びせる。
 すると、目の血走った涼子は、ぼそりと言うのだった。
『どうしても嫌だって言うなら、力ずくでも……』
 涼子は、取り憑かれたような形相で、秋菜に襲いかかった。秋菜の金切り声の絶叫が、穴の中に響き渡る。
 地上では、それを見物している香織たち三人が、指を差したり、腹を抱えたりして、大笑いしている……。
 そのおぞましいイメージを、涼子は慌てて打ち消した。全身が総毛立っているのを感じた。
 もうすぐ、五時限目の開始の鐘が鳴る。
 薄暗い教室で、涼子は、ロッカーにもたれて小さく呟いた。ごめんなさい、滝沢さん……。






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