地下から階段を上がりきると、恐怖は、一段と激しくなった。 前を行く竹内明日香が、体育倉庫のドアを、がらがらと開けた。夕方の穏やかな陽光が、暗い倉庫内に差し込んでくる。 表に、出る。そうしたら、もう、体育館までは、ものの十秒ほどだ。 怖い……。 南涼子は、その場から動けなかった。立ち止まっていると、膝の小刻みな震えが、全身に伝わってくる。 明日香は、早く行くよ、と急かすでもなく、じっとこちらを見つめている。恐怖に立ちすくむ涼子を、せせら笑うように。 「ねえ、明日香……」 涼子は、口を開いた。 「うーん?」 明日香は、ちょこんと首を傾げる。 「お願い……。せめて、毛……、毛だけは、どうにかさせて……。いくらなんでも、これじゃあ、練習に戻れない……」 あの吉永香織とは違い、明日香には、最後の良心が残っていると信じたかった。 明日香は、こちらに歩いてきた。 着ているTシャツを、ぺろりとめくり上げられる。パンツもはいておらず、涼子の下腹部を覆っているのは、布切れみたいに小さなブルマの布地のみ。ブルマの両脇から、もさもさとはみ出ている陰毛。 明日香は、くすりと笑った。 「毛、どうにかしたいって、どうしたいの?」 優しい口調で訊かれる。 「えっ……、それは……。あのっ、はみ出てるのを、処理したくて……」 言っていて、ひどく惨めな気持ちになる。 「もしかして、手で……、むしるつもりぃ?」 涼子は、少しためらいつつも、小さくうなずいてみせた。どこかのトイレで、それを行いたかった。 沈黙が落ちる。 明日香は、口をもごもごさせるような仕草をして、何かを考えていた。そして、涼子の耳元にささやくように言う。 「じゃあ、あたしが、今ここで、りょーちんのまん毛、ちょっと抜いてってあげる」 なっ……。 涼子は、思わず、明日香と目を見合わせた。 暗がりの中、明日香の瞳が、不気味に光って見える。 「いや、自分でやりたい……」 「だめ。りょーちんは、まん毛とかぁ、自分で処理はしないって、香織との約束があるでしょっ。でも、あたしがやるなら、いい。あとでぇ、香織にも、言っておいてあげる。りょーちんが、あまりに可哀相だったからぁ、あたしが、まん毛、抜いてあげたのぉ、って」 自分の陰毛を、明日香が、抜く……。手で……? その光景を想像し、背筋に、ぞわぞわと悪寒が走った。しかし、一瞬、考えてしまう自分がいた。このままの状態で、体育館に向かうよりは……。だがそこで、何を考えているんだ、と思い直す。他人に、それも、こんな気持ちの悪い女に、陰毛の処理を頼むほど、わたしは、プライドを失ってはいない。 涼子は、黙ってかぶりを振った。 「うん? まん毛、抜いていかなくって、いいのお?」 それには、答えなかった。 「そっか……。いいんだね、りょーちん……。じゃあ、最後に、確認しておくよぉ」 そう言って、明日香は、すーっと体勢を低くした。 「えっ、なに……」 股間に、明日香の顔が近づいたことで、涼子は、Tシャツの前すそを下に引っ張った。 「ちゃんと見せなさいっ。まん毛が、どのくらいはみ出てるか、確認するんだからっ。りょーちんが、もし、こっそりトイレとかで、自分で、毛を抜いたりしたらぁ、すぐにわかるように」 いったい、涼子のことを、どれだけ追いつめる気なのだろう。 Tシャツを押さえている手を、引き剥がされる。 そして、明日香の顔が、股間の至近距離に迫る。臭いまで嗅がれるような近さだ。 涼子は、正面、開かれたドアの外に、目をやった。この異常極まりない光景を、誰かに見られてはいないだろうか、と。 「ま○こに、ブルマ、思いっ切り食い込んでるぅ。やらしぃ……」 ブルマの布地越しに、恥部の肉を、ぷにぷにと指で突かれる。 「ちょっと、やめて!」 涼子は、たまらなくなって腰を引いた。 「じっとしてっ」 明日香は、両手を伸ばし、涼子のおしりをぐっとつかんできた。極小のブルマからはみ出た、おしりの柔肌に、明日香の手が、べったりと張りついている。そうして、無理やり、腰を前に引き戻される。 が、明日香は、その手を放そうとはしない。そのまま、むき出しになっているおしりの肉を、ぐにぐにと揉んでくるのだった。 「んんー?」 彼女の上目遣いの眼差しは、涼子に、言葉を伝えていた。こうして、揉んだりすることができるくらい、おしりの肉も、ブルマからはみ出しちゃってるんだよ……。 自分の体の性的な部分を、好き勝手に触られる屈辱に、涼子は、唇を噛んだ。そして同時に、前だけではなく、後ろのほうも、いかに見苦しい状態であるかということを、改めて思い知らされる。 おしりから、明日香の両手が離れた。 明日香は、右手を、ふたたび涼子の恥部に当ててきた。肌にぴちぴちに張りついたブルマの布地が、恥丘の形状に、こんもりと盛り上がっている部分を、上下にそっと撫でられる。息苦しいほどの、どろどろしさ。やがて、その指先が、ずずっとブルマの外側に滑っていき、陰毛に触れた。人差し指と中指を、陰毛にからめて、きゅっと引っ張られる。 「いやぁ!」 涼子は、叫び声を発した。グランドで練習する、テニス部やソフトボール部の部員たちの耳にも、届くような声だった。 薄暗い体育倉庫内に、明日香の、笛の音のような笑い声が響いた。 目の前の、体育館。 涼子は、Tシャツの前すそを、両手で下に引っ張り、陰毛のはみ出た股間を隠していた。 これから自分を待ち受けている運命を、どうすれば乗り切れるのか。それが、まったくわからない。どうにかなる、とはとても思えない。かといって、もう、どうにでもなれ、という自暴自棄な気持ちにもなれない。ただただ、怖くて仕方がなかった。 体育館の玄関を、明日香に続いて入る。 通路のすぐそこで、卓球部の部員が、十人ほど集まって立ち話をしていた。フロアから、バレー部、あるいはバスケット部のかけ声や、ボールの弾む音が、聞こえてくる。 非現実感。 涼子は、履いていたランニングシューズを脱ぎ、玄関を上がったところに置きっぱなしにしていた、自分のバレーシューズに、足を突っ込んだ。ランニングシューズを持って、バッグの置いてある部室へと向かう。股間は、Tシャツで隠しているとはいえ、おしりの半分以上まで下半身を露出した姿で、人目のあるところを歩くのは、首筋のむず痒くなるような恥ずかしさを感じる。そばにいる卓球部の集団のうち、何人かが、自分に視線を向けている気がしてならなかった。自分のこの姿を、奇異の目で見ている視線。 明日香と共に、部室に入る。 床には、部員たちのバッグが、所狭しと置かれている。 涼子は、自分のバッグのところに、のろのろと歩いていき、膝をついた。バッグの中に、ランニングシューズを押し込む。 いよいよ、次に向かう先は、コートだ……。 そう思って立ち上がると、脚がふらついた。と、その時、誰かのバッグの取っ手に、足先を引っかけてしまった。体が、前につんのめる。 「ああっ!」 涼子は無様にも、そのまま、部員たちのバッグの上に、どんっ、と派手な音を立てて、横倒しに倒れ込んだ。女にしては大柄で、重量のある涼子の体が、いくつものバッグを押し潰している。 正直、転んだのは、半分は、わざとだった。 「……いったーぃ」 涼子は、今にも泣きそうな声で言い、軽く打っただけの左脚の膝を、何度も撫でさする。コートに向かうのを、少しでも先延ばしにしたいという思い。それと同時に、明日香に、無言で訴えてもいた。わたし、脚を痛めちゃったみたい……。それでも、あなたは、この格好で、練習に出ろと言うの……? だが、明日香は、涼子のそんな素振りを、演技だと見透かしているのか、聞こえよがしに、ハアッと、ため息を吐くのだった。 これ以上、脚の痛いフリをしていても無駄だと悟らされ、涼子は、下敷きになったバッグの上で、もぞもぞと上体を起こした。極小のブルマから、何十本とはみ出た陰毛が、目に入る。正視に耐えないほどの、汚らしさ。 「明日香……」 人のバッグの上にのったまま、涼子は、ぽつぽつと話し始めた。 「わたし、明日香のこと、まだ、仲間だと思ってる……。明日香は、さ……、わたしの弱味を握るために、バレー部に、入ってきたのかもしれないけど……、だけど……、部活が終わってから、一緒に帰ったりしたし、明日香と話してて、楽しいって思った……。ねえ、もし、わたしに対する思いやりみたいなのが、ちょっとでも残ってるのなら……、お願い、スパッツをはかせて……。わたし、こわいの。こんな格好で、ゲームに出たりしたら、みんなに軽蔑されて……、なんていうか……、今まで積み上げてきたものが、全部、壊れていっちゃう気がして……。わたし、ゲーム中に、泣きだしちゃうかもしれない……。だから、お願い……」 最後の懇願だった。涼子は、顔をくしゃくしゃに歪め、明日香を見上げる。 しかし、明日香の答えは、無情だった。 「そうやってぇ、悪いほうに色々と考えてるからぁ、よけい怖くなってくるのっ。もう、ぐずぐずしないっ」 明日香は、苛立った様子で、涼子の両脇に手を入れてきた。非力なくせに、涼子の体を、強引に立たせようとしてくる。 「やあぁぁっ……」 涼子は、年甲斐もなく、幼児が駄々をこねるような声を出していた。 部室から引きずり出され、一歩、また一歩と、フロアに近づいていた。 怖い……。どうなっちゃうんだろう、わたし……。 フロアの出入り口まで、あと二十メートルほど。その出入り口のところには、制服姿の生徒が、数人、固まっている。もう、一時間近く前から、そこで、バレー部の練習を見学していた、後輩たちだ。おそらく一年生だろう。先ほど、涼子がフロアを出る時、彼女たちの間から、小さく聞こえたのを思い出す。 『南先輩……。かっこいい……』 要するに、彼女たちは、バレー部の練習を見学しているというより、憧れの涼子を目当てに、そこに集まっているのだ。今は、突然、姿を消した涼子が、また練習に戻ってくるのを、待っているのかもしれない。 そんな後輩たちの存在は、今の涼子にとっては、身の縮こまるような恐怖の対象だった。きっと幻滅される。軽蔑される。やだ……。あの子たち、いつまでいるつもりなの……。もう帰ってよ……。 いや、待てよ。その後輩たちのグループから、ちょっと離れたところに、もう一人、制服姿の生徒が立っている。 その生徒の横顔を見た瞬間、涼子は、目を剥いた。驚愕のあまり、この場で卒倒してしまいそうだった。 そこにいたのは、なんと、涼子が今、もっとも顔を合わせたくない人物、あの、滝沢秋菜だったのだ。 滝沢さん……! うそ……! なんで……!? 猛然とした恐怖に、涼子は、ずるずると後ずさりを始めていた。身を翻して逃げ出そうとしたその時、右側を歩いていた明日香に、腕をつかまれた。 「りょーちん! なに、逃げようとしてんのっ!」 声が、でかい……! 明日香の声に、フロアの出入り口で固まっている後輩たちと、秋菜が、揃ってこちらに顔を向けた。 涼子の姿を見た後輩たちの、はしゃいで嬉しがる声が、聞こえてくる。 「あっ。南先輩だっ!」 「南先輩、やっぱり、戻ってきたーっ」 「待ってて、よかったぁ」 そして、秋菜が、こちらに歩いてくる。 なんで、なんで、なんで……! なんで、滝沢さんが、ここにいるの……!? よりによって、こんな時に……! 涼子は、心の中で絶叫していた。 秋菜は、涼子と明日香の前まで来て、口を開いた。 「南さんのこと、待ってたの……」 涼子は、Tシャツの前すそを、生地が伸びてしまうほど下に引っ張り、股間を隠していた。秋菜にだけは、絶対、ブルマからはみ出た陰毛を、見られたくないという思い。 「どっ、どーしたの? 滝沢さん……?」 自分の声は、悲鳴みたいにうわずっていた。 すると秋菜は、はにかむように口もとを曲げた。 「あの……、さっきは、ありがとう」 保健の教科書のことだ。 「……あっ、あ、いやっ、べつに……」 彼女の保健の教科書に貼られた、涼子の全裸に、秋菜の顔という、アイコラみたいな組み合わせの写真。 先ほど、体育倉庫の地下で、香織から聞かされた言葉が、頭の中に響いている。 『南さんが、教室を出て行った後、滝沢さんも、言ってたよ。『南さんの顔、すごい赤くなってなかった? なんか、この写真のこと、自分のことみたいに恥ずかしがってたよね?』って。そんで、滝沢さん、疑わしそうに、じーっと、あの写真を見てたよ』 『あの滝沢さんの様子だと、南さんのことを疑ってる可能性が、大だね。写真に写ってる裸の女は、南さんじゃないかってね。そのことは、もう、覚悟しておいたほうがいいよ』 その秋菜が、今、目の前に立って話している。 「さっきさ、わたし……、せっかく、南さんと吉永さんが、時間を作ってくれて、教科書、届けてくれたのに、なんていうか……、嫌な態度だったでしょ? ごめん、あの時は、教科書に、『あんな』いたずらがされてるのを見て、やっぱり、ちょっとショックで……、そのせいで、南さんと吉永さんに感謝するってこと、忘れてたみたい。嫌な態度、取っちゃって、ごめんね」 しおらしく謝る秋菜を見つめながら、涼子は思っていた。でも、でも、でも……。滝沢さん、あなた、あの写真のことで、わたしを疑ってるんじゃないの……? だが、その問いを、口に出せるはずもない。 「ううんっ! ちっとも、そんなことなかったよっ! 気にしないでっ!」 涼子は、ぶんぶんと首を横に振った。動揺しているせいで、滑稽なくらい大げさに振る舞ってしまう。 秋菜は、控えめに微笑む。 「帰ろうと思って、一度、学校を出たんだけどさ……、なんか、今日のうちに、南さんに、ちゃんと謝らなくちゃって思って、引き返してきたの。それで、体育館まで来て、コートを見たら、南さんがいなかったから、あれっ、て思ったんだけど……、少ししたら、南さん、戻ってくるかなって思って、ここで、待ってたんだ……」 涼子に謝るために、わざわざ、そこまでしたということに、少なからず驚かされる。同時に、訳のわからない思いだった。もし、本当に秋菜が、涼子を疑っているのだとしたら、帰り道を引き返してまで、謝りに来るというのは、なんだか変な気がするのだが……。 「あっ……、あはっ、そんな……、わたしに謝る必要なんて、ぜんぜん、ないのにぃ……」 二人の間に、互いに遠慮し合うような、ぎこちない沈黙が流れる。 おかしいなと、涼子は思い始めていた。秋菜が涼子を疑っている可能性は、大だと、香織は言っていた。しかし、目の前の秋菜からは、涼子に対して疑念を抱いているような気配は、まるで感じられないのだ。この子は、あの写真のことで、わたしを疑ってなど、いないのではないか……? そんな気がしてくる。もしかすると、香織のあの言葉は、まったくのデタラメだったのではないだろうか。涼子を、怖がらせるための。それだったら、気持ちは、ずっと楽になる。 だが、なんにせよ……、用件が済んだなら、秋菜には、すぐに帰ってもらいたかった。なにしろ、自分は今、この、Tシャツを下に引っ張っている手を放せば、秋菜に、陰毛を見られてしまうという、薄氷の上に立っているような、危険な状態なのだ。 と、その時、秋菜の眼差しが、涼子の下半身へと向けられた。無遠慮なまでに。 やだ……。Tシャツを押さえる手に、ぐっと力が入る。 秋菜は、不思議そうに、目をぱちぱちさせた。 「南さん……、それ、下は、何はいてるの?」 Tシャツで、ブルマがすっかり隠れており、前から見ると、何もはいていないように見えるからだろう。 瞬く間に、顔に血が上っていくのを感じる。またしても、不自然に赤くなった顔を、秋菜に見せることになるのか……。 「あっ……。ブッ、ブルマ……」 言っていて、よけい恥ずかしくなってくる。 「ブルマ……? ……南さんは、いつも、その格好で、練習やってるの?」 秋菜の顔に、苦笑いのようなものが浮かぶのを、涼子は見逃さなかった。 やっぱり、この子、なんか苦手……。 「いっ、いやっ。いつもは違うんだけど……、今日は、たまたま……」 涼子は、無理に笑顔を作って答える。 秋菜は、ふーん、と口にする。 お願いだから、もう帰って……。 「今さ……、南さんが来るまで、ちょっと、バレー部の練習を見てたんだけど……、みんな、すごい気合い入ってるね。三年生にとっての最後の大会が、もうすぐなんだっけ?」 こんな時に限って、秋菜は、涼子と打ち解けようとするかのように、話を引き延ばした。 「うっ、うん。まあ、そう……」 素っ気なく答え、涼子は、唇を引き結んだ。秋菜には申し訳ないと思ったが、これ以上、会話を続ける気にはなれない。秋菜が、気まずさを感じて、早く帰ってくれることを期待していた。 ところが、秋菜は、思いもよらぬことを言いだした。 「せっかくだから、わたし、もう少し、バレー部の練習を見ていこうかな」 「えっ……」 涼子は、言葉を失った。 「南さんのプレーするところも、一度、見たいし」 秋菜は、にっこりと笑って、そう付け加えた。 そんな……。冗談じゃない……。 「でっ、でも……。今日は……」 涼子の反応に、秋菜の表情が、わずかに曇る。 その時、それまで黙っていた明日香が、いきなり口を開いた。 「いいよーっ。滝沢さん。練習、見てってー」 「本当? ありがとう」 秋菜は、屈託のない顔で言う。たった今、涼子が、拒否反応を示したことなど、忘れたかのように。 「それじゃあ、りょーちん、そろそろ、練習に戻りましょっ」 明日香は、親友を演じるかのように、涼子の右腕に、腕を絡めてきた。 「ちょっと待ってよ、明日香……!」 涼子は、抗議の声を上げ、右腕を引き抜いた。むろん、左手のほうで、しっかりとTシャツを押さえたまま。 「なに?」 明日香は、むっとした声を出す。 「むりだよっ。だって、わたし……」 ブルマからはみ出た汚らしい陰毛を、秋菜にまで見られたら、自分はもう、立ち直れないという気がする。 「いいからっ、いくよっ、りょーちん」 明日香に、右腕をつかまれる。 「やだっ! ほんと、むり……!」 涼子は、明日香の手を振りほどいた。 「……怒るよ、りょーちん」 明日香は、じろりと睨みつけてくる。 その美貌の眉間にしわを寄せた、明日香の顔を、涼子は、じっと見返す。そういうことか、と思う。ここへ来て、偶然、滝沢秋菜が現れたことを、この女は、これ幸いと捉えているのだ。涼子が苦手意識を抱いている相手、滝沢秋菜。その秋菜を、これから涼子が恥をさらす舞台のギャラリーに加えることで、涼子に、より強い精神的ダメージを与えてやろうという考えなのだろう。 この女には、何を言っても無駄だ。そう判断し、涼子は、訴える相手を変えた。目を潤ませるようにして、秋菜を見つめる。そうして、彼女に向かって、首を横に振り続ける。 お願い、滝沢さん……。今日は、もう帰って……。 しかし、秋菜は、不思議そうに小首を傾げ、相変わらずのひんやりとした眼差しで、涼子を見返しているだけなのだった。帰るような素振りは、一向に見せない。涼子のジェスチャーの意味が、彼女には伝わらないらしい。 涼子は、驚き呆れる思いだった。この子って、頭はいいのかもしれないけど、とんでもなく鈍感……! 明日香が、また、涼子の右腕をつかんできた。 「ほらっ。りょーちん、いい加減にしなさいっ。もう行くよっ!」 厳しい口調だった。もはや、これ以上、抵抗を続けたら、明日香は本気で怒りだすだろう。そうなったら、後々、どのような仕打ちが待っているかわからない。 ぐいっと腕を引っ張られ、一歩、二歩と、足が前に出る。ぐらぐらと、足もとの地面が揺れ動いているかのような感覚だった。 明日香は、一転、陽気な調子で秋菜に言う。 「滝沢さんっ。今日はぁ、これから、三年対二年のゲームやるから、ぜひ、見てってねっ」 「あっ、そうなの? 見ていく見ていくっ」 まるで、涼子のことなど、はなっから無視しているかのように、秋菜も明るく応じるのだった。 目の前の秋菜に対して、どうしようもなく腹立ちが込み上げてくる。 もう! ちょっとは、空気、読んでよ! そう怒鳴って、秋菜の背後に回り込み、その背中をどどどどっと押して、体育館の玄関から外へと、追い出してしまいたい衝動に駆られる。だが、そんな思い切った行動に出るだけの勇気は、むろん、湧いてこない。 明日香に引きずられるようにして、涼子は、ぎくしゃくと歩きだした。 最悪中の、最悪の事態。なんで、よりによってこんな時に、滝沢さんが、練習を見に来ることになるの……? どうして? どうして、わたしって、こんなに運が悪いの……? 三人で並んで、フロアへ向かう。というより、明日香が、涼子の腕を引っ張ってずんずん進むので、二人の後を、秋菜が付いてくる形となる。 最初の屈辱の瞬間は、この時だった。 今、自分の見苦しい後ろ姿を、秋菜に見られていることを思う。下品なまでに小さなブルマをはいて、自分の大きなおしりの肉が、だらしなく、半分以上も布地からあふれ出している様は、きっと、臭うような不潔感を漂わせていることだろう。どうしても、秋菜の視線が、おしりのあたりにまとわりついてくるような気がしてならない。 後ろから、秋菜の無言の言葉が、伝わってくるようだった。南さん、なんで、そんなものをはいてるの……? そんな格好で、恥ずかしくないの……? 強烈な羞恥に、体温が四十度くらいまで上昇しているのではないかと思うほど、全身が熱くなっていた。 しかし、今は、この程度で恥ずかしがっている場合ではないかもしれない。ゲームが始まったら、秋菜も見守るコート上で、自分は、この、Tシャツを押さえている手を、手放すことに……。 つまり……、わたしの、下の毛が、滝沢さんの目に……。 苦手意識のあるクラスメイト。日頃から、心のどこかに、あった気がする。あの子は、わたしのことを、どう思ってるんだろう……? あの子から、わたしは、どのように見られてるんだろう……? そんなふうな思いが。たとえば、自分が、仲のいい友人たちと、大声ではしゃいだり、おどけて、滑稽なポーズを取ってみせたりしている時、ふと、秋菜がそばにいて、いつものひんやりとした眼差しで、自分のことを見ているのに気づくと、なんとなく、気恥ずかしくなってしまうような。苦手な相手だからこそ、自分の格好悪いところ、恥ずかしいところは、見られたくないという意識。 その滝沢秋菜の見ている前で、もうすぐ自分は、あろうことか、ブルマからはみ出た汚らしい陰毛を、変態みたいな姿を、さらす羽目になるということ。考えるだけで、気が狂いそうだった。 やだやだ。むりむり。そんなの、わたし、とても耐えられない……。 コート上が、地獄になることをわかっていて、体育館に、足を踏み入れた。だが、あり得ないほど不運なことに、ここへ来て、滝沢秋菜が現れたために、その地獄は、より一層、激烈なものになったのだった。 フロアの出入り口のところで固まっている、制服姿の後輩たちが、こちらを注視している。彼女たちの視線には、疑問の思いが込められているような気がした。バレー部の部員は、みな、着用している黒のスパッツを、なぜか身に着けていない涼子の姿に対する、疑問。そんな視線を向けてくる後輩たちの横を、涼子は、明日香に腕を引っ張られるまま通り過ぎ、とうとう、フロアの出入り口をくぐることになった。 わずかな間を置いて、その後輩たちの一人が、小さく声を漏らしたのが聞こえた。 「あぁー、あーあー……」 涼子の後ろ姿を見て、なんとも言葉にならない思いを抱いたのだろう。 お願いだから、もう帰ってよ……! フロアに入ると、明日香は、ようやく手を放し、涼子に耳打ちした。 「りょーちん、わかってんねえ? ゲーム始めんだよぉ、ゲームぅ」 涼子は、何も言えなかった。 ライトに照らされたフロア。いきいきと躍動する部員たち。あちこちから絶え間なく発せられる、威勢のいいかけ声。ボールが床に当たる音。立っているだけで汗ばむような熱気。 先ほどまでと、なんら変わらない環境なのに、何もかもが、脳で処理できないほど非現実的に感じられ、ぐるぐると目が回りそうになる。 これって、本当に、現実の世界なの……? その時、二階のギャラリーから、甲高い声が届いた。 「ミナミせんぱーい!」 びくりとして、声のほうを見やると、そこにも、四、五人、制服姿の後輩たちが集まっている。涼子に憧れの思いを抱く、後輩たち。連日のことなので、もはや、見慣れた光景ではあるが。 涼子は、また一つ、追い打ちをかけられた気分になった。これまで、自分のことを目当てに、練習を見学している後輩たちの存在など、まったく眼中になかったが、今は、彼女たちの視線を、強く意識してしまう。あの子たちに、幻滅されたくない、軽蔑されたくない……。そう痛切に思う自分がいる。 ゲームを開始するために、部員たちを集合させることなど、とてもできず、涼子は、下に引っ張ったTシャツの前すそを、ぎゅっと押さえたまま、その場に立ち尽くしていた。 すると、向こうから、声をかけられた。 「あっ。りょーこー」 同じクラスの雨宮理絵だ。 「今、いなかったでしょう? どこ行ってたのお?」 フロアを離れていたのは、三十分ほどだろうか。 「えっと……、ちょっと、職員室に用があって、それで……」 友人と言葉を交わすのも、なんだか、ふわふわとした心地だった。 すでに、理絵のくりくりとした目は、涼子の何もはいていないような下半身に向けられている。 「はあ、そう。ねえ、あんた、スパッツどうしたの?」 当然の質問かもしれない。 「ああ……、あの、ブルマに、はき替えてきて、さ……」 さり気ないふうを装って答える。 「ブルマ? ……どんなの、どんなの? 見せてー」 理絵は、未知のものに対する興味を露わに、Tシャツをめくってと、両手を上下に動かす仕草を見せる。 だめ……。 「いいの、いいの、気にしないでっ」 涼子は、あしらうように、しいて軽い口調で言った。 「なにそれっ。変なの」 理絵は、小馬鹿にするように鼻で笑い、離れていく。 はあっと、涼子はため息をついた。 フロアにいるバレー部員は、紺のジャージ姿の明日香を除いて、みな、白いTシャツに黒のスパッツの格好で、統一されている。その中に、キャプテンの涼子ひとり、下は紺のブルマで立っているという、理不尽で異様な状況。それも、恐ろしく面積の小さなブルマである。普通の女の子ならば、たとえ海水浴場でも、これほどまでに下半身が露出する水着は、恥ずかしくて着けられないような。 部員たちの、視線。 Tシャツで前を隠していても、スパッツをはいていない、太ももの付け根まで肌をむき出しにした、自分のこの姿は、案の定、目立っているようだった。 今、目の前、コート内では、主に三年生と二年生が、スパイクを打ち込む側と、そのボールをレシーブする側とに分かれ、練習に励んでいる。 「カット一本!」 「ナイスキーっ!」 「上げていこっ! 上げていこっ!」 プレーの時はもちろん、順番を待つ間でも、常に声出しを絶やさない部員たち。 彼女たちの顔が、ふと、こちらを向いた時、その視線が、少しの間、自分に止まるのがわかるのだ。おやっ、というように。 自分への視線、視線……。 ここに突っ立っていると、次の瞬間にも、誰かから、この姿に対する疑問の言葉を、投げかけられそうに思う。それに今、涼子の後方、壁ぎわには、ボールに触れない一年生たちが並んで、筋トレを行っている。自分の見苦しい後ろ姿が、目に入っているだろう、彼女たちに、どう思われているか、気になってどうしようもない。 涼子は、いたたまれなくなって、フロアの隅へと向かった。 壁ぎわに並んだ一年生たちの前を、この屈辱的な姿で通っていく。自分の太もも、さらには、おしりのむき出しの部分へと、彼女たちのもの問いたげな視線が、突き刺さってくるのを、ひしひしと肌で感じる。 恥ずかしい……。 「南先輩っ!」 急に後ろから呼ばれ、涼子は振り返った。 二年生の部員、沼木京香だ。 「それ、なんですか……? 水着?」 京香は、痛々しいものでも見るような目をしている。 そばにいる一年生たちの何人かも、涼子の返答を聞きたそうに、こちらを見ている。 「ううんっ。ブルマっ」 恥ずかしがっていると思われないよう、さらりと答える。 「ブルマ……」 京香は、その言葉を、吟味するように口にする。そして、苦笑混じりに言う。 「でも、なんか……、先輩のはいてるの、サイズ、小さすぎないですか? 今日は、それで、やるんですか?」 そんな格好で、練習するんですかと、訊かれてきるのだ。 「えっ……。そんなっ、普通っしょ? たぶん……」 へへっと笑い、涼子は、逃げるようにその場を離れた。 もう、いや……。 フロアの隅に、避難する。 思ったとおり、明日香が、涼子を追って来る。 明日香は、涼子の前で、腹立たしげに腰に手を当てた。 「りょーちん、すぐにゲーム始める、約束でしょーう? なんで逃げてんのよっ」 もはや、この悪魔には、どう懇願しても無駄なのかもしれない。 だが、せめて……。 「明日香、本当にお願い……。ゲームは、……たっ、滝沢さんが、帰ってからにさせてっ。これだけは、お願いっ!」 あの、滝沢秋菜にだけは、自分の変態みたいな姿を見られたくないという、焼けるような思い。 「だめだめっ。あたしさっき、滝沢さんにぃ、ゲームやるって、言っちゃったんだからっ」 にべもなく突っぱねられる。 「いやっ。わたし、滝沢さんの見てる前では、いやっ……」 滝沢秋菜の目を、特別、意識してしまうということは、もう隠しようがなかった。 明日香は、いかにも意地の悪そうな目つきになる。 「なに、りょーちん……。滝沢さんのこと、そんなに気にしちゃって。恥ずかしいとこ、滝沢さんに見られるのがぁ、そんなに嫌なのっ?」 はい、と答えれば、自分の最大のウィークポイントは、滝沢秋菜であると、明日香に教えるようなものである。だが、それを否定すれば、だったら秋菜が見ていてもいいだろう、という話になるに違いない。 涼子は、下唇を丸め込むようにして、こくりとうなずいた。 すると、明日香の顔に、にたりとした笑みが浮かんだ。 「りょーちんの気持ちはぁ、よーくわかった。……でも、ダーメっ。すぐに、ゲーム始めることっ」 腹の底が、痙攣するような感覚を覚える。 「ひどいよ、明日香……。わたしっ、滝沢さんまで見に来るなんて、聞いてないもん……」 今、両手でTシャツを押さえていなかったら、明日香の体にすがりつくところだった。その動作の代わりに、涼子は頭を垂れ、明日香の肩に、額をもたせかけた。そうして、泣いているように、鼻をすすり上げる。この光景を、部員たちが目にしたら、変に思うだろうが、そんなことは構っていられなかった。 「諦めなさい、りょーちん」 耳もとで、冷酷に言われる。 「いやぁ……」 明日香の華奢な肩に、額をこすりつけるようにする。ジャージの生地越しに、彼女の体温を、かすかに感じる。この女にだって、人間の血が通っているはずなのに……。 「……今から十秒以内に、ゲーム始めないとぉ、あたし、香織に、言い付けるよ。りょーちんが、約束、守らなかったって。香織を怒らせたらぁ、りょーちん、やばいんじゃないのぉ? 滝沢さんにぃ、ストーカーしてるってことが、バレてさぁ……」 悪魔……。人間じゃない……。 涼子は、おもむろに宙を仰いだ。体育館の天井に備え付けられたライトの光を、まともに目に浴びる。 まぶたを閉じた。 何も考えられなかった。わからない。数分後、自分が、どうなっているかも……。 目を開け、ふらふらと、部員たちのほうに少し歩いた。すうっと息を吸い込み、声を張り上げる。 「しゅーごーう!」 普段より頼りない声だったが、バレー部のフロアには、充分に響き渡った。 それを聞いた部員たちが、どっと涼子の前に集まってくる。 バレー部のフロアから、喧噪が消える。 三十人を超える部員たち。彼女たちの顔を見れば、明らかだった。今、ほとんどの部員の目線が、涼子の腰より下に向けられている。本来なら、スパッツに覆われているはずの部分、なぜか肌の露出している太ももに。 「ちょっと、りょーこー。なんで、下、何もはいてないわけ?」 副キャプテンの高塚朋美が、詰問するような口調で問うてきた。 「えっ、はいてるよ……。ブルマ……」 部員全員の前でそう答え、涼子は、ぼっと頬が紅潮するのを感じた。 「ブルマぁ? ……って、なんであんた、ブルマなんて、はいてんの?」 朋美は、まるで、それが不愉快なものであるかのように言う。 「ああ……。動きやすいんじゃないかと、思ってさ……」 涼子は、意味もなく、両脚の太ももをこすり合わせるような動作を行っていた。 だが、朋美はなおも、合点のいかない様子を見せている。 それ以上、追求されたくなくて、涼子は、ゲームの指示に入った。 「今から、三年対二年で、ゲーム始めるから。三年のスタメンは、わたし、朋美、咲子、さくら、まりまり、美紀、絵理子。で、二年は……」 二年生の部員の名前を挙げていく。喋りながらも、部員たちから、不可解な目で見られているのが、嫌というほどわかる。彼女たちは、思っているのだ。ブルマをはいているなら、それはそれでいいが、なぜ、恥ずかしそうに、Tシャツのすそを引っ張って、隠しているのだろう、と。 涼子は、不安に押し潰されそうだった。 今、Tシャツで隠れている、陰毛のはみ出た下腹部。この部分を、外にさらした時、みんなは、どんな反応を示すだろうか……。副キャプテンの高塚朋美などは、かんかんに怒りだすかもしれない。ここのところ、朋美は、涼子に対して不信感を抱き始めている。涼子が、以前とは別人のように、キャプテンらしからぬ、集中力の欠けたプレーを繰り返しているからだ。むろん、涼子の不調の原因は、あの吉永香織たちとのことにある。だが、朋美にも、ほかの誰にも、その事情は、打ち明けられない。そういえば、先ほども、練習に身が入っていないことを、朋美から叱責されたばかりだった。そんな朋美が、涼子の、正気とは思えないような姿を、目にしたら……。 涼子は、完全に上の空の状態で、口を動かしていた。 「……で、先に、二セット先制したほうの勝ち。一年生は、いつものように、三年を応援する側と、二年を応援する側に分かれて、声出しね」 「はいっ!」 一年生たちが、しゃきっと返事する。 「じゃあ……、ゲームの、準備」 涼子の言葉に、部員たちが、小走りに散らばっていく。 いよいよだった。 覚悟なんて、決まるわけがない。『その時』を、自分は、どう迎えたらいいのか……。 涼子は、フロアの出入り口に、忌々しい思いで目をやった。そこには、涼子を目当てとした、制服姿の後輩たち、それに、今日に限って、あの滝沢秋菜が、陣取っている。彼女たちのちょうど正面、視線の直線に沿うように、バレーのネットが張られている。彼女たちから、ネットの片側の端まで、三、四メートルほどだろうか。要するに、ゲーム中は、ネットの前で飛んだり跳ねたりする涼子の姿を、秋菜たちが、真横から、それもかなりの近距離で、見ているということ。 その状況の怖ろしさに、涼子は、改めて戦慄する。 滝沢さん……。なんで、こんな時に……。 おかしい。そう。今から思えば、先ほどの秋菜の態度は、おかしかった。そもそも、なぜ、あの、他人には興味のなさそうな秋菜が、もう少しバレー部の練習を見ていくなどと、急に言いだしたのか。何か、特別な意図でもあったのではないか……? そんなふうに考えていくと、ふと、香織の言葉が、耳の奥によみがえった。先ほど、体育倉庫の地下で、聞かされた言葉。 『それと、気をつけたほうがいいよ……。滝沢さん、あの写真を剥がして捨てないで、保健の教科書、そのままバッグに入れてたから。もしかしたら、今日、家に帰って、あの写真を、徹底的に調べるつもりなのかもね。南さんであることを示す証拠が、どこかに写ってないかって』 少し、思いを巡らす。 その直後、涼子は、ぞくりとした。 地底から何かが這い出てくるかのように、どす黒い疑念が、頭をもたげる。 まさか、滝沢さん……、わたしの、『体』を、見に来たんじゃ……。 あり得ない話ではない。今、その可能性について、真剣に考えなくてはならない。 秋菜の真意を、想像する。 彼女の保健の教科書に貼られた、涼子の全裸に、秋菜の顔という、アイコラみたいな組み合わせの写真。秋菜は、涼子の赤面した顔や狼狽ぶりから、写真に写っている裸の女は、南涼子ではないかと、ほとんど確信に近い疑いを持った。そして、今日のうちに、それを、はっきりさせないと、落ち着かないと思い、涼子のいる体育館へやって来た。 つまり、涼子の、『身体的特徴』を、確かめるために……。 体つきでは、判断できないだろう。もしかすると、脚のアザとか、大きなほくろとか、そんなものが、あの写真に写っているのかもしれない。そういったもので、涼子の体と、写真の裸とを、秋菜は、『照合』しようとしてるのでは……。 だんだん、それが、真相だという気がしてくる。悪いほうに悪いほうに、思考が流れすぎているだけだろうか? いや、そうは思えない。 秋菜は言っていた。保健の教科書を届けてもらった時に、嫌な態度を取ってしまったことを、涼子に謝っておきたくなったために、帰り道を引き返して学校に戻り、ここへやって来た、と……。まず、その話が、実にうさん臭いではないか。秋菜が、何か裏の意図を隠し持っているのは、間違いないのだ。そして、裏の意図があるとしたら、事の流れからして、例の写真に関することに、決まっている。それに、どう考えても、先ほどの秋菜の態度は、明らかにおかしかった。あの時の、涼子と明日香の、ただならぬやり取り。それを目にすれば、秋菜が練習を見に来るのを、涼子が、嫌がっていることくらい、すぐにわかるはずなのだ。あの頭のいい秋菜に、それが、わからないわけがない。なのに秋菜は、そこで帰ることはしなかった。なぜか。何がなんでも、今日のうちに、あの写真の裸の女が、南涼子であるのかないのかを、はっきりさせたかったからだろう。 涼子は、確信した。滝沢さんは、わたしのことを、わたしの体を、見てるんだ……。ひどい……! どう猛なまでの怒りが、フロアの出入り口のところで、涼しげに佇んでいる秋菜へと向かう。 そんなに、わたしのことを疑ってるわけ……!? なにも、そこまでしなくったって、いいでしょう……!? 怒りをぶつけるべきは、自分をこんな状況に追い込んだ、あの吉永香織たちである。しかし、筋違いとわかっていても、秋菜に対する怒りを抑えられない。 待てよ。 もう少し、考えさせられる。 今、秋菜は、涼子の体と、あの写真の裸とを、『照合』しようとしている。それは、もはや確実なことだろう。今一度、あの写真の光景を思い浮かべる。写っているのは、全裸の女が、降伏するように、両手を頭の後ろで組んで立っている姿だ。顔の部分は、くり抜かれている。 そこで思う。あの裸の体の中で、もっとも特徴的な、注意を引くものは、何か。伸びやかな手脚か。筋肉質であるということか。はたまた、それなりに大きな乳房だろうか……。いや、どれも違う。あまり認めたくないことだが、それは……、下腹部から太ももの付け根にかけて、逆三角状に黒々とはびこった、発毛範囲の広い、陰毛……。写真で見ると、自分でも、ぎょっとするほどに。 問題なのは、その先だ。 写真と『照合』するために、涼子の姿を観察している秋菜にとっては、『好都合な』ことがある。それは同時に、涼子にとってみれば、どこまでも不運なことだった。今の涼子は……、服を着ていながらも、写真の裸に写っている、もっとも特徴的なものを、外にさらけ出しているのだ。 ブルマから、もさもさとはみ出た、陰毛……。 この薄着の格好で、極寒の大地に放り出されたかのように、凄まじい寒気に襲われる。 秋菜は、現時点でも、写真の裸は、きっと南涼子だろうと、限りなく確信に近い疑いを持っているはずだ。そんな彼女が、涼子の、その下腹部を、目にしたとしたら……。濃くて発毛範囲の広い、陰毛。まさに、その一点が、駄目押しとなって、彼女の中で、涼子の体と写真の裸の二つが、完全に重なり合うのではないか。つまり、涼子に対する疑惑は、確信に変わるのだ。そうなった時、彼女の胸の内には、涼子への冷たく激しい怒りが……。 「……へっ、へえうぅ」 恐怖のあまり、涼子は、泣き声を漏らしていた。 そんなことって……、そんなことって……。 自分の運の悪さは、底無しだと思う。なんだか、自分の人生は、あの香織たちに目を付けられたのと同時に、呪われてしまったのではないか、という気すらしてくる。あるいは、香織たちの行動も含めて、この一連の出来事には、何か裏で糸を引いている者でもいたりして……。そんな思いも、一瞬、頭の片隅をよぎった。 けれども、とそこで考え直す。こんな小さなブルマをはいていたら、陰毛がはみ出すのは、当たり前ではないか……。何も、自分だから、というわけではないような。 涼子は、その部分を、もう一度確かめるために、壁ぎわの、部員たちが周囲にいない場所へと、歩いていった。もはや、涼子の頭の中のほとんどは、滝沢秋菜に対する恐怖で占められていた。 バレー部のフロアでは、部員たちが、すでにゲームの準備を終え、それぞれの配置につくところだった。スターティングメンバーの二、三年生が、水分補給をしたり、体の曲げ伸ばしをしたりしている。 『その時』は、すぐそこまで来ている。どうあっても、逃れられない。 涼子は、壁にぶつかりそうなところで、立ち止まった。 横から、誰にも下腹部を見られないか確認した後、これまで、ひたすら下に引っ張っていたTシャツの前すそを、そろそろとめくり上げる。 目に映るのは、身の毛のよだつほど悲惨で汚らしい下腹部。ブルマの布地は、馬鹿みたいに面積が小さいうえ、フロントの部分が、三角に、鋭い角度で切れ上がっている。が……、どうだろう。いくらブルマが小さいとはいえ、それでも、グラビアモデルの着けるビキニくらいの面積は、あるようにも見えてくる。 涼子は、徐々に思い始めた。『普通』ならば、このブルマにも、陰毛は収まるのではないか……。むろん、人の裸を、じっくり観察したことなどないので、女の子の陰毛の、『平均的な』生え具合など知るよしもない。だが、自分以外、たとえば、バレー部の三年生の仲間たちが、パンツをはかずにこのブルマを着けても(そんなことは、絶対にしないだろうが)、毛穴の位置からして、外に出ているなんていう状態には、誰もならないような気がする。 自分だから、自分の、濃くて発毛範囲の広い陰毛だから、こうして、ブルマの両脇から、もさもさと汚らしくはみ出るのでは……。そんなふうに思えてならない。というより、自分の陰毛のおびただしさが、面積の小さいブルマによって、強調されているような印象も受ける。 秋菜が、これを、目にしたとしたら……。間違いない。彼女の中で、涼子に対する疑惑は、激しい怒りと共に、確信に変わる。 血が凍ってしまったかのように、全身が冷たい。目の前の壁が、何色なのか判別できないほど、視界が暗くなっている。 涼子は、本物の恐怖と絶望を知った。 救いの光は、どこにも見えない。明日から、滝沢秋菜のいる教室には、とてもじゃないが入れなくなる。高校生活は、もう続けられない。自分の人生は、どうなってしまうのだろう……? その時、心の中から声が聞こえてきた。それは、今まで生きてきた中で、もっとも醜い、自分の心の声だった。 吉永、竹内、石野の三人は、何をやってんのよ……! 次の標的は、滝沢さんなんでしょう……!? だったら、わたしにこんな嫌がらせしてないで、とっとと、滝沢さんをハメたらいいじゃない……! わたしなんかより、あの、いつも澄ましたような滝沢さんのほうが、よっぽど、いじめがいがあるじゃん……! はやく、滝沢さんのことも、わたしのところまで、堕として……。 涼子は、はっとした。 愕然とする。今、クラスメイトの不幸を、本気で願っている自分がいたのだ。薄々感じていたことだが、香織たちからの仕打ちによって、恐怖や恥辱ばかり、味わわされるようになってからというもの、自分の心は、醜く歪み始めている気がする。悲しいことだった。情けなくもある。けれども、こんな状況で、心だけは清く保っていられる少年少女など、世の中にいるのだろうか……。 それにしても、自分の体のコンプレックスである部分を見られることで、自分に対する疑惑に、確信を与えてしまうなんて、人間として、まっとうに知性を持つ者として、これほど惨めな話はなかった。 「りょーこー! あんた、そのブルマ、なにっ!?」 すぐ後ろから、いきなり、笑い混じりに言われる。浜野麻理の声だ。 涼子は、ふたたび、Tシャツの前すそを両手で下に引っ張り、そちらを向いた。もう、麻理を含めた三年生のスターティングメンバーが、コート内に入っている。 「それ、絶対、サイズ合ってないって! おしりが、すごいことになっちゃってるよっ」 ムードメーカーでもある麻理のにぎやかさに、今回ばかりは、げんなりする。 「そっ、そうかな……? そこまで、変かな……?」 自分の問いかけは、滑稽にもほどがある。 「変だよぉ……。だって、見てるこっちが、恥ずかしくなってくるもーん」 麻理の、悪気のない率直な言葉。おそらく、涼子の後ろ姿を見ていた、みんなが、同じ思いだっただろう。 「……やだっ、そんなこと……、気に、しないでよぉ」 涼子は、屈辱感を押し殺して、そう言った。 「はあぁ……、まあ、りょーこがいいなら、いいや。……じゃあほらっ、早く、こっち来てっ」 麻理は、手招きする。 三年生のスターティングメンバーが、ゲーム開始直前の円陣を組もうとしている。六人で、肩を組み合うということ。 要するに……。とうとう、『その時』が来たのだ。 心臓が、破裂しそうなほど、どくどくと音を立てている。 涼子は、前に歩を進めた。が、すぐに足が止まった。 怖い……。やっぱり、むりだ……。目の前の現実には、向かっていけない。 「あっ、わたしは、いい……。しゅっ、集中、集中してるから……、いい」 試合前の円陣を拒絶するという、キャプテンとしてあるまじき発言だった。 その言葉に、スターティングメンバーの五人は、一様に、怪訝な表情を浮かべる。 「もういいっ。わたしが最初、言うから、みんな、やろっ」 副キャプテンの高塚朋美が、ほかのメンバーに促した。様子のおかしい涼子のことなど、放っておこう、とでもいうふうに。 五人が、肩を組んだ。 「ごじょーうばし、さんねーんっ!」 「オイッ、オイッ、オイッ、オイッ、オオオー!」 それぞれが、勇ましく気勢を上げる。 反対側のコートでも、二年生が、同様にしていた。 涼子は、その響きを聞きながら、自分のコートポジションへと、夢うつつの境地で歩いていった。バレーは、サーブ権を得るごとに、コートポジションがローテーションするのだが、涼子のスタート位置は、フロントレフト(左前)だった。左手の壁に、ゲームに出ない部員たちが、ずらりと並んでおり、その列の真ん中あたり、ネットの真横に、フロアの出入り口、つまり、制服姿の後輩たちと秋菜が陣取っている。そのため……、今まさに、秋菜の真ん前、四メートルほどのところに、涼子は立たされたのだった。そして、ゲームでは、エースアタッカーの涼子は、主にコートの左側でプレーすることになる。 どこにも救いのない、恐怖と絶望に、理性を失ってしまいそうな状況だった。 自分の体を、疑惑の目で観察している秋菜の顔は、怖すぎて見られない。だが、ここでどうしても気になり、涼子は、おそるおそる、彼女のほうに顔を向けた。 秋菜のひんやりとした眼差しと、目が合った。 すくみ上がるような思いで、すぐに顔を前に戻す。滝沢さん、やっぱり、わたしを見てる……。わたしのこと、ずっと見てるんだ……。それに、今の、秋菜の目。普段よりさらに、冷ややかだったように感じられる。まるで、涼子に向かって、メッセージを送っているかのように。南さん、写真の裸の女は、あなたなんでしょう……? しっかりと、その体を、確かめさせてもらうからね……。 恐怖と共に、秋菜に対して、怒りどころか、憎しみの感情すら湧いてきそうだった。 人の体を、舐め回すように観察するなんて、ひどい……。許せない。わたし……、あなたのことは、ずっと前から、あんまり好きじゃな……。 苦手な相手だからこそ、自分の格好悪いところ、恥ずかしいところは見られたくない、対等な立場でありたいという、ささやかだけれども痛切な願望。その願いは、もうじき、無惨なまでに砕け散る。それは、すなわち、涼子のプライドが、最悪の形で蹂躙されることを意味していた。 それに、部員たち。 同じ三年生の仲間たちのことも、むろん問題だが、気になるのは、やはり、一、二年生たちの視線だった。後輩の部員の中には、涼子に対して憧憬の念を持っている子が、多数いる。決して、うぬぼれているわけではないが。そんな彼女たちの思いを、裏切ってしまうことが、心苦しい。……いや、ちょっと違うか。素直になろう。涼子だって、普通の女の子。自分が、部員たちから憧れられる存在なら、そのまま格好良く、部活生活を終えたかったのだ。気持ち悪い女、という目で見られるなんて、悲しすぎる。あまりにやりきれない。 涼子は、今なお、Tシャツの前すそを、両手で下に引っ張っていた。 この手を、手放すことなど、どうしてできようか……。とはいえ、その瞬間は、間もなく訪れようとしている。だが、ひょっとすると……、プレー中は、素早く体を動かしているので、陰毛がはみ出ていることには、誰も気づかないかもしれない……。あるいは、もう今、次の瞬間にでも、天変地異とか、何か思いもよらない事態に体育館が襲われて、自分は、奇跡的に救われたりするのではないか……。そんな現実逃避の世界に、ひたすら没入しているような精神状態。 最初のサーブ権は、三年生にあった。 一番手にサーブを打つ選手が、すでに、その位置に付いている。 「ナイッサー、イッポン! 入れてけ、入れてけ、ナイッサー、イッポンッ!」 三年生を応援する側の一年生たちが、コートを盛り上げる。 笛が鳴らされた。 ジャンプサーブで放たれたボールが、ネットを超えていく。 その瞬間、涼子は、Tシャツから両手を放していた。なにやってんだろう、わたし……。そう疑問に感じながらも、相手とボールの動きに、意識を傾ける。スパイクを打とうとする相手の正面に移動し、伸び上がるように跳躍する。 時間と空間が、ぐにゃりと歪んだ気がした。 ボールは、勢いよく涼子の手の平に当たって、相手コートに落ちた。ブロック成功。着地と同時に、Tシャツの前すそを、さっと両手で下に引っ張る。 「ナイスブロック、ミナミ! ナイスブロック、ミナミ!」 一年生たちのかけ声が上がる。だが、何人かが声を出していないのか、なんとなく、いつもより弱い響きに聞こえるような……。 毛、見えてなかったよね……? 得点が入ったことで、コート内の三年生のメンバーが、ハイタッチをするために、真ん中に集まっていく。 しかし、涼子だけは、その輪に加われなかった。仲間たちの至近距離で、両手を上げるなど、とても無理な話だった。それに、たった今、コート内のメンバーにも、陰毛を見られたかと思うと、怖ろしくて、そちらに顔を向けられない。 チームの結束を乱すような涼子の態度に対し、五人は、強い不快感を抱いていることだろう。いや、もしかすると、ある者は、我が目を疑うような思いで、涼子のおしりの下の部分を、じいっと凝視しているかもしれない。ハイタッチを終えた五人が、それぞれのコートポジションに戻っていく。 涼子は、必死に自分を励ましていた。 だいじょうぶ、だいじょうぶ。誰も、気づいてない。わたし、すごい速く動いてたんだから……。 最初に異変を示したのは、フロアの出入り口のところで並んでいる、制服姿の後輩たちだった。こちらを見ながら、何事かささやき合っている姿が、横目に映る。 えっ。なに……? まさか……。 彼女たちの声は、ほとんど聞き取れないが、耳に神経を集中していると……。 「……ケ」 その音が耳に入った瞬間、涼子は、全身が引きつるほど震かんした。 毛。聞こえた。毛って……。やだっ、見られてた。見られてたんだ……。やっぱり、みんなに、気づかれないはずがなかったんだ……。 制服姿の後輩たちが目にしたとなると、当然、その隣に立っている秋菜にも、目撃されてしまった可能性が、極めて高い。たとえ、秋菜の目には留まっていなかったとしても、後輩たちのそんな話を、横で聞いたら、彼女は、次の回で、それを確かめようとするに決まっているのだ。 滝沢さん……。 もはや、秋菜のほうは、絶対に見られない。次、秋菜のあの冷ややかな眼差しと、目が合ったら、自分は、コート上で半狂乱になってしなってしまいそうだ。 笛が鳴らされる。 三年生側のサーブのボールが、相手コートに飛んでいく。 涼子は、Tシャツから両手を放し、ネットぎわを横跳びするように動いた。 その時だった。フロアの出入り口に並んでいる制服姿の後輩たちが、悲鳴のような声を発したのだ。南先輩の、そんな姿は、見たくなかった……、とでもいうように。 確定した。見られてる。今、下の毛を、みんなに見られてるんだ……。 絶望感に、意識が暗転しそうになる。だが、涼子は、自分の体に鞭打って、それでもプレーを続けた。ジャンプ。ブロック。左右への移動。 三年生チームのセンター、高塚朋美のスパイクが、見事に決まった。 「ナイスキー、タカツカ、ナイスキー、タカツカ。タカツカのスパイクは、誰にも止められないっ……」 一年生たちの声量は、明らかに小さかった。ゲームに対して、何か戸惑いを覚えているかのように。 前回と同様、涼子を抜きに、五人が、ハイタッチを交わす。三年生側のコートには、なんとも言い様のない異様な空気が漂う。 壁ぎわに並ぶ部員たちも、ざわめき始めていた。 一、二年生たちから、涼子に向けられる、視線、視線、視線……。憧れだったキャプテンに対する幻滅、失望、といった感情が、早くも、少なくない後輩たちの顔に、表れてきているような。 涼子は、Tシャツの前すそを下に引っ張りながら、誰とも目を合わさないよう、空中の一点に視線を固定していた。後輩の部員たちに、白い目で見られていると思うと、悲しくて悔しくて、胸が張り裂けそうだった。 それに何より、真横に立っている秋菜の存在が、苛烈な重圧となって、心身にのしかかってくる。 滝沢さんに、下の毛、見られちゃった……。どうしよう、わたし……。やばいやばいやばいやばいやばいやばい……。 その時、部員たちと共に並んでいる明日香が、突き抜けるような声を発した。 「りょーちんっ! ぜんぜん、声が出てないぞっ! 声、出していこっ!」 まるで、彼女ひとり、涼子の陰毛には気づいていないかのような言動である。 誰よりも大きな声で、声出しをすること。体育倉庫の地下で、そう言い付けられていた。部員全員の前で、恥辱にまみれたうえ、この状況に黙って耐えることさえ、涼子は許されていない。要するに、明日香は、あらゆる要素を利用して、とことんまで涼子を追い詰めようとしているのだ。 はらわたの煮えくり返る思いだったが、命令に背けない涼子は、あるかなきかの気力を振り絞って、声を吐き出した。 「サァックッラァーッ! もうイッポンッ、サーブ入れてっけぇー!」 サーバーに声援を送ってから、今度は、一年生たちのほうに体を向ける。 「ほらほらぁっ! 一年生も、もっともっと、声、出してっ! 声が出ないならっ、ゲームが終わったあと、全員、ダッシュ二十本だからねっ!」 痴態をさらしながら、後輩を怒鳴る自分の顔は、いったい、どんなふうに見られているだろうかと思う。 「……はぁーい」 返事をする一年生たちの表情の、なんとも締まりのないこと。中には、薄笑いを隠すように、口もとを手で押さえる部員の姿まで、目に入った。 わたし、馬鹿にされてる……。 キャプテンとして、彼女たちの態度は、とても容認できるものではなかったが、今の自分が叱りつけたところで、説得力など皆無に決まっている。それより、ゲームに集中するべきだろう。大きな声で声出しをするだけではなく、この状況下でも、全身全霊でプレーし、三年生チームの勝利のために尽くさなくてはならない。二年生に、一セットでも取られたら、明日の練習も、この格好で行わされる羽目になるのだから。 三年生側のサーブのボールが、相手コートに飛んでいく。 涼子は、Tシャツから両手を放した。 見ないで、みんな、見ないで、みんな……。わたしの、へんなところ、見ないで……。心の中で、そう訴えながら、ネットぎわで脚を動かす。 ラリーが繰り返される。 コートの左へと移動する時、一瞬、秋菜のほうに、よそ見した。 秋菜は……、涼子のことを、たしかに見ていた。しかし、目と目は合わなかった。なぜなら、秋菜の目線は、涼子の顔のずっと下方、ちょうど下腹部のあたりへと、真っ直ぐに向けられていたからだ。 涼子は、恐怖の激流に、頭頂から魂が抜けていくような感覚を覚えた。 見てる……! 滝沢さんが、わたしの股間を、すごい見てる……! もうだめっ……! 二年生チームのライトアタッカー、斉藤加奈子が、強烈なスパイクを打ち込んできた。そのボールは、涼子のブロックのわきを抜けて、三年生側のコートに突き刺さった。 「ナイッスッキーッ! サイトォウッ! ナイッスキィーッ! サイトォウッ! サイトウのスパイクはっ、誰にも、止められないっ!」 二年生側を応援する一年生たちが、沸き立って斉藤加奈子を称える。まるで、気持ちの悪い姿でプレーするキャプテンに対しては、敵がい心を抱き始めたかのように。 涼子は、Tシャツの前すそを、股間に押しつけるようにして、腰をかがめていた。ぜえぜえと荒い息を吐く。第一セットが始まったばかりだというのに、もう、息が切れていた。 すると突然、後ろから、どすんと肩を組まれた。 驚いて見やると、副キャプテンの高塚朋美だった。 「りょーこ、ちょっと……」 朋美の表情には、ただならぬものがあった。 そのまま、無理やり歩かされる。自分よりも背の高い朋美に、こんなふうにされると、かなりの威圧感を感じる。 涼子と朋美は、コートラインの外に出た。 ゲームが、一時中断される。 フロア内のバレー部員、全員が、すっかり押し黙って、二人のことを目で追っていた。 二人の立ち止まった場所は、フロアの出入り口のすぐ近くだった。 朋美は、腕をどけて言った。 「ねえ、なんのつもり?」 この静まり返った状況では、そばにいる制服姿の後輩たちや秋菜はむろんのこと、多くの部員に聞こえているだろう。 朋美の言葉の意味は、もちろん、わかっていた。けれど……。 「えっ? なにがっ?」 涼子は、精一杯、とぼけてみせた。 朋美は、こめかみに青筋を立てているかのようだった。 言わないでっ。言わないでっ……。 「あんた、下、思いっ切り、毛がはみ出てんの、自分でわかってんでしょう!?」 激昂した朋美の声が、静寂に響いた。 ぷっつんと、頭の中で糸が切れた。バレー部のフロアで、時間が止まった。 やだっ、やめてよ……。 自分にだけ、この世の終焉が訪れたような心地だった。 部員たちが、かたずを呑むようにして、涼子の返事を待っている。 当然、今の朋美の発言は、秋菜にも聞かれている。 出入り口のほうには、絶対に顔を向けられないが、そちらから伝わってくる気配で、おおよそのことは見当が付く。制服姿の後輩たちは、嫌悪に満ちた眼差しで、涼子の姿を見すえている。そして、彼女たちの隣、秋菜の瞳には、涼子への冷たい怒りの炎が宿っていることだろう。 考えろ、考えろ……。ここで自分は、どう対応するべきなのか……。 涼子は、顔中の筋肉を使って、笑いの表情を作った。 「気にしないでっ!」 その瞬間、朋美の目が、信じられないものを見るかのように見開かれた。 「さっ、朋美っ。ゲーム、ゲーム」 唖然とする朋美を置いて、涼子は、コートに戻っていく。 自分のコートポジション、フロントレフト(左前)の位置にふたたび立った。 終わっちゃった……。わたしが、今まで、血と汗と涙を流して、必死に積み上げてきたものが、全部、壊れていっちゃった……。青春そのものの部活生活が、こんな悲惨な形で、幕を閉じるなんて……。 胸の内から悲しみが噴き出てきて、ぽろぽろと涙がこぼれそうだった。 審判役の部員は、ゲームの再開をためらうような素振りを見せつつも、笛を吹いた。 二年生側のサーブのボールが、右後方に飛んでくる。 その位置に構えていた選手が、しっかりとレシーブする。トスが上がる。涼子の上空へと。 涼子は、悲しみを振り切ってジャンプし、ありったけの力でボールを叩き落とした。たしかな手応えだった。 スパイクのボールは、二年生の選手の腕に当たって、コート外に飛んでいった。 しかし、もはや、大きなかけ声は響かなかった。 「南せんぱい、ナイスキー」 「ナイスキー」 申し訳程度の声が、ちらほらと上がっただけだ。 コート内の三年生の選手たちも、涼子には、ハイタッチどころか、どんな声もかけてはこなかった。 おまえは、キャプテン失格だ。部員たちから、そう告げられているような気がしてくる。 コートポジションが移動し、涼子は、フロントセンター(中央前)の位置に立つことになる。すでに、ブルマから陰毛がはみ出ていることは、バレー部のフロアにいる全員に気づかれている。けれども、いくらそうだとしても、開き直って、陰毛をさらしっぱなしにするわけにはいかない。次にサーブが放たれるまでは、自分の股間へと向かってくる視線を、Tシャツの前すそで遮断し続ける。 足を止めていると、頭の中では、滝沢秋菜に対する恐怖が膨らむばかりだった。 こわい……。滝沢さんが、こわい……。 まるで、秋菜の心の声が、テレパシーみたいに、脳内にぎんぎんと響いてくるかのようだ。 南さん。その毛……。やっぱり、あの写真の裸は、あなただったのね……。わたしの教科書、視聴覚室で発見した、とか言っちゃって。本当は、盗んだくせに。人の教科書に、自分の裸の写真を貼りつけて、それから返すなんてことして、なにがたのしいわけ……? この、変態、変態、変態、変態、変態、変態、変態、変態、変態、変態、変態……! この場で叫びだしてしまいそうなほど、秋菜が怖ろしく、歯がかちかちと鳴り始める。 今、恐怖と恥辱に崩壊しそうな涼子の精神を支えているのは、あの滝沢秋菜だって、もう少しすれば、自分のところまで堕ちてくるのだから、怖がることなんてない、恥ずかしがることなんてない、という、人間として、醜くて浅ましい一念だった。 三年生側のサーブのボールが、相手コートに飛んでいく。 二年生チームは、レシーブから、低いトスを上げ、クイック攻撃に出た。またしても、斉藤加奈子のスパイクが火を噴く。 涼子のブロックは、遅れていた。が、後衛の選手が、体勢を崩しながらも、なんとかレシーブする。そのボールが、そちらを振り向いた涼子の、真ん前に落ちようとしていた。涼子は、アンダーハンドで味方にパスを送ろうとしたものの、わずかに手が届かず、ボールを拾えなかった。どだんと、床に膝をつく格好となる。 そばに立っている朋美と、ふと目が合った。すると彼女は、露骨に顔を背けた。もはや、涼子のやることなすことすべてが、許せない思いなのだろう。 涼子は、のそのそと立ち上がる。 「りょーこー! もう見てらんないよっ! スパッツにはき替えてきなよっ!」 セッターの浜野麻理が、悲痛な声で言った。普段のひょうきんなキャラクターが、今では、すっかり影を潜めていた。 ありがとう、まりまり。気遣ってくれて。でも、ごめんね……。 「気にしなーっい、気にしなーっい」 もう、涼子は、どこまでもピエロを演じきるしかなかった。 フロントセンター(中央前)の位置に立ち、二年生側のサーブを待つ。 なんとなく、右手のほうから、嫌な気配を感じたため、そちらに目をやった。 体育館のフロア全体を真ん中で二分する、ネットの向こう。バスケット部の部員、七、八人が固まって、ネット越しにバレー部のゲームを見ている。というより、彼女たちは、涼子ひとりに注目している。涼子のほうを指差している者の姿も、見受けられる。彼女たちの顔には、揃って、人を馬鹿にしているような好奇の色が表れていた。 間違いない。涼子が、陰毛のはみ出た姿で、プレーしていることに、バスケット部の部員たちまで、気づき始めたのだ。 耳を澄ませていると、そちらから、喋る声が聞こえてくる。 「うっそう……?」 「ホントだって。思いっ切り、見えてるから」 「っていうか、あの子、ひとりだけ、なんであんなの、はいてんの……」 自分を軽蔑視する生徒が、どんどん増えていく。ひょっとすると、この出来事は、前代未聞の珍事として、明日には、学校中に噂が広まったりして……。 フロントライト(右前)の位置に立っている朋美も、バスケット部の部員たちの言葉が、耳に入っているらしく、横目で涼子を睨みながら、肩で大きくため息をついた。あんたのせいで、うちらまで、恥をかかされている、と言いたげに。 もはや、涼子は、発狂寸前の状態だった。一瞬でも気を抜くと、自分は、この場にうずくまって、身も世もなく泣きじゃくり始めてしまいそうで怖い。 そんな涼子に対して、またしても明日香が、ダメ出しの声を浴びせてくる。 「りょーちんっ! 声出しっ、声出しぃっ」 彼女ひとり、この状況を愉しんでいるのだ。 「うおぅ……、あおっ……」 憤怒と悲嘆の入り混じったおえつが漏れる。 もうやけくそだった。 んああああっ、とうなりながら、涼子は、声の限りに絶叫した。 「サァッーブウウゥゥゥッ! ミナァーミリョウコに、コイオイオォォォー!」 破壊的なまでの大音声が、体育館中にとどろいた。 キャプテンは、頭がおかしくなったのか、とでもいうふうに、顔をしかめる部員たち。後輩の部員の何人かが、吹き出すのを堪えるような仕草をしているのも、視界の端に映った。 涼子は、Tシャツのすそを股間に押しつけながらも、誰よりも腰を落とし、どっしりと構えた。自分は今、鬼神のように凄絶な形相を見せていることだろう。 まさに、地獄。この世の終焉などという、生易しいものではない。罪なくして、地獄の業火に焼かれ、黒こげになりながらも、狂気の舞を踊らされているのだ。 目尻には、涙が滲み始め、両脚は、他人にもわかるくらい、ぶるぶると震えていた。 二年生側のサーブのボールが、左後方に飛んでくる。 次の瞬間、涼子は、自分のほうにトスを上げてもらうため、レフトポジションに走った。が、サーブレシーブは失敗し、ボールは、左サイドラインの外に出ようとしていた。 「アアアアァァァッ!」 涼子は、雄叫びを上げながら、死にもの狂いでコートの外に身を投げ出し、ボールに左腕を当てた。 しかし、涼子の努力も虚しく、ボールは、さらに向こうへと飛んでいった。ちょうど、フロアの出入り口のほうへ……。 そこに立っている滝沢秋菜が、そのボールを、ばしっと胸もとでキャッチした。 床に這いつくばっている涼子の姿を、秋菜が見下ろす形となる。まるで、下賎の者が、下界でもがき苦しむ様を、高貴な貴族が、高みから眺めているかのように。 秋菜は、凍てついたような目で、涼子のことを見すえていた。 その時、涼子が感じたのは、恐怖、ではなく……、屈辱だった。体中の細胞がうめき声を立てているような、猛烈な屈辱。涼子は、我知らず、類人猿が敵を威嚇するかのように、歯茎をむき出しにし、秋菜の顔を睨み上げていた。胸の内では、暗い怨念が渦巻いている。 滝沢さん、やめて……! そんな目で、わたしを見ないで……。あなただって、もうちょっとしたら、あの吉永香織たちにハメられて、わたしと同じような思いを、させられることになるんだから……! |
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