第二十章〜地獄からの脱出口


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第二十章〜地獄からの脱出口




 いつしか、ラブソングが大嫌いになっていた。だから、自分から聴くことはしないが、たとえば学校からの帰り道、街中を歩いていると、どこからともなく流れてくる。
 あなたに、会いたいだけなのに……。
 もう、絶対に離れることはないよね……。
 二人、永遠に……。
 別れの時が、こんなにつらいなんて……。
 そういったフレーズを耳にするたび、無性にイライラさせられる。たかが恋愛のことで、そんなふうに深く思い悩んでいられたら、どれだけ幸せだろうか。
 このところ、電車に乗っている間は、無意識のうちに人間観察をしていることが多い。その対象は、たいていの場合、自分と同じ女子高生である。スマートフォンをいじっている子。友人のお喋りを聞きながら、面白くもなさそうに相づちを打っている子。座席でウトウトしている子。そんな彼女らを横目で眺めながら、決まって考えるのだ。この子は、今、どんな悩みを抱えているのだろう? 友達関係。勉強。部活。家族のこと。恋。色々とあるかもしれない。しかし、これだけは断言できる。どれも、深刻じゃない。なぜ、それがわかるか。その表情を見れば、一目瞭然である。言葉で言い表せないほどの苦悩を背負っている女の子は、そんな平然とした顔をしていられない。
 彼女らは、心にゆとりを持っている。ただそれだけのことが、どうしようもなく羨ましくて仕方なかった。というより、この感情は、ほとんど妬みに近いような気もする。
 いや、同年代の少女たちだけではない。
 電車を降りたところで、駅構内を見回してみる。
 疲れた表情で歩くサラリーマンも。階段を急ぎ足で降りてくるOL風のお姉さんも。忙しく立ち回る駅員も。
 誰も彼もが、自分とは比べようもないほど、安楽に生きているように思えてならない。
 なんで、わたしばっかり、こんなに苦しまないといけないの……!?
 南涼子は、もう数え切れないくらい、心の中でそう叫んでいた。
 無間地獄。
 一時たりとも、安息の時は訪れない。一日、二十四時間、地獄の苦しみに耐え続ける。誇張ではなく、それが涼子の生活だった。
 あの、バレー部の練習場における、思い出すのも忌まわしい体験から、三度目の夜。
 涼子は、部屋の電気を消すと、倒れ込むようにベッドに横たわり、布団をかぶった。
 それから、一時間、二時間と、時間が過ぎていく。意識は、相変わらず覚醒したままだ。前夜も、また、その前の夜も、こうだった。泥沼に沈み込んでいるかのように、心身ともに疲れ果てているというのに、睡眠らしい睡眠を取ることができないのだ。ようやく、浅い眠りにつけたとしても、十分と経たないうちに、びくりと飛び起きてしまう。極度のストレスのせいで、自律神経が、がたがたになっているのは間違いない。だが、眠れぬ理由として、それ以上に大きいのは、明日への恐怖だった。震えて眠る、という言葉があるが、涼子の場合は、もっと悲惨である。一晩中、震えながら丸まっている。そういう状態なのだ。
 しかし、それでも、布団の中にいられる間は、比較的、平穏な時間だといえた。
 やがて、窓の外が白み始め、朝が来る。そして、とうとう、目覚まし時計の音が鳴った。
 その瞬間から、自分自身との過酷な戦いが始まる。
 すぐに体を起こすことは、不可能に等しい。布団のぬくもりに包まれている限りは、いつまでも現実逃避を続けてしまうのだ。だから、涼子は、寝たまま、ベッドから床に転がり落ちた。それが、起床の第一歩である。しかし、そうすると今度は、カーペットの床が、この世の何より恋しくてたまらなくなる。とてもじゃないが、身を引き離せそうにない。そういう時は、まず、おしりから持ち上げることを、涼子は学んでいた。もぞもぞと下半身を動かし、おしりを上に突き出す。イモムシのような格好になるわけである。しばらく、その無様な態勢を維持していると、徐々に足腰が痛くなってくる。もう痛くて無理だ、と感じたら、二つに一つだ。上体を起こすか、それとも、腰を床に落とすか。後戻りはしない。思い切って両腕を突っ張る。それから、雄叫びを発するくらい気力を振り絞り、勢いをつけて立ち上がる。そのようにして、涼子の一日は始まるのだった。
 登校途中、ふと、これまでの高校生活の記憶がよみがえる。
 南せんぱーいっ!
 思えば、毎日毎日、後輩たちから黄色い声援を浴びてきた。
 学校内において、自分は、それなりに有名な人間である。うぬぼれるわけではないが、そのことは、前々から自覚していた。もしかしたら、バレー部のキャプテン、南涼子を知らない生徒のほうが、むしろ少数派であるのかもしれない。普通であれば、名誉な話である。しかし、現在に至っては、そのネームバリューが完全に裏目に出ていた。
 衝撃のニュース。なんと、あ・の・南涼子が、体育館のバレーコート上という、不特定多数の生徒が見ている場で、『吐き気がするような』痴態を演じた。南涼子は、変態的な性癖を持っている。その情報は、またたく間に、学校中を駆け巡ったのである。
 学校の最寄り駅に降り立ってから間もなく、涼子は、その暗澹たる現実を突きつけられることとなる。
 駅構内に散見される、自分と同じ制服を着た生徒たち。なかでも、数人で連れ立って歩く後輩グループは、涼子の姿を目にしたとたん、露骨な反応を示した。おのおのが、互いに顔を寄せ合い、こちらを見ながら、何事かささやき交わし始める。嫌なのは、彼女たちの眼差しだった。涼子のことを、好奇と侮蔑の入り混じった目で見ている。そのことが、一発でわかるのだ。
 わたし、人にどう思われても気にしないから。涼子は、かねてから、周りの友人たちにそう豪語してきた。しかし、そんなのは、物事がうまくいっている間だけの、ただの強がりでしかなかった。今では、後輩たちから白い目を向けられることに、ひどく敏感になっている自分がいる。
 バスの中は、当然ながら、同校の生徒たちがひしめき合っている状態だ。そのため、涼子は、早くも、息の詰まるような思いがしていた。
 右から左から、おのずと聞こえてくる、ひそひそ声。
「あ、いたいた。噂の変態さんが……。なんか、しれっとした顔で登校してきてるのが、ウケる」
「部員の子が言ってたんだけど、もう、見てるほうが恥ずかしくてたまらなかったって」
「え? え? 具体的に、どんな格好だったの? 下は、きわどい水着みたいな?」
「今までずっと、部活一辺倒の生活を続けてきたせいで、案外、色々と欲求不満が溜まってたんじゃないの? それが、一気に爆発しちゃった、とか」
「でもさ……、羞恥プレイっていっても、学校内だから、女子しか見てないわけじゃん? 女子しか見てないのに、興奮とかできるものなの?」
 それらの言葉が、涼子のことを指しているのは、もはや疑う余地もなかった。
 涼子は、歯を食いしばるようにして、つり革につかまっていた。
 その時である。
「うそぉ。その動画、実際に見た子いるの?」
「隣のクラスの子が見たって。めっちゃ汚くて、本当に、オエってなったって」
 耳に飛び込んできた言葉を、頭の中で反復する。
 次の瞬間、心臓の凍りつくような感覚を覚えた。
 動画……?
 まさか、あの日、バレーコート上で起きていた出来事を、体育館にいた生徒の誰かが、なんらかの形で撮影していたとでもいうのか。そして、撮影者は、その動画を、ほかの生徒たちにも見せて回っている……。もしも、それが真実だとしたら、この先、どのような事態が起こるだろうか。
 涼子の脳裏に、暗黒の情景が浮かんだ。
 学校内を、涼子は移動する。教室、廊下、食堂、トイレ……。どうも妙だと感じる。涼子の持っていない携帯電話やスマートフォンを、これ見よがしに手にしている生徒の姿が、やたら目に留まるのだ。なにやら、生徒たちの間で、ある動画が大流行しているらしい。そう。彼女たちの手にある携帯端末の液晶画面には、涼子の体の汚いものが映し出されている……。
 涼子は、その場に崩れ落ちそうになった。身を支える脚が震える。
 いや、そんなの、絶対にいや……。そんなことになったら、わたし、耐えられない……。
 おそらく、現状としては、ほぼ全校生徒が所持しているのであろう、携帯電話やスマートフォンが、今や、涼子の人生をめちゃくちゃにする凶器に思えてならなかった。
 だが、あくまでも単なる想像でしかない。もう少し、冷静になってみよう。自分は、悪いほうに物事を考えすぎではないだろうか? なにも、どこからか聞こえてきた、『めっちゃ汚い』という言葉が、涼子の姿を指していたとは限らないのだ。そうだ。同校の生徒たちの声を、すべて自分の悪口だと捉えるのは、被害妄想以外の何物でもない。たぶん、その言葉を発した生徒も、涼子とは関係のない、何か別の話をしていたのだろう。そうに決まっている。だから、だいじょうぶ。自分の動画など、撮られているはずがない。だいじょうぶ。
 涼子は、必死の思いで、自分自身にそう言い聞かせた。
 しかし……、もしも、自分の痴態を撮影した動画が存在していて、最悪の未来が到来したとしたら……。
 答えは、すぐに出る。
 もう我慢できない。そんな学校、辞めてやる。
 校門の前で、涼子は、ひとり足を止める。
 涼子の目には、校舎が、まるで監獄のように映っていた。一度、校門の中に入ったら、出てくるのは、十年先か、二十年先か……、と錯覚を覚えるほどに、果てしなく長い、拷問のような時間が始まるのだ。もしかすると、もう、まともな体では出てこられないのではないか。そんな不吉な予感さえ、頭の片隅をよぎる。
 できるなら、逃げ出したい。だが、バレー部の合宿費を奪われている自分には、それが許されないのだ。
 たっぷり三十秒ほど、その場で立ち止まっていた後、涼子は、ゆっくりと歩き出し、校門を通った。
 南涼子、監獄に収監。
 そして、あの竹内明日香が、部活の練習後、涼子を引き留めてきたのは、その日のことだった。

 教室に足を踏み入れると、涼子は、窒息しそうな圧迫感を覚えた。
 クラスメイトたちの視線が、次々と涼子に集まってくる。それと同時に、聞こえていた喧騒が、にわかに静まっていく。涼子の登場によって、教室内の空気が、明らかに変わったのだ。
 涼子は、誰とも目を合わせないようにして、しかし暗すぎる表情には見えないよう、ごくかすかな微笑を口もとに滲ませ、自分の席に向かった。
 席に着くと、顔の片側を隠したい心理も働いて、頬杖をついた。まるで、教室内で、自分ひとり、半裸をさらしているような、身の置き場のない思いに耐えながら、始業時間を待つ。
 例の噂が広まってから、涼子の周囲にいたクラスメイトたちは、潮が引くように離れていった。今まで、涼子が友達だと思っていた生徒たちの大半が、本当の友達ではなかったということだ。なんと、そのなかには、高校生活で最高に愉快な出来事とばかりに、嬉々として涼子の陰口を叩いている生徒たちもいるらしい。それを知ってからは、もはや、周りが敵だらけのような気さえして、クラスメイトたちに自分から話しかけることが、怖くてできなくなった。そのため、休み時間や移動教室の時には、しばしば孤立状態におちいってしまう。
 けれども、何人かの心優しい生徒は、涼子を見捨てておらず、以前のように声をかけてきてくれたり、一緒に行動しようと誘ってきてくれたりする。そんな時、涼子は、表情筋を最大限に使って、とびっきりの笑顔で応えるのだ。たとえ、その笑顔が、ほかの生徒たちから見れば、どれだけ滑稽なものであっても……。
 授業中は、別の形で苦しまされた。
 この何日間は、まったくといっていいほど睡眠が取れていないため、常に頭の芯が朦朧としている状態で、机に向かっているのだ。当然ながら、授業の内容は、何一つとして理解できないし、黒板を写したノートに書いてあることを見直しても、意味のない文字の羅列にしか思えない。そのため、涼子は、教師に当てられないよう、ひたすら祈り続けるしかなかった。
 しかも、やっかいなことに、不定期的に、脳が睡眠を求めてくるのだ。そうなると、もう、一瞬でも気を抜いたら、意識が、深い谷底に転がり落ちていきそうな感覚が続く。実際、前日の古文の授業中、涼子は、知らぬ間に眠り込んでいた。一度だけではない。二度も、居眠りをしてしまったのである。そのせいで、古文の教師を激怒させることとなり、今まで築き上げてきた信頼関係は、完全に崩れ去ってしまった。ほかの教科で、同じことを繰り返すわけにはいかない。そう強く思っている。
 だが、居眠りが許されない理由は、もう一つあった。
 自律神経の狂いが原因であろう、腸内環境が、著しく悪化しているためだ。ちょっと前までは、下痢に悩まされていたのだが、それが治まったと思ったら、今度は、ひどい便秘が待っていた。もう、かれこれ、一週間は、まともに便が出ていない。こんなのは、生まれて初めての経験だった。そして、便秘で何より苦しいのは、大量にガスが溜まることである。授業中は、席を離れられないので、お腹がぱんぱんに張ってしまう。そんな状態で、もし、眠りに落ちたら、制御不能となったガスが、一気に噴出しそうで怖かった。授業中に、大きな音のオナラを放ち、その、おそらくは公害レベルであろう悪臭を、辺り一帯に漂わせる……。それは、もはや、教室から逃げ出したくなるほどの大失態である。これ以上、恥をかくのだけは、絶対にごめんだ。
 そういった事情があるため、涼子は、猛烈な眠気が襲ってくるたびに、青あざになるくらい、腕や肩、太ももなどの肉をつねり、自分の体に痛みを与え続けることで、遠のく意識を懸命につなぎ止めていた。
 要するに、涼子にとっては、授業もまた、大変な苦行なのである。
 自分の体は、壊れ始めている。昼食時に、そのことを、はっきりと認識させられた。
 午後一時少し前、教室に残っているのは、クラスメイトの半分ほどだった。
 涼子は、自分の席で、バレー部の仲間、二人と一緒に食事を取っていた。お互いに話しやすいように、涼子は、右を向いて座っている。涼子の正面、つまり右隣の席には、同じクラスの柏木里美が座っており、二人が向き合っている形である。また、涼子の右側、つまり後ろの席には、別のクラスの浜野麻理が着席していた。浜野麻理は、友達の少なくなった涼子を心配して、わざわざやって来てくれたのだ。
 涼子の手には、学校の売店で買った、コロッケパンが握られていた。正直、食欲なんて、まったく湧いていなかった。それでも、とにかく栄養を取らねば、一日を乗り切れない。そういう気持ちで、涼子は、パンにかぶりつく。
 柏木里美と浜野麻理の二人は、涼子が、バレーコート上で痴態を演じたことなど、すっかり忘れたかのように、屈託なく振る舞ってくれた。それが嬉しくて、涼子も、周りの目など気にせず、手を叩いて大声で笑ったり、イエーイ、というかけ声と共に、二人とハイタッチを交わしたりしていた。
 そんな最中のことである。
 涼子の左側、つまり前の席に、ある生徒が腰を下ろした。それは、滝沢秋菜だった。
 思いがけぬことに、涼子は、どきりとした。
 秋菜は、その右隣の席のクラスメイトと話すために、そこに座ったらしかった。そのため、秋菜も、涼子と同じ方向を向いている。涼子と秋菜の距離は、わずか一メートル程度しかない。
 あの、バレー部の練習場での一件があって以来、涼子にとって、滝沢秋菜は、魔物みたいに怖ろしい存在だった。それゆえ、涼子は、秋菜のことを徹底して避けていたのである。そればかりか、絶対に目を合わせたくないので、彼女のいるほうには、極力、顔を向けないように意識していたほどだ。また、秋菜のほうも、涼子に対しては、間違いなく不快な感情を抱いているはずだった。その秋菜が、すぐそばにいる……。
 秋菜は、その右隣の席のクラスメイトと、たわいないお喋りをしている。一見、涼子には、まったく関心のない様子だ。だが、それは、ポーズのような気もする。ひょっとすると、涼子への当てつけの意味を込めて、そこに座っているのではないか。そんな疑念が、頭をもたげる。
 涼子は、恐怖に硬直していた。秋菜のその、しっとりとした話し声を聞いているだけで、動悸が速まってくる。
 滝沢さん……。いくらなんでも、わたしとの距離が、近すぎるでしょっ……。もしかして、わたしに、何か言いたいことでもあるの……?
 柏木里美も浜野麻理も、涼子の異変に気づいたらしい。
「おーい、りょーこー。どうしたのっ? 急に黙っちゃってさあ」
 浜野麻理が、涼子の肩を揺すってくる。
 涼子は、明るい自分に戻ろうと努めた。しかし、それは無理だった。笑顔ひとつ作れない。
「うっ、うん……」
 それだけ口にするのが、精一杯だった。目の前の光景が、二重にぶれて見える。
 柏木里美と浜野麻理の二人は、いよいよ怪訝そうに顔を見合わせる。
「ちょっと、涼子、本当にどうしちゃったの!?」
 今度は、柏木里美が、真剣な口調で尋ねてきた。
 涼子は、内心で絶叫していた。やめて……! 横にいる滝沢さんの注意を引くようなことは、やめて……!
 だが、もう駄目だった。滝沢秋菜と、その話し相手であるクラスメイトも、涼子たちから、ただならぬ空気を感じ取ったらしく、二人の顔が、こちらに向けられた。
 秋菜の視線が、自分に注がれているのを感じる。
 恐怖は、たちまち頂点に達した。
 パンを持つ右手が、かたかたと震え始めた。
 バレー部の仲間、二人も、また、秋菜たちも、涼子の震える右手を凝視する。
「涼子……」
 柏木里美が、呆然とつぶやく。
 手の震えは、激しくなる一方だった。パンを取り落としてしまいそうである。
「だいじょうぶ!? 落ち着いてっ! どうしたの!?」
 浜野麻理が、身を乗り出し、涼子の右手を、がっちりと握り締めた。これ以上、涼子を見世物にしたくない、というように。
 涼子は、はあっ、はあっ、と荒い息を吐き出した。とにかく、呼吸を整えようと思った。バレーの試合で、サーブを打つ前のように、ゆっくりと深呼吸をする。それを何度も繰り返す。そして、浜野麻理の手のぬくもりを意識した。今は、かけがえのない友達である浜野麻理が、自分を守ってくれている。その安心感もあって、だんだん、気持ちが落ち着いてきた。
 柏木里美と浜野麻理は、涼子の身を案じる言葉をかけ続けてくれた。
 しかし、そんな彼女たちとは真逆に、滝沢秋菜は、いつものあの、冷ややかな眼差しで、じっと涼子のことを見すえていた。きっと、涼子に対して、こう思っているに違いない。こんなふうにはなりたくない……、と。
 その時、涼子は、恐怖に震えるのではなく、言いようのない屈辱感を噛み締めていた。
 やがて、その昼休みが終わり、次の授業が始まった。
 授業の間、涼子の胸の内では、滝沢秋菜に対する呪詛の念が、延々と渦巻いていた。
 滝沢さん……。あなた、わたしのことを、心の底から軽蔑してるんでしょう? わかってる。ちゃんと、わかってる。南涼子は、変態? うん、そう思われても仕方がないよねえ。なんていったって、自分の裸の写真を、あなたの保健の教科書に貼りつけて返したり、犯罪的に恥ずかしい格好で、部活の練習に出たりしたんだもん。でも……、滝沢さん。すべては、この学校にいる悪魔たちが、わたしにやらせたことなの……! 普通の高校生活を送っている、あなたには、とても信じられないでしょうけど。わたしと違って、あなたは、気楽な身分で、いいよねえ。本当に羨ましい。だけどね……、そうやって、のうのうとしていられるのも、今のうちだからね。あの悪魔たちの、次のターゲットは、滝沢さん、あなたなんだよ? 確実に、あなたも、地獄に引きずり込まれるでしょうね。そうなったら、どうなるか? 決まってんじゃない。わたしの裸の写真、あなた、見たでしょ? あれが、近い将来の、あなたの姿なの……! プライドの高そうな、あなたに、耐えられる? もしかしたら、それだけじゃなく、わたしみたいに、大勢の生徒が見てる前で、恥をさらすことになるかもね。そういう目に遭えば、わたしの気持ちも理解できるでしょうよ。早く、一刻も早く、あなたも、わたしのところまで堕ちてきなさいよ……! もうこれ以上、あなたに上から見下されてると、わたし、本当に壊れちゃいそうなの……。
 休み時間は、人間関係で神経がすり減り、授業中は、体の様々な不調と戦い続け、また、しばしば、ショックに打ちのめされるような出来事が起こる。そうして、身も心もボロボロになりながら、涼子は、ようやく終業時間を迎えた。
 しかし……、本当の地獄は、むしろ、これからだった。
 帰りのホームルームが終わった後、涼子は、トイレの個室の壁に寄りかかり、ぐったりとしていた。
 部活の練習が、そろそろ始まる頃だ。だが、体育館に向かう気になれない。
 バレー部の部員たちの目には、まだ、生々しく焼きついているに違いない。涼子のあの、浅ましい姿が。涼子の体の汚いものが。ある意味、この学校内で、涼子のことを、もっとも軽蔑しているのが、ほかならぬ部員たちであろう。その部員たちと、顔を合わせることを考えるだけで、足がすくんでしまう。しかも、である。先ほどまでは、自分の席で、頬杖をつきながら、じっと苦痛に耐え続ける、という受け身の姿勢が許されていた。だが、これからは違う。自分自身が、恥ずべき存在であることを承知のうえで、キャプテンとして、率先的に行動していく必要があるのだ。自らのプレーで手本を示し、部員たちに大声で指示を出し、時には、後輩たちに活を入れ、そうしてバレー部全体を引っ張っていく……。考えれば考えるほど、絶望感で、気が遠くなってくる。
 しかし、いつまでも、こうしてトイレに閉じこもっているわけにはいかない。
 行くしかないのだ。
 涼子は、なまりのように重たい体にむち打ち、個室のドアを開けた。
 その後は、立ち止まることなく、体育館へと歩いていった。
 部室に入ると、涼子は、制服を脱いで、白いTシャツと黒のスパッツに着替えた。壁に備え付けられた縦長の鏡に、練習着姿の自分を映してみる。制服を着ている時とは違い、上半身、下半身ともに、筋肉の盛り上がりが、顕著に現れている。これまで、厳しい練習を重ねてきた、そのたまものだ。心なしか、自分が、頼もしい存在に見えてくる。それと同時に、徐々に覚悟が芽生えてきた。
 涼子は、気持ちを奮い立たせるつもりで、両手で、体中をばちんばちんと叩いていった。ほっぺたから始まり、肩、腕、脇腹、背中、おしり、太もも、すね、と。それを終えると、おしっ、と声に出した。
 もう、よけいなことは考えない。わたしは、自分のやるべきことを、やり通すだけだ。
「しゅーうぅぅごーうぅ!」
 体育館フロアに入るなり、涼子は、腹の底から声を張り上げた。
 三十人を超える部員たちが、こちらに集まってくる。だが、以前に比べて、一人ひとりが、なんとなく、とろとろと動いているように見えてならなかった。しょうがないから、行ってやるか。部員たち全体から、そんな空気が伝わってくるのは、気のせいではあるまい。
 涼子は、初っぱなから、気勢をそがれる思いがした。
 心の準備は、できていたはずだ。しかし、目の前に集合した、部員たちの顔を見渡すと、どうしても気後れしてしまう。そんな自分を、心の中で叱りつけ、ミーティングを始めた。むろん、中心的に話すのは涼子だが、ほかの部員たちに発言させることも大事だ。だから、試しに、何人かの部員に、話を振ってみた。けれども、彼女たちの反応は、極めて鈍いものだった。
「まあ、メニューは、昨日と一緒でいいんじゃない?」
「とくに、ありません」
「まだ、そういうことは、わからないので」
 こんなのは、ミーティングとは呼べない。
 涼子は、ため息をつきたくなったが、ここは、キャプテンである自分が、どうにか空気を変えなくては、と前向きに考え直した。まず笑顔だ。今のバレー部には、笑顔が、決定的に足りていない。直感的に、そう感じた。なんでもいい。部員たちの笑いを誘うようなセリフを、口にしてみよう。
「あと……、一年生、とにかく声出し。今日の練習で、全然、声が出てなかったら、一年生、全員、罰ゲーム。そうだねえ、何をやってもらおうかなあ……」
 あごに手を当て、つかの間、考えを巡らした。
「いいこと思いついた。校舎の屋上から、一人ずつ、初恋の人の名前、大声で叫んでもらう」
 涼子は、不敵な笑みを浮かべてみせた。渾身のジョークだった。
 しかし、期待外れなことに、笑いは起こらなかった。それどころか、部員たちの間には、寒風が吹いたような雰囲気さえ漂っている。以前ならば、こういう時、誰かしらから、突っ込みが入ったものなのに。
「……っていうのは、もちろん、冗談なんだけどさ、それくらい、気合い入れてねってこと」
 涼子は、ひどく決まりの悪い思いに耐えながら、ふたたび喋り始めた。
 だんだん、頭の中で、ネガティブな思考が膨らんでくる。
 結局、みんなが言いたいのは、こういうことか。南涼子は、キャプテン失格。それも当然かもしれない。わたしは、恥ずべき存在なのだ。部員全員の前で、あれほど恥ずかしい姿をさらした女が、いったい、どのツラ下げて、リーダーとして振る舞っているのか。自分で自分の顔を見てみたい。さぞかし、馬鹿みたいな顔をしているんだろう。
 そんなことを考えながら、口を動かし続ける。それは、まさに拷問のような苦痛を伴うことだった。
 バレー部の練習は、校外でのランニングから始まる。それを走り終えて、体育館に戻ってくると、涼子は、自分の身の異変に、戸惑いを覚えた。軽く体を動かしただけなのに、早くも、全身に、ぐっしょりと汗をかいていたのである。健康だった頃ならば、あり得なかったことだ。おそらくは、これも、自律神経の狂いが根本的な原因で、汗を分泌する汗腺の働きが、異常に活発化している状態なのだろう。しかも、噴き出した汗は、爽快感とは、ほど遠い、べたべたとしたもので、臭いも、強いような気がする。
 涼子は、自分の体の不健康な要素を、また一つ、知ってしまったことで、やるせない気持ちになった。天に向かって叫びたい。お願い……! わたしの元の体を、返して……!
 練習が始まってから、二時間ほど過ぎた頃のことである。
 スパイクの練習中に、とうとう、涼子は、仲間と深刻な揉め事を起こしてしまった。
 肉体的にも、疲労は、極限に達していた。この何日間は、まともな休息を取れていないのだから、当たり前のことである。一歩、脚を動かすごとに、体中の骨の、みしみしとした音が、聞こえてきそうな気がした。
 スパイクの順番待ちの列に並ぶと、間もなく、自分の番が回ってきた。
 トスが上がる。
 涼子は、助走をつけ、持てる力を総動員してジャンプし、ボールを叩き込んだ。
 しかし、そのボールは、相手コートのエンドラインの外に飛んでいった。
「ああ、くっそぉ!」
 つい、そう言葉を漏らした。先ほどから、スパイクが、ろくに決まらないのだ。
 涼子は、コートの外に出ると、両手を膝についた。はあああっ、と焼けるように熱い息を吐き出す。今や、涼子の体は、滝を浴びたかのように、汗で濡れそぼっていた。顔や髪の毛はもちろん、Tシャツやスパッツからも、汗のしずくがしたたり落ちる。恐ろしいくらいに汗が出るせいで、体力をよけいに消耗している感じだった。それと、はっきりとわかったことがある。この大量の汗が、ひどい臭いを発しているのだ。その臭さといったら、まるで、自分だけ、ドブの水か何かで水分補給をしているのではないかと思うほどである。この原因については、おおよそ見当がつく。今でも、お腹に意識を向ければ、大腸の下のほうに、ずっしりと便の詰まっている感覚がある。おそらくは、溜まりに溜まった便が、かなり腐敗してきており、それによって発生した有害物質が血液に溶け込んで全身に回り、毛穴から汗として排出されている状態なのだろう。想像するだけで、気が滅入ってくる。自分の体が、どんどん汚いものに変わっていくという感覚は、思春期の女の子にとって、泣きたいくらい悲しいものだった。
 涼子は、うめき声を漏らしながら立ち上がる。ともかく、自分で、自分の汗臭さに閉口してしまうのだから、周りの部員たちには、さぞかし不快感を与えているに違いない。その根本的な原因であろうものを、どうにかしたいと、痛切に感じる。つと、へその下に触れた。常に便意だけはあるのだ。だから、学校のトイレで踏ん張ることも、再三だったが、毎回、小動物のそれのようなものしか出てこない。しかし、今度こそ、という思いで、フロアの出入り口に向かう。出入り口を出てから、館内通路の途中で、冷水機の水を、これでもかというほど、がぶ飲みし、それから、トイレへと歩いて行った。
 十数分後、涼子は、トイレから出た。案の定、結果は、貴重な体力を馬鹿みたいに削っただけだった。そのせいで、全身の脱力感が半端ではなく、真っ直ぐに歩くことすら難しい。しかし、練習は、まだまだ終わらないことを思うと、恐怖にも似た感情に襲われ、ぐらぐらと目まいがした。ひょっとすると、自分は、練習中に血を吐いて倒れるかもしれないな……。本気で、そんなふうに思い始めた。
 フロアに戻ると、涼子は、両手を腰に当て、しばし、部員たちの様子を眺めていた。とにかく苛立たしい気分だった。自分の体の問題に悩まされているせいもある。しかし、それだけではない。練習が始まってから、ずっと思っていたのだが、声出しをしない部員が、多すぎるのだ。とくに問題なのは、やはり、ボール拾いをしている一年生たちである。今日の彼女たちは、まるで、入部当初の頃に逆戻りしてしまったように活気がない。おのおのが、ただ黙々と動いている、という感じなのだ。バレーにおいて、声出しは、基本中の基本だ。そのことを徹底的に教え込むのは、キャプテンである自分の役目だろう。
 涼子は、両手を強く叩いた。
「ちょっと一年生! 全員、集まって!」
 厳しい声で叫ぶ。
 一年生たちが、こちらにやって来る。
 十数人の部員が、涼子の前に集合した。
「あのさあ、あんたらのなかで、自分は、しっかりと声出ししてますって、自信を持って言える人、手、挙げてみて」
 涼子は、威圧的な口調で言う。
 十秒近く待った。
 誰も手を挙げない。
「そっか……。わたし、今日のミーティングでも、言っておいたよね? 声を出せって。なのに、なんなの? 自分たちは、黙ってボール拾いしていれば、それでいいと思ってんの?」
 涼子は、一人ひとりに、鋭い視線を送っていく。
 一年生たちは、そのほとんどが下を向いている。
「……あんたらさ、やる気ある?」
 涼子は、立て続けに問いかけた。
 だが、返事をする者はいなかった。
 その無反応ぶりに、涼子は、頭に血が昇るのを感じた。
「聞いてるんだから、返事くらいしなさいよっ!」
 つい、大声で怒鳴ってしまった。
 だが、それでも、一年生たちは、まるで示し合わせたかのように、口をつぐんでいる。
 反抗のつもりか……? 涼子は、一年生たちの態度に、怒りを通り越し、驚きの念すら覚えた。
「もういいっ……。一年、全員、校庭の横で、ダッシュ往復三十本。今すぐ行って」
 投げやりに命じ、フロアの出入り口のほうを、親指で指した。
 しかし、一年生たちは、誰一人として動こうとせず、どうしようかと迷うように、互いに視線を交わし合っている。なかには、ふて腐れたような顔をしている部員も、何人か見受けられる。
「早く行けぇぇぇぇぇぇ!」
 涼子は、雷のような怒号を発した。
 それにより、一年生たちは、ようやく、しぶしぶとフロアの出入り口へと歩き始めた。
 そんな彼女たちの背中に、涼子は、言葉を投げつける。
「あと、しっかりと声出しする気になれないんだったら、もう戻ってこなくていいから」
 一年生たちは、無言でフロアの出入り口から出て行く。
 涼子は、深いため息をついた。
「南先輩、やりすぎですよお」
 背後から、いきなり聞こえた。
 振り向くと、二年生の部員、沼木京香が立っていた。
「なに? わたし、何か、間違ったことしてる?」
 涼子は、強い語気で尋ねる。
 京香は、言いにくそうに唇を噛み、それから答えた。
「今、南先輩が、一年生たちに厳しく当たるのは、逆効果にしかならないと思うんですよ」
 意味がわからなかった。
「何が言いたいわけ……? わたしには、キャプテンとしての責任があるの。今日は、一年生たちから、ちっとも、やる気が伝わってこなかった。だから怒った。当たり前のことでしょっ? だいいち、なんで、二年のあんたが、わたしの指導のことに、口を出してくんのよっ。すんごい腹立たしいんだけど」
 涼子は、興奮してまくし立てた。
 すると、京香は、呆れたような顔をした。
「南先輩……。自分の立場、わかってないんですか?」
 その言葉に、一瞬、涼子は、唖然とした。
 しかし、その直後、京香に詰め寄った。
「どういう意味よ?」
 自分より、五、六センチ背の低い京香の顔を、にらみつける。
 京香は、やや身を引くような素振りを見せた。こちらの気迫に怯んだのだろう、と最初は思った。が、京香のその、苦々しげな表情を見て、ぴんときた。もしかしたら、京香は、涼子の強烈な体臭に不快感を抱き、つい後ずさりしそうになったのかもしれない。
 涼子は、羞恥を感じたが、それでも、京香の顔を、にらみ続けた。
 だが、気の強い二年生の部員は、鼻に微妙なしわを寄せながらも、涼子の目を、じっと見返してくる。
 その時、横から聞こえた。
「もう、みんな、あんたには、付いていきたくないってことよ。涼子」
 副キャプテンの高塚朋美の声だった。そちらを見やると、朋美は、片手を腰に当て、いかにも傲然と立っている。
 涼子は、おもむろに京香から離れ、朋美のほうに歩いていった。そして、朋美のすぐ前に立ち、両腕を組んだ。今にも、互いに胸ぐらをつかみ合わんばかりの距離である。朋美は、百七十センチを超える長身であるが、迫力では、涼子も、まったく引けを取らないはずだった。
 涼子が口を開こうとした、その直前に、朋美は、京香とは違って、あからさまな反応を示した。鼻をつまみ、顔を横にそらしたのだ。涼子のことを横目で見る、その侮蔑的な眼差しが、はっきりと語っている。あんた、くさい……。
 涼子は、激しい屈辱感に、体が熱くなるのを感じた。しかし、一歩たりとも後ろに引こうとは思わなかった。努めて冷静な声で問う。
「それだったら、みんな、誰になら、付いていくっていうの? 朋美」
 やや間が空いた。
 朋美は、実に嫌そうに鼻から指を離すと、涼子の顔を真っ直ぐに見て答えた。
「わたしが、キャプテンを務める。最後の大会までは、わたしが、みんなを引っ張っていく」
 どうやら、本気で言っているようだ。
 涼子は、ごくりと生唾を飲み込む。かつてない窮地に立たされていた。
 これ以上、自分がキャプテンを続けるのは、バレー部にとってよくない。そんなことは、充分に理解している。だが、ここで、朋美にキャプテンを交代したら、どうなるか。まず間違いなく、涼子が、バレー部の合宿費を『紛失』したということが、白日のもとにさらされるだろう。その事態だけは、何がなんでも防ぎたかった。それゆえ、涼子は、合宿費を全額、取り戻すまでは、どんなに苦しくとも、キャプテンの座を譲るわけにはいかないのだった。一言でいえば、自己保身である。
 涼子は、後ろめたい思いもあって、朋美から視線を外し、そして口にした。
「言っておくけど、わたしは、キャプテンを辞めるつもりはないから……」
 すると、朋美は、はんっ、と笑った。
「勘弁してくんない? 涼子、あんた、自分が何やったか、もしかして憶えてないの? ……この前のゲームの時、信じられない格好でプレーしてたよね? わたし、目を疑ったもん。え? 何事って……。あの時のあんた、完全に変質者だったから。いい? ちゃんと自覚して。あんたは、部員全員に、とんでもない迷惑をかけたの。それでいて、キャプテンを辞めるつもりはない? 笑わせないで。どこまで厚顔無恥なの?」
 涼子は、床の一点を見つめていた。朋美の言うことは、もっともかもしれない。だが、その、過剰なまでの攻撃的な口調には、腹が立ってならなかった。
 朋美は、涼子の顔を、のぞき込むようにしてきた。
「一年生たちが、声出ししなくなったのは、誰のせい? 二年も三年も、ぐだぐだな感じがするのは、誰のせい? 涼子、ぜーんぶ、あんたのせいよ? その当たり前のことを、あんたひとりだけ、わかってないっていう状況なの。あんたみたいな人間を、裸の王様って言うんだろうねえ……。いい? これだけは断言できる。あんたが、キャプテンでいる限り、元のバレー部に戻ることはないの。わたし、こーんな状態で、最後の大会に臨むなんて、耐えられないなあ。だって、絶対に悔いが残っちゃうもん。今まで、色んなことを犠牲にして頑張ってきたのは、なんだったんだろうってね」
 もはや、その物言いからは、悪意すら感じ取れた。
 涼子は、朋美に対し、強い敵対心を持った。
「嬉しいんでしょ、朋美……」
 ぼそりと言う。
「はっ?」
 朋美は、聞き返してくる。
 涼子は、朋美の顔に、視線を戻した。
「嬉しいんでしょ、本当は……。あんたさ、一年前、自分がキャプテンに選ばれなかったことに、すごい不満を持ってたらしいじゃん。だから、今になって、わたしが、部員たちの人望を失ったことが、嬉しくてしょうがないんでしょ? なんていったって、キャプテンになれるチャンスだもんねえ?」
 どんどん口調が熱を帯びていくのを、自制できなかった。
 朋美の顔には、驚愕の表情が浮かんでいる。
「なに言ってんの……? あんた、心が歪んでる……」
「念のために、もう一度、言うけど、わたしは、キャプテンを辞めるつもりはない。だって、次にキャプテンになるのが、あんたみたいな身勝手な人間じゃあ、辞めるに辞められないから」
 涼子は、そう言い残して、その場を去ろうとした。
 が、次の瞬間、左頬に、衝撃が走った。
 朋美の右手が挙がっている。ビンタを喰らったのだと気づく。
 驚かされたが、すぐに、燃えるような闘争心が湧き上がってきた。
 涼子は、右手を振り上げると、手加減なしに、朋美の頬を平手で打ちつけた。朋美のビンタの、二倍、いや三、四倍の威力だったはずだ。
 かなり効いたらしく、朋美は、痛そうに左頬を押さえた。
 涼子は、つんっと、あごを反らした。取っ組み合いの喧嘩なら、受けて立つ。そういう覚悟だった。
 そこで、涼子と朋美のやり取りを見ていた沼木京香が、二人の間に割って入った。
「二人とも、やめてくださいよっ!」
 京香は、両手を突っ張り、涼子と朋美を離れさせる。それから、朋美の側に付いた。向こうに行きましょう、というように朋美の体に腕を回しながら、涼子のことを、非難がましい目で見てくる。
 朋美は、目じりをつり上げていた。
「あんたには、絶対、キャプテンを降りてもらうからっ! この、バレー部の恥さらしっ!」
 がなり声で捨てゼリフを吐き、京香と共に、向こうに歩いていく。
 気づけば、二、三年生の部員、全員が、かたずを飲むようにして、涼子たちの成りゆきを注視していた。
 涼子は、スパイクの順番待ちの列に並ぶ気力もなく、その場で天井を仰いだ。照明がまぶしく、ぎゅっと目を閉じる。もはや、精神的にも肉体的にも、壊れる寸前だという気がする。人間って、壊れたら、どんなふうになるんだろう……? そんな疑問が、ぼんやりと脳裏に生じた。
 部活の練習は、永遠に終わらないかのように思われたが、どうやら、時間は、ちゃんと流れていたらしい。
 午後七時過ぎ、涼子は、自分の前に集合した部員たちに、練習の終了を宣した。
 最初に部室を使用できる三年生の部員たちが、三々五々、フロアを出て行く。
 だが、涼子は、彼女たちの後に続くことはせず、ひとり、壁にもたれかかっていた。これ以上、人と行動を共にするだけの余力は残っていなかったのだ。やむなく、壁に右腕を当て、そこに額をのせた。すさまじい疲労感が、体中の細胞に張りついている。まるで、血の最後の一滴まで絞り尽くしたかのような感覚だった。今や、指一本、動かすことさえ、しんどいくらいである。それに、意識も混濁しており、フロアに残っている、一、二年生の部員たちの喧騒が、どこかの遠い事象のように感じられてならない。いっそ、このまま倒れてしまってもいい、と思う。しかし……、果てしなく続いた、拷問のような時間は、ついに終わったのだ。それは、紛れもない事実だ。
 涼子は、むくりと顔を上げた。わたしは、最後まで乗り切った……! ようやく、家に帰れるのだ。この時を、ひたすら待ち続けていたではないか。出よう。この、監獄のような場所からは、一分一秒でも早く、出よう。そう思い直すと同時に、脚が動き始める。まるで、ゾンビと化したような、ふらふらとした足取りだった。しかし、着実に、前に進むことができる。だいじょうぶ。これなら、なんとか、家までたどり着ける。その安堵と喜びを胸に、フロアの出入り口を通ろうとした。
 その時、背後から、とんとんと肩をつつかれた。
 涼子は、誰だろうと思って振り返る。
 そこには、紺色のジャージの上下を着込んだ、マネージャーの竹内明日香が立っていた。どれだけ憎んでも憎み足りない相手であるが、相も変わらず、この学校には場違いなほどの美少女だと思わされる。実のところ、未だに、間近で顔を見合わせている時など、そのフランス人形じみた美貌ぶりに、不覚にも、息を呑むような気持ちになってしまう。しかし、だからこそ、とてつもなく穢らわしい存在に思われてならないのだった。今、その明日香の顔には、ほんのりと微笑が浮かんでいる。
「……なに?」
 涼子は、疲れ切った声を出した。
「りょーちん、色々と疲れてんでしょっ。今日は、久しぶりにぃ、体の、マッサージしてあげる」
 明日香は、柔らかい口調で言う。
「いや結構……」
 涼子は、即座に断り、明日香に背を向けようとした。
 だが、涼子の着ている白いTシャツの左袖の部分を、明日香は摘まんで引っ張ってきた。
「いいからいいからぁ、遠慮しないでっ、りょーちん」
 涼子は、大きくかぶりを振った。
「遠慮とかじゃないのっ。わたし、今日は、もうすぐに帰りたいの」
 すると、明日香は、すねたような表情をした。
「そんなに急いで帰ること、ないでしょっ。あたしが、りょーちんのこと、マッサージでぇ、気持ちよくしてあげるっ」
 涼子は、震える吐息を吐き出した。
「いいって言ってんでしょっ……。とにかく離してよっ!」
 Tシャツを握っている明日香の指を、手で押しのけようとする。
 しかし、明日香は、かたくなに涼子のTシャツを離そうとしない。
「あたしは、りょーちんのこと、癒してあげたいだけなのっ……。それなのに、そんな、つれない態度されると、なんか悲しいなぁ」
 そのしつこさに、涼子は、腹の底がけいれんするほど、うんざりさせられた。いっそ、明日香の腕をたたき落としてでも、今すぐ部室へと向かいたいところだ。しかし、弱みを握られているため、明日香に対して、乱暴な行為に出ることなど、決して許されない。なので、涼子としては、懇願するしかなかった。
「お願い、明日香……。わたし、今日は、色んなことがありすぎて、へとへとに疲れてるの。もう、本当に、立ってるのが、やっとなくらい。だから、今日だけは、もうすぐに帰らせて……。ね? お願い……」
 半分、涙声になっていた。
 明日香は、哀れむような目で、じっと涼子の顔を見つめる。それから口にした。
「りょーちんが、そんなに疲れてるんじゃあ、マネージャーとして、なおさら放っておけないよぉ。あたし、りょーちんの体、マッサージし終えるまでぇ、絶対に帰らないからっ」
 涼子は、その言葉を聞くと、失意のあまり、がっくりと首を垂れた。もはや、何を言っても無駄だと悟らされた。こうなると、結局のところ、立場の弱い涼子のほうが折れるしかない。いったい、何が目的なのか知らないが、明日香は、涼子の体をマッサージしたくてならないらしい。この女には、自分の体に、指一本、触れられたくないのだが、それは我慢するしかなさそうだ。それと、逆に考えれば、いい機会でもある気がした。明日香と二人だけで話せる。バレー部の合宿費を返してもらうためには、たとえ相手が悪魔であろうと、その心に訴えかける以外に方法はないのだから。
 涼子が観念したのを見て、明日香は、にんまりと笑った。
「さ、りょーちん、こっちこっち」
 弾むように言い、涼子のTシャツの左袖を握ったまま、フロアの出入り口を通っていく。それに引きずられ、涼子も、よろよろと館内通路に出た。
 愚かにも、まだ、明日香のことを、献身的なマネージャーだと信じ切っていた頃から、彼女による部員へのマッサージは、館内通路で行われるのが通例だった。フロア内で、あくせくと動き回っている、主に一年生の部員たちの、邪魔にならないよう、という配慮からである。
 明日香は、フロアの出入り口を出てから、十メートルほど歩いたところで、足を止めた。
 涼子は、肘と膝に着けているサポーターを外すと、明日香の足もとに、力なくへたり込んだ。そのまま、身を反転させ、両腕を枕代わりにする形で、うつ伏せに寝る。奇妙な感覚だった。なにしろ、自分は今、憎くてたまらない女の前で、無防備に横たわっているのだ。まるで、煮るなり焼くなり好きにして、と自分の身を差し出しているかのような状況である。そう考えると、なんとも心もとない気持ちになる。
 明日香は、ふわりと腰を落とし、床に膝をついた。
 彼女の両手が、涼子の肩に当てられる。その瞬間、涼子は、明日香に体を触られる不快感に、思わず顔をしかめた。
 マッサージが始まった。
 涼子の着ている白いTシャツは、汗でびしょ濡れの状態であり、その生地が肌に張りついているため、下に着用している、同じく白い色のブラジャーが、完全に透けており、また、肩甲骨の出っ張りや、背筋のラインに至るまで、はっきりと視認できる有様だった。きっと、こんな汗まみれの涼子の体には、親しい友達でさえ、触れることを躊躇するはずだ。しかし、明日香は、ちっとも気にならないらしい手つきで、涼子の肩の筋肉を、ぎゅっぎゅっ、と揉みほぐす。
 涼子は、それから一分ほど、黙ってされるがままになっていた。
 どうも妙だと思う。涼子のことを侮辱するのが大好きなはずの明日香が、何も言ってこないのである。今なら、格好のネタがあるというのに。この、見苦しいことこの上ない、大量の汗のこと。また、その汗の、ひどい臭いのこと。
 明日香は、ただ黙々と涼子の体をマッサージしている。
 涼子は、明日香に体を触られていることによる精神的苦痛が、だんだんと薄らいでいくのを感じ始めた。いや、そればかりか、この竹内明日香という女だって、やはり、血の通った人間であり、きっと、話せばわかってくれるはず、という思いをも抱く。その思いに突き動かされ、意を決して口を開いた。
「あの……、聞いて、明日香」
 地の底から届いたような、恐ろしく低い声だった。
「うーん?」
 明日香は、やんわりとした声を出した。
 涼子は、薄目を開けた状態で、目の前の床を見るともなく見ながら、とつとつと話し始めた。
「わたしさ……、高校に入学してから、ずっと、部活に明け暮れる生活を送ってきた……。あなたも、知ってると思うけど、うちの高校のバレー部、強豪校としての伝統を受け継いでるからさ、もう、遊ぶ時間なんて、全然ないの。彼氏を作るとか、そんなこと、考えられもしなかった。……練習は、過酷そのものだし、なんで、わたしは、こんな苦しいことに、耐えないといけないんだろう、って思ったことも、一度や二度じゃない。わたし、みんなが思ってるような、強い人間じゃないから……」
 明日香は、両手の位置をずらし、涼子の肩甲骨の下あたりをマッサージし始めた。
 涼子は、話を続ける。
「……でも、自分なりに、練習を、がむしゃらに頑張ってきて、その結果、キャプテンに選ばれた。その時は、すごい誇らしかったけど、同時に、不安でたまらなかったの。わたしなんかが、キャプテンになったせいで、この高校のバレー部の、強豪校という地位が、失われちゃうんじゃないか、って。だから、それからは、本当に、死にもの狂いの気持ちで、バレー部を引っ張ってきたつもり。わたしって、要領が悪いから、散々、空回りもしたけど。それで……、とっても長かったような、でも、なんだか、あっという間だったような、この部活中心の生活も、いよいよ終わりが近づいてきた。やっぱり、自分が必死になってやってきたことだからさ、最後の大会も含めて、なるべく、いい形で終わりたいっていう思いだった。だけど……、最後の最後になって、今まで積み重ねてきたものが、全部、崩れていっちゃった……」
 そこで言葉を止めた。
 明日香は、何も言わず、次は、涼子の腰の上に両手を当てた。体重をかけるようにして、その部分を強くこすってくる。
 涼子は、思いを巡らす。果たして、明日香は、涼子の言葉に、きちんと耳を傾けているだろうか。はなはだ疑問ではあるが、明日香の心に訴えかけるなら、今しかないはずだ。
「明日香も、知ってるでしょ? わたしが今、バレー部のなかで、どれだけ悲惨な立場でいるのか。今はもう、部員たちのほとんどが、わたしの言うことを、ろくに聞いてくれない。でも、そんなんでもさ……、わたしは、キャプテンとして、自分のやるべきことを全うしないといけない。だから、まずは、部員たちの信頼を、もう一度、取り戻すためには、どうしたらいいのかって、そのことを、懸命に考えながら行動し続けた……。だけど、全然だめ。なんていうか……、今のわたしは、頑張れば頑張るほど、キャプテンらしく振る舞おうとすればするほど、部員たちに嫌われていく、っていう感じ。それに……、今日は、朋美に言われちゃった。『あんたは、バレー部の恥さらしだ』って。すごい悔しかったけど、言い返す言葉がなかった。だって、本当に、そのとおりなんだろうし。もう、わたし……、苦しくて悲しくて、胸が押し潰されそうだよ……」
 込み上げてきたおえつを抑えられなくなり、えうっ、と声を漏らした。
「……可哀想な、りょーちん」
 明日香は、それだけ言うと、今度は、涼子の下半身へと手を動かした。涼子の両脚の太ももを、黒のスパッツ越しに両手でつかむ。そのまま、左右にぶらぶらと揺すり始めた。太ももの筋肉疲労を取るには、極めて効果的な方法だった。
 涼子は、何とはなしに回想する。明日香が、バレー部のマネージャーとしての活動を始めてから、間もない頃のことだ。練習が終わった後は、よく、こうして、明日香に全身のマッサージをしてもらっていた。明日香が素人とはいえ、涼子の体は、どこもかしこも筋肉がぱんぱんに張っている状態だったから、マッサージの間は、極楽気分を味わえた。とくに、酷使し続けた太ももの筋肉を揉みほぐされている時には、あまりの気持ちよさに、思わず声が出てしまうほどだった。だから、明日香の手が、太ももから別の部位に移動してしまうと、涼子は、柄にもなく、甘ったるい声で、『やーん、もうちょっとだけ、今のところやってえ』と、おねだりしていたのを思い出す。まさに、身も心も、明日香の手に委ねていたのである。
 あの頃と同様、今、涼子のたくましい太ももを、明日香は、いたわりのこもった手つきでマッサージしている。
 涼子は、体の緊張が、最初に比べると、驚くほどほぐれていることを感じ、両脚を、軽く開いた。自分でも不思議なことに、今一度、明日香に対して、心を開いてもいいような気さえしてくる。そして、ふたたび口を開いた。
「あの……、何が言いたいかっていうとさ……、わたしは、もう、自分の守りたかったものを、ほとんどすべて失っちゃったってことなの……。本当だよ? 部活内だけのことじゃない。明日香は、知らないかもしれないけど、わたし、今は、クラスで、ひとりぼっちになることが多いの。わたしが、変態だっていう噂が、クラスにも広まったことで、いつも、周りにいた子たちが、わたしから、どんどん離れていった。そのなかには、一年の頃から、ずっと仲がよかった子もいるんだけどさ……、今日なんて、わたしが、近づいただけで、露骨に嫌な顔をされちゃった……。結局、わたしには、本当の友達なんて、指で数えるくらいしか、いなかった、ってことなんだよね……。でも、それは、わたし自身のせいだって、自覚してる。わたしって、生意気だし、周りから、ちやほやされると、すぐ調子に乗っちゃうし、それに、結構、自分のことしか考えられないところがあるし……、短所を挙げると切りがない。そういう部分を、周りの子たちは、ちゃんと見てたんだろうなあ……、って思う。あの……、明日香たちもさ、これまでの高校生活で、わたしの嫌な面を、色々と目にしてきたんでしょ? それで、そんなわたしのことを、たっぷり痛めつけてやろう、っていうふうに思ったんだよね? だから、今、わたしが、こうして苦しんでるのは、完全に自業自得……。うん、本当に、そう思う。でも……、だけどさ……」
 涼子は、一呼吸、間を置き、それから話を続けた。
「もういいでしょ……? もう気が済んだでしょ……? だってさ、今までに、明日香は、ここまで惨めな女を、実際に見たことがある……? ないよね? 今……、わたしは、大げさでもなんでもなく、地獄の底で這いずり回るような学校生活を送ってる。はっきり言って、そのうち、気がおかしくなりそうなくらい、つらくてしょうがない。それに、体のほうは、とっくに壊れ始めてる。今日は、ちょっとしたことがきっかけで、手の震えが止まらなくなっちゃった。もう、わたしは、そんな状態なの……。ねえ、だから、これ以上、わたしを痛めつけようとするのは、やめて……。それで、お願いだから、バレー部の合宿費を返して……。もし、返してくれたなら、わたし、あなたたちから、散々、恥ずかしい思いをさせられたこと、全部、忘れる。あなたたちに、何らかの形で復讐しようなんて、絶対に考えない。そうして、今までの自分の悪い部分を、徹底的に反省して、それからは、目立たない生徒として、ひっそりと残りの高校生活を送っていく。約束する。だから、お願い……」
 言うべきことは言い終えた。明日香から、どんな反応が返ってくるかと待つ。
「……りょーちん、変なこと言わないでっ。あたしはぁ、バレー部の合宿費を取ってなんて、ないもん」
「えっ……」
 涼子の胸の底に、黒いしずくが落ちた。
 その直後、涼子の両脚の太ももをマッサージしていた、明日香の両手が、ずずっとせり上がってきた。太ももの付け根の上をも通り過ぎ、そのまま、おしりの肉をぎゅうっと押し上げてくる。
 突然、おしりを触られたことで、涼子は、たちまち体中に緊張が走るのを感じた。
 明日香は、まるでヒップアップマッサージをするかのように、同じ動作を繰り返し始めた。着衣の状態でも、というより、スパッツを着用している状態だからこそ、その密着性ゆえに、涼子のおしりは、ことさらボリュームが強調されて見える。それは、涼子自身も、正直、わかっていることだった。そんな豊満なおしりの肉が、明日香の手の圧力によって、下から上に、下から上にと盛り上げられ、そのたびに、黒のスパッツからは、生地に染み込んでいる涼子の汗が、じゅわっと滲み出る。
 涼子は、強い戸惑いを覚えていた。
 いくら、練習を終えた直後ということで、体中の筋肉が張っている状態であろうと、おしりまでマッサージされる理由はない。ここは、学校の体育館であり、エステではないのだ。当惑の念は、だんだんと激しい不快感に変わっていく。ついさっきまでの、リラックスした気分は、すっかり吹き飛んでおり、今や、体のあらゆる部分が、がちがちにこわばっていた。
 やだ……。そんなところ、触らないで……。
 同性の手だとしても受け入れたくない。学校内では、生徒たちが、女の子同士ということで、気軽に胸を触り合うなどして、スキンシップを図っている場面を、たびたび目の当たりにするが、涼子は、そういうのが大の苦手だった。だから、過去、ふざけて胸を揉んできた生徒に対しては、はっきりと、『やめて!』と拒絶の意思を示してきた。それなのに、今は、延々とおしりを撫で回されながら、身じろぎもせず、無防備に横たわっているのだ。しかも、相手は、涼子に対して、これまでに数え切れないくらい、変態的行為を繰り返してきた女である。
 涼子は、ぞわぞわと悪寒を感じ始めた。
「やっ……。やっ……。い……、や……」
 かすかに声が漏れる。断固とした拒絶の言葉を、すんでのところで呑み込んでいる状態だった。もう少しだけ、明日香に対して、和やかな雰囲気のなかで語りかけたい。そういう思いを抱いていたのである。
 しかし、それから間もなく、そんな涼子の思いは、完全に打ち砕かれた。
 明日香は、ヒップアップマッサージのような動作をやめたかと思うと、今度は、涼子のおしりの、もっとも盛り上がった部分に、両の手のひらを張りつけ、その部分の肉を、ぐにぐにと揉みだしたのである。それは、どう善意に解釈しても、涼子のおしりの肉の感触を愉しむ、性的意味合いのこもった手つきだった。
 涼子は、全身が総毛立つ感覚に襲われた。
「んんー?」
 明日香は、挑発するような声を出した。
 それを聞いて、遅まきながら認識する。今、自分は、侮辱されているのだ。いや、辱めを受けているのだ。
 もう、我慢ならない。
「明日香、変なところ触るの、やめて!」
 涼子は、きっぱりとした口調で訴えた。
 それにより、ようやく、明日香の手が止まった。
「りょーちん、おしり、きもちくないのぉ……?」
 明日香は、残念そうな声で訊いてくる。
「気持ちいいわけないでしょっ!」
 涼子は、枕代わりの両腕に向かって吐き捨てた。
 すると、明日香が、何事か考えるような沈黙が流れた。
「それじゃあ、りょーちん……。ここは、どうぅ?」
 明日香は、わずかに開かれた涼子の股の間に、そっと右手を差し入れた。そうして、ぷっくりとした性器の部分に触れると、その肉をこねるように指先でいじり始める。
 涼子は、頭の中に紅蓮の炎を見た気がした。がばっと上体を起こし、明日香のほうに身を反転させる。
「変なところ触るの、やめてって言ってんの!」
 言葉を発し終えたと同時に、明日香の両手が顔面に飛んできて、ぱしっと頬を包まれた。両頬を押され、唇が前に突き出る。
 意外にも、明日香の顔は、笑っていなかった。
 今、自分が何をされているのかも理解できない心境で、困惑していると、次に、嗅覚が刺激された。涼子の汗で濡れているせいだろう、明日香の手のひらから、生ゴミの腐ったような臭いが、ぷーんと鼻腔に流れ込んできたのである。自分の汗の臭いだというのに、涼子は、思わずむせ返りそうになった。
 明日香は、あくまでも真顔のまま、さらに涼子のほうに顔を近づけてくる。
 恐ろしく美しい女の顔が、涼子の視界を占める。涼子は、またぞろ、明日香の美貌ぶりに圧倒され、対する自分は今、唇を前に突き出した、見るに堪えない間抜け面をさらしているのだろう、という劣等意識を抱かされる。ほどなくして、明日香の息が、顔にかかるのを感じた。思い出したくもないが、以前、彼女のその唇が、突然、涼子の唇に押し当てられたことがある。女同士の行為、しかも、その相手が、穢らわしい存在としか思えない女だったせいもあり、あの一瞬、唇に受けた、ぞっとするほど柔らかい感触は、忘れたくても忘れられなかった。今、また、それが再現されるのではないかという警戒心を抱き、涼子は、唇を引き結ぶようにして引っ込める。
 明日香の口が開かれた。
「りょーちん。これから、体育倉庫の地下に来いっ。いいなっ?」
 彼女にしては珍しい、有無を言わせぬ口調だった。
 そうして、明日香は、涼子の頬から手を離し、さっと立ち上がった。
 涼子は、たった今、言われた言葉を、頭の中で反復する。聞き間違いであってほしいと思いながら。
 体育倉庫の地下……。
 恐怖が、じわじわと胸一杯に膨れ上がっていく。あの、陰鬱極まりない空間で、着ているものをすべて脱がされ、恥辱に打ち震えていた記憶が、暗黒の世界の出来事のように、脳裏にフラッシュバックする。涼子にとって、体育倉庫の地下は、この学校という監獄の中でも、もっとも怖ろしい、二度と足を踏み入れたくない場所だった。
「いやぁ……。わたし、あんなところ、行きたくない……」
 涼子は、わななく声で拒否する。
「ダメ。これから、来いっ」
 明日香は、涼子を見下ろしながら、冷然と言う。今や、彼女の顔からは、笑いめいたものが、すっかり消え失せており、その眼差しには、無機質なまでの厳しい光が宿っていた。
 涼子は、今になって悟った。明日香が、涼子の体をマッサージしたがった、その真の意図を。単純なことである。涼子を足止めし、ほかの三年生の部員たちから引き離すのが狙いだったのだ。自分は、まんまとそれに引っかかり、あまつさえ、この悪魔にも良心が残っていると信じて、苦しい胸の内を語り続けていた。そんな自分のお人好しぶりを思うと、涙が出そうになる。そして、明日香は、こうまでして、涼子のことを、体育倉庫の地下に連れて行こうとしているのだ。ならば、こちらとしては、なおさら、それに従うわけにはいかない。
「わたし……、これ以上、あなたたちに、何か変なことされたら、本当に、心も体も壊れちゃう……。絶対に、絶対に、行かないからっ!」
 涼子は、断固たる意思を込めて言い放った。それこそ、身を引きずられたとしても、この場から動かないつもりだった。
 すると、明日香の口もとに、うっすらとした笑みが浮かんだ。
「りょーちん。実はねえ、りょーちんに、会わせたい子がいるの……」
 思いがけない言葉に、涼子は、眉をひそめた。
「……会わせたい子? それって……、誰なの?」
 そう尋ねずにはいられなかった。
 明日香は、吹き出すのを堪えるような表情をする。
「それは、会った時の、おたのしみぃ……。今、体育倉庫の地下でぇ、その子が待ってんの。りょーちんも、来たほうが、いいと思うよぉーん。だってぇ、その子はぁ、りょーちんの、『な・か・ま』なんだもんっ」
 仲間……。
 涼子の胸の内で、色々な想念が生じて絡み合う。
 明日香は、皮肉っぽく唇を曲げ、言葉を続けた。
「りょーちんにとっては、せっかくできた、『な・か・ま』なのに、会わずに帰っちゃって、いいのかなぁ……。もしかしたら、その『な・か・ま』と、いい関係になれるかもしれないのにぃ」
 涼子は、明日香から視線を外し、何もない壁を見つめた。頭の中を整理しようと思う。だが、思考の断片が、とりとめもなく渦を巻いており、論理的に物事を考えようとすればするほど、混乱が増し、頭がくらくらするような状態だった。
 果たして、明日香の言う、涼子の『仲間』とは、誰なのか……? 皆目、見当がつかない、というわけではない。むしろ、脳裏には、ある生徒の顔と名前が、すでに、おぼろげな蜃気楼のように浮かんでいる。もし、今、体育倉庫の地下で、その生徒が待っているのだとしたら、自分は、どうするべきか……?
 会っておきたい……! 胸の内を浮遊する想念のひとつが、そう強く主張する。
 だが、場所が場所である。体育倉庫の地下に降りるなど、まるで、自ら、鉄格子の中に入りにいくようなものだと思う。下手をすると、そこで、両手を鎖でつながれ、身をつるし上げられる事態にもおちいりかねない。そうして抵抗するすべを奪われたら、あとはもう、悪魔たちのなぶり者にされる未来しかないのだ。
 考えただけで、体中に戦りつが走る。
 本能は、体育倉庫の地下に向かうことを、激しく拒絶していた。
 しかし、今、あの場所で待っているという生徒に、会っておきたい、顔を確認しておきたい、という思いを、どうしても捨てきれなかった。もし、このまま帰路に就いたとしても、その生徒のことが頭から離れず、どこかの時点で、自分は、学校へと引き返してくるような気がした。よしんば、家に帰ったとしても、一向に気持ちが落ち着かず、今夜は、布団に入って目を閉じることさえ難しいだろう。それに、涼子の胸の内には、不思議な予感があった。その生徒に会えば、現在、自分を取り巻いている、多くの物事が、よい方向に変わっていきそうな、そんな予感だ。
「ほらっ、立って、りょーちん」
 明日香は、こちらに手を差し伸べてくる。
 その手を握り返すことはしなかったが、彼女に促される形で、涼子は、そろそろと重い腰を上げた。そして、一筋の光が差した明日を目の当たりにしているかのように、前方だけを見つめながら、明日香と並んで歩き出した。






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