第二十六章〜壊れかけの偶像


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第二十六章〜壊れかけの偶像




「りょーちん、いい加減、うるさいっ! そうやってぇ、いつまでも、わあわあ、わめき続けて、現実逃避してると、退学にぃ、追い込まれちゃうぞっ!」
 この間まで、心を開ける相手だと信じていた、バレー部のマネージャー、竹内明日香が、ぴしゃりと言った。
 退学……。
 滝沢秋菜の策謀により、金輪際、この学校の門を、くぐれなくなるという事態だ。
 南涼子は、もし、そうなった場合の、その先の人生を想像するだけで、内臓を押し潰されるような感覚にとらわれるのだった。だから、早急に、泣き声を上げ続ける自分の、心と体を静めるべきだと意識する。それに、明日香も、涼子のおしりを、やわやわと揉むという、その性的行為は、とっくに止めている。にもかかわらず、錯乱状態におちいったままでいるのだから、現実逃避と指摘されても、致し方ない状況かもしれない。
「……あわああああああああっ、あぁっ、あっ、あわぁっ、あ、あ」
 まもなく、声帯の、不随意的な振動は治まった。
 泣く子も黙るとは、まさに、このことだ。自分が、いかに致命的な弱みを握られているのか、身をもって思い知らされた瞬間だった。
「ねえ、だいじょうぶ? 南さん……。検査を始める前から、そんなパニックを起こされても、こっちとしては、困るんだけど……。まあ、どうやら落ち着いたみたいだし、もうこれ以上、見苦しいところは見せないで。それと、きちんと、自発的に、検査に協力する姿勢を示して。オッケー……? オッケーなら、すぐに、ケツ毛の検査を受ける体勢を取りなさい」
 吉永香織が、抑揚のない口調で命じてくる。
 無念だが、涼子自身、それを受け入れるしか、自分に残された選択肢はないことくらい、もはや、重々、承知している。
 けど……。
 体勢?
 てっきり、自分のおしりの割れ目を、香織が、その手で開いてくるものと思い込んでいたのだ。
 しかし、何も行動を起こさずにいると、香織を、いたずらに怒らせるだけだという判断から、涼子は、ぶるぶる震える両手を、体の後ろに持っていき、右手と左手の指先を、おしりに軽く当てる。そうして、屈辱という感情そのものを、心の内から抹消する思いで、おしりの肉を、わずかばかり左右に引っ張ってみせた。
「なにそれ……? ケツ毛の検査よ、ケツ毛の検査。要するに、世間一般で言われる、肛門検査と同じなの。当然のことでしょう? で……、もう、高三なんだから、どういう体勢を取ればいいかくらい、ちょっと考えれば、わかるよねえ?」
 香織は、あきれ気味の口振りで言う。
 頭の中で、疑問の念が、ぐるぐると回り続ける。その体勢というのが、具体的に、どのような体の構えなのか、まるでイメージが湧かないのだ。
 だが、おしりの深部を、香織たちに、より、見えやすくする必要があるのだろうことは、おおよそ察しが付いた。
 それゆえ、涼子は、三十度ほど前屈みになり、その分だけ、両手の指を当てたままの、おしりを、後ろに突き出した。
 なんという、惨めな格好なんだろう……。
「あのさあ、南さん……。とぼけてないで、頼むから、真面目にやって……。それとも、もしかして、あんた、本当にわからないわけ? だとしたら、世間知らずもいいとこだよ。あんたねえ、いっくら、学校では、勉強もスポーツもできて、バレー部のキャプテンを努めるくらい、リーダーシップがあって、おまけに、誰からも好かれる、生徒会長以上の優等生、とか持てはやされててもね、そんなんじゃあ、社会に出たら、生きていけないのよっ。もっと、真の意味での社会勉強をしなさい、真の意味での社会勉強を……。まったく、だ・か・らぁ……、ここ、をね!」
 香織が、声を荒らげるのを、怯えながら聞いていると、いきなり、おしりの肉を、両手でぞんざいにつかまれた。そのまま、おしりの割れ目を、ぐいっと左右に押し広げられ、たちまち、秘められていた深部までもが、空気に触れたのを感じ、ついつい、悲鳴を上げそうになった。
 今この瞬間、自分は、体のもっとも汚い部分を、背後の三人の視線にさらしている、という事実が、極めて短い時間で、脳内に染み込んでくる。しかし、そんな恥ずかしさを覚える間もなく、次の刹那には、涼子の胸の内において、あらゆる感情が、灰燼に帰した。
 涼子は、なぜなら、その部分に、人間の指先が押し当てられる、未知の感触を、皮膚感覚を通して、はっきりと知覚させられたのである。そう……。自分の体とはいえ、普段、入浴時を除いては、自分の指でも、決して触れることのない、不浄の穴に。
「ここ、ここ、ここ……。ここを、あたしたちに、最大限、さらけ出すような体勢を、さっさと取りなさいって言ってんの!」
 おそらく、人差し指を使っていると思われたが、まるで、今にも、その指先を、穴の中、つまり、直腸にまで突っ込もうとするかのような強さで、ぐっ、ぐっ、ぐっと、そこを何度も指圧される。他人の指が密着している状態だからこそ、その窄まりの部分が、溜まった汗のせいもあり、いかに、べたついているか、否が応でも自覚させられる。そのためか、自分の便の残滓が、香織の指先に付着していく様を、ありありと想像してしまう心地だった。
「香織先輩……、思いっ切り、触っちゃってるし……」
 後輩の石野さゆりが、自分は、真似したくないとばかりに口にする。
 その時……、涼子は、少々、奇妙なことに、なんらかの神経毒でも注入されたかのごとく、全身硬直を起こしており、身をよじって逃れることはおろか、おしりから両手を離したり、くの字の体勢から直立したり、といった動作すら取れないでいた。
 とはいえ、香織も、すでに、両手を引っ込めており、時間としては、あっという間の出来事だった。また、その香織は、一転、大人しくなった。まるで、自身のしでかした行為など、なかったことにするかのように。
 しかし、涼子にとっては、いつまでもいつまでも尾を引きそうな予感のする、名状すべからざる衝撃体験だった。実際、依然として、ずっと同じ体勢を取ったまま、体の硬直が解けない。だが、知らず知らずのうちに、顔にだけは、気の動転ぶりが表れていたらしく、目を点にし、馬鹿みたいに大きく口を開けた、今の自分の表情は、前方にいる、滝沢秋菜と足立舞の目に、喜劇的なまでの間抜け面として映っているに違いない。
 そして……、今は、脳全体のうちの、複数の部分が、一時的に萎縮でもしているのか、しばしの間、自分は、これまでより、一段、低いレベルの精神活動しかできないのを、なぜか、本能的に認識しているような、不思議な感覚がある。事実、感情の働きが、めっきりと鈍くなっていることを、早くも悟った。あと、どうも、記憶に自信が持てない。なんというか、新しければ新しい記憶ほど、あちこち、穴が空いているような気がするのだ。
 それゆえ、見えない首輪に、身を拘束されている立場であることも、頭から抜け落ちており、涼子は、おもむろに背筋を伸ばすと、ほとんど無自覚のうちに、ひたひたと足の向きを変え、背後の三人を見下ろす形となった。が、もちろん、視線の先に捉えているのは、右端にいる、吉永香織である。その膠着状態が、五秒くらい続いた。
 すると、香織は、不快感を抱いたらしく、勢いよく立ち上がった。
「なに……? あんたが、十七、八にもなって、世の中のことに、あまりにも無知だから、あたしが、わざわざ丁寧に教えてやったのよ。なのに、なんか文句でも、あるわけ……? 言いたいことが、何もなければ、ケツ毛の検査するんだから、大人しく、あっちを向いてなさい」
 ずいぶんな喧嘩腰だが、体格のせいもあるのか、迫力は、まったくといっていいほど伝わってこない。
 涼子は、その命令を無視し、香織の顔を、ただ見返していた。
 香織は、そんな涼子の態度が、なおさら、かんに障ったのか、これ見よがしに、右手を、自身の顔の前に、ゆっくりと持っていき、人差し指を立てた。
「ミ・ナ・ミィ……。そういえば……、あんたって、トイレで、おしりを、きちんと拭かないタイプの女だったよね? なんたって、滝沢さんのシャツで、ケツの穴まで刺激して、オナニーした際、黄土色っぽい汚れを、べっとりと付けちゃったのが、その何よりの証拠よ。それで……、今日は、どうなんだろ? やっぱり、そういう、衛生面に、ずぼらな性格っていうのは、なかなか直らないものなの? あたし、その点が気になるから、この指の臭い、よーく確かめちゃおうかなあ……。やだ? 恥ずかしい? 屈辱? そんなふうに思うんなら、あたしの、この指、今から、あんたの口の中に、突っ込んでやってもいいよ。要するに、あんたは、自分自身の……、いわゆる、うんカスを、綺麗に舐め取るってこと。どう? そうしたぁーい?」
 年頃の女の子の、というより、人間の尊厳の根幹を、これ以上ないほど揺るがす発言だった。
 今、香織の顔には、邪気に満ちた笑いが浮かんでいる。だが、反面、その口もとは、変なふうに引きつっているように見えなくもないので、なにか、香織の後ろ暗い感情が、そこはかとなく滲み出ている表情にも思われた。
 そこで、涼子は、今さらながらであるが、吉永香織というクラスメイトの風貌を、何とはなしに観察した。つり上がり気味の目をしており、髪の毛を、短い二つ結びにした、とくに個性的でもない髪型で、また、最大の特徴は、高校生の女子の平均身長よりも、だいぶ小さいという点だろう。どこでも見かけるような、極々、平凡な容姿。いや、どちらかというと、冴えない部類に入るかもしれない。そのことも、一つの要因なのかは、知るよしもないが、クラスでは、多くの生徒と、コミュニケーションを取ろうとするのではなく、常に、特定の友人たちとだけ、お喋りをして過ごしている印象だ。それに、部活には入っていないみたいだし、彼女が、何かに打ち込んでいるという話を聞いたこともない。
 つまり、端的に言うなら、前々から、涼子にとって、吉永香織は、これといった魅力を感じない生徒だった。
 だから、バレー部の合宿費を盗まれさえしなければ、香織などとは、ろくに言葉を交わすことのないまま、高校卒業を迎えたはずだと、並行世界の未来を見ているかのごとく確信する。
 そうなっていれば、どれだけ幸せだったことか……。
 しかし、現実には、吉永香織たちに、脅迫のネタを握られ、涼子の高校生活は、それまでが、夢まぼろしだったかのように暗転した。それからというもの、涼子を辱める目的のためだけに結成されたと思しき、三人グループの主犯格である、吉永香織とは、いったい、何者なのかと注視するようになると、その本性は、早々に見えてきたのである。常日頃から、一人ぼっちの状態になるのを、何より怖れている心理がうかがえたし、体育の授業では、ほとんど競技に参加せず、友人と見物を決め込んでいるのは、きっと、運動音痴なのを、クラスメイトたちに知られたくないからだろうと、見当が付いた。さらには、涼子を、人目のないところに連れ込んだ際も、主犯格のわりに、竹内明日香と石野さゆりに、自分自身が、どう見られているのか、という点を常に念頭に置きながら、行動を起こしているフシがある。要するに、他人からの評価に、異常に敏感な性格の、紛れもない臆病者なのだ。
 おそらく……、と推測する。
 今日この場において、竹内明日香、それに続き、滝沢秋菜までもが、涼子に対し、性的異常者じみた行為に及んだのを、香織は、しかと目の当たりにした。それゆえ、こう思ったに違いない。自分だって、そういう次元のことを、真似していいはず……、と。
 そして……。
 涼子は、たった今、香織に、指を押し当てられた部分に、意識を向けた。
 この臆病者の女は……、なにも、血迷ったのではなく、深謀遠慮を重ねた上で、一線を越えてきた……。
 そう結論を下すと、心の奥底から、峻烈なる想念が、マグマのように噴き上がってきて、もう、口に出さずにはいられなくなった。
「あんたさあ……、わたしのことを、レズだレズだって言うけど……、あんたのほうが、よっぽど、レズの疑惑、濃厚だよねえ? レズで、変態みたいなこと考えてるのは、ほかでもない、あんたのほうでしょ!?」
 興奮しきった自分の声が、自分でも驚くほど大きく響き渡った。
 その直後、この場に居合わせている全員が、息をすることも許されなくなったような、重たすぎる沈黙が、周囲一帯に充満していくのを、五感で感じた。
 当の香織はというと、涼子から、予想だにしなかった反撃を受け、どう対処していいか、頭が回らないという風情である。かと思っていると、やにわに、香織の両頬が、ぼわっと赤くなるのを目にした。その赤みは、みるみるうちに、濃く、広くなっていき、ついには、のぼせ上がったみたいに火照った顔になる。続いて、香織は、苦しげに胸を押さえたり、手のやり場がなさそうに、スカートのすそを握ったり、あるいは、両手で自身の肩を抱きながら、おたおたしたりと、せわしなく動き始めた。それに加え、よくよく見ると、香織の肩が、かすかながら震えているのに気づく。怒りを爆発させる寸前なのではなく、恐怖、それも、並大抵ではない恐怖にとらわれているためだと、即座に直感した。まるで、世の中のあらゆる物事に対し、病的に怯える者のように。
 涼子は、その香織の様子を、不審の念と、それに嫌悪感情とが、ない交ぜになった心境で眺めていた。
 しかし、やがて、香織は、怨霊のように、恨みの念を湛えた目つきになり、涼子の顔をにらみ上げてきた。
「ふざけんなよ、オメェェェッ……!」
 怒髪天を衝いている老婆を連想させる、恐ろしくしゃがれた声だった。
 ほどなくして、香織の右の拳が、突き上がってくる形で、涼子の顔面に飛んできた。が、香織が、手を出してくるのは、想定内だったため、涼子は、動体視力を活かし、その拳を、左の前腕部で受け止め、外側になぎ払う。今の攻撃が、平手ではなく、拳だったことから、涼子のボルテージも、振り切れる寸前になった。
 一方、香織は、しゃにむに、同じ動作を繰り返した。
 だが、涼子は、すでに見切っており、自分の顔面に放たれた、その拳を、もう一度、左の前腕部で、やすやすと弾き返す。
 すると、香織は、今にも噛みついてきそうな、憤怒の形相を浮かべた。どうやら、握り締めた拳で、涼子の顔を殴りつけられないことに、発狂せんばかりの苛立ちを覚えているらしい。
 涼子は、そんな香織を前に、ひとり全裸姿という状況でありながらも、つん、とあごを反らし、堂々たる態度を取っていた。しかし、まもなく、へその辺りに、どすんと打撃を受けた。香織が、ボディブローに切り替えたのである。一瞬、うっ、と呼吸が止まったものの、だが、肉体的な痛み自体は、正直、大したことなかった。続けざまに、同じ部分に、二発目、三発目と拳を打ち込まれる。香織の、殺気に満ちた、がむしゃらぶりを見れば、ありったけの力を振り絞って、涼子を殴ってきているのは明白だ。けれども、それに対し、どっしりと身構えておけば、日々、過酷なトレーニングで鍛え上げてきた、涼子の肉体の強靱さが前面に出て、貧弱な香織のパンチなど、蚊に刺されるようなものとして、軽く受け流すことができた。いや、そればかりか、涼子からしたら、香織が、何かをごまかすために、必死になって反転攻勢に出ている印象を受け、その姿は滑稽ですらある。
 香織は、五発目の拳を打ち込んできた後、涼子に、ボディブローは通用しないと悟ったのか、それとも、情けない話だが、殴っている側である、自身の拳が痛くなってきたのか、いったん攻撃を止めた。だが、香織としても、引くに引けない状況らしく、現在、涼子のみにある弱点を狙うという、驚くべき冷酷さを示した。なんと、今度は、右脚を上げると、革靴の底で、落ち葉でも砕くかのごとく、裸足で立つ涼子の、左足の甲を、勢いよく踏んづけてきたのである。
 さすがに、涼子も、その痛みには、思わず顔をしかめた。
「いったぁ……」
 そう声をこぼしたのも、つかの間、香織が、ふたたび、涼子の左足の甲を狙って、革靴の底を浮かせたのだった。その動作が、目に入ると、涼子のほうも、抑えようのない怒りに駆られた。
「やめてぇぇ!」
 どんっと、香織の両肩を突き飛ばす。
 さほど強い力ではなかったはずだが、香織は、足腰の弱さを露呈し、無様にも、四、五メートルほど、どたどたと後退していき、その場で、尻もちをつきそうになった。
 すると、明日香とさゆりは、アクシデントが起こったと感じたらしく、二人とも、さっと立ち上がり、涼子と香織の様子を見比べる。
 涼子は、遠のいた香織に、軽侮の念を込めた視線を向けていた。
 今、香織の顔は、そのうち泣きだすのではないかと思うほど、くしゃくしゃに歪んでいる。もしかすると、支配下にあるはずの、また、香織たちの言うところの、奴隷であるはずの、その涼子の逆襲に、ある意味、打ち負かされた格好ですらあることが、悔しくて悔しくて堪らないのか。それとも……、ひょっとすると、仲間たちの眼前で、不自然極まりない狼狽ぶりをさらしてしまったので、今の自分自身は、どう見られているのか、どう思われているのか、という恐怖や不安で、平静を失いかけている可能性もありそうだ。
 涼子は、続いて、明日香とさゆりの顔を、交互に見やった。二人に対して、目で問いかける。文句ある……?
 明日香は、むしろ、面白おかしそうに、口をもごもごさせながら、こちらを見返してくる。
 が、さゆりは、目が合うが早いか、視線を斜めに落とし、困っちゃったな、とばかりに曖昧な薄笑いを浮かべる。そうして、迷っているような素振りを示していたが、ほどなくして、おもむろに体の向きを変えると、香織のほうに歩み寄っていった。
 それから、涼子が、もう一度、明日香の顔に目を向けた、その時だった。
 突然、後ろ髪を乱暴につかまれ、がくんと首が反り返る。
 何事……!?
 泡を食って、無理やり首を左に捻り、背後に目をやった時には、もはや、万事休すだった。何者かの、いや、滝沢秋菜のもの以外は考えられないけれど、その手のひらが、涼子の顔面の、目と鼻の先にまで迫っていたのである。
 油断してた……。そう悟ったと同時に、左頬、というより、ややその下の、あごの部分に、数キロもある鉱物が激突したかのごとき、物凄まじい衝撃が走った。
「ブゴォッ!」
 明らかに自分の声帯から発せられた音が、不気味な物音みたいに鼓膜を打ち、視界いっぱいに、無数の火花が散った。体全体が宙に浮いている感覚を、コンマ一秒ほど体感する。次の刹那、涼子は、地面に叩きつけられる形で横倒れになった。
 薄目を開けると、メリーゴーランドに乗っている最中のように、視界が、ぐるんぐるんと回っている。
 体の右側の肌に伝わってくる、コンクリートの地面の、冷たい感触……。
 まず生じた感情は、自分の内側が、心身共に空洞になってしまったかのような、とてつもない虚無感だった。
 ああ……、わたしって、いったい、なんなんだろう……。
「まったく、身の程知らずな女ねえ……。あんた、奴隷の身分のくせに、一般家庭の女子高生である、吉永さんに対して、なんてことしてんのよ!? 聞くに堪えない暴言を吐くわ、暴力を振るうことまでするわ……。時代が違っていれば、あんたなんか、その日のうちに、存在ごと抹消されるほどの、重罪よ。厳しい処罰が下されることを、覚悟しておきなさい」
 滝沢秋菜は、凍ったように人間味のない目つきで、涼子を見下ろしている。
 その隣に立っている明日香が、ふふっ、と笑う。
 そうなのだ……。現在、涼子の身を拘束している、見えない首輪から伸びた、その鎖を、直接、握っているのは、本来は『仲間』であったはずの、この滝沢秋菜なのだ。だから、涼子は、香織たち以上に、秋菜に対して、恭順の姿勢を示さねばならない。また、その秋菜は、涼子が、香織たちに謀反を起こさないかどうか、常に目を光らせている。
 まさしく、絶望にうなだれるしかない、がんじがらめそのものという状況である。
 それにしても、たった今、秋菜から加えられた打撃は、三、四十分ほど前の、つまりは、一発目のビンタよりも、はるかに強烈に感じられた。ただ、それもそのはず。なにしろ、平手で頬を叩かれた、などという表現では生ぬるく、正確には、相撲の突っ張りのごとく、掌底で、あごを横に打ち抜かれたのだから。
 現在は、脳しんとうを起こしているせいで、とても立てないほどの、激しい目まいの症状があり、そのうち、乗り物酔いみたいに、吐き気を催しそうである。絶対安静。それが何より大事なのは、医学的知識がなくとも、容易にわかることだった。しかし、悲しいかな、自分を取り巻く状況が、それを許してはくれない。あと、心配なのは、やはり、あごの状態だった。実際のところ、自分の下あごは、すでに、外れているのではないか、とさえ思う。なぜなら、下顎骨に、経験したことのない違和感があるし、痛みを意識すると、じんじんとした鈍痛が、頭骨全体に響いてくるのを感じる。
「それで……、あんた、いつまで寝転んでるつもりなの? まず、やるべきことがあるでしょう? 殴られたことで、いじけてるんだか知らないけど、本当に、あきれ返るしかない、意固地な奴隷ねえ。このまま、わたしの責任問題に発展したら、たまったもんじゃないから、いちおう、警告しておくわ。吉永さんは、とっても心優しい人だから、あんたに甘かったけど、わたしは、そうはいかないからね。わたしが、調教師として、あんたが、まっさらな心をした奴隷となり、吉永さんたちの足もとに、自ら進んで、ひれ伏すようになるまで、徹底的に躾ける。今のあんたは、吉永さんたちに尽くすためだけに、生かされてるの。そのことが理解できたなら、とにかく、自分の犯した罪について、猛省した上で、吉永さんに、誠心誠意、全身全霊で謝罪しなさい。こういうことこそ、吉永さんの言うとおり、真の意味での社会勉強って言うのよお?」
 その発言の端々から、涼子は、いよいよ、海より深く思い知らされていた。
 滝沢秋菜は、涼子のことを、クラスメイトでもなければ、同じ女子高生とも見ておらず、それこそ、本物の奴隷として扱っても、なんら問題ないと考えているらしいことだ。だから、涼子の側は、秋菜の言い分が、いかに理不尽であろうとも、それに対し、鎖を引っ張られて歩かされるがごとく、唯々諾々と従うほかない。でなければ、秋菜が、今こそ手腕の見せ所とばかりに、阿修羅と化し、涼子の身を、苛烈な暴力という形で鞭打ってくるのは、火を見るより明らかだった。
 しかし……。
 猛省だと?
 謝罪だと?
 当然ながら、涼子としては、香織に対する自分の言動について、反省する気持ちなど、これっぽっちもない。なにしろ、自分が、香織から受けた行為は……、思えば思うほど、ぞっとさせられるが、まさに、汚辱、以外の何物でもなかったのだから。あろうことか、その相手に、こちらが、頭を下げたとしたら、それは、もはや、人間としての振る舞いとはいえないはずだ。プライドのかけらも持ち合わせていない、哀れなピエロである。
 先ほどのことになるが、自分は、この地獄を乗り切りたいがゆえに、プライドを捨て去り、愚かにも、奴隷という烙印を、自らの手で額に押し当てた。それからは、ぎこちないながらも笑顔を作り、声高らかに返事をし、香織たちにとって、耳当たりの良さそうな発言を繰り返し、道化に徹し続けたのだ。だからこそ、わかる。あの時の、自分が自分ではなくなっていくような、そう、アイデンティティーさえも喪失していくような、まがまがしい感覚。あれは、人間をやめた者のやることだ、と。
 そして、滝沢秋菜は、涼子に、今一度、ここで、奴隷であることを行動で示せ、と命じているのだ。
 ふざけるな。絶対に、ごめんだ。
 殴りたければ、殴ればいい。たとえ、体中、アザだらけにされようとも、わたしは、ひとりの、誇りある人間であり続ける……!
「あんた、いくら口で言っても、わからないみたいね」
 ついに、秋菜が、こめかみに青筋を立てているような顔つきで、こちらに迫ってきた。その右手が、ぬっと涼子の頭部に伸びてくる。
 よける間もなく、涼子は、髪の毛をわしづかみにされた。
「ぐずぐずしてないで、立ち上がるのよ!」
 どうやら、秋菜は、威嚇目的でなく、本気で、力任せに、涼子を立たせようとしているらしい。
 頭皮まで引っ張り上げられていく様が、目に見えるようであり、ぶちぶちと髪の毛の抜ける音が、心なしか聞こえてきそうだった。だが、涼子は、断じて立ち上がるまいと、下に重心をかけながら、もはや、憎しみの感情をむき出しにし、秋菜の顔をにらみ上げた。
「なによ、その、恨みがましい目は……。いい!? ここでは、あんたにとって、わたしの命令は、校則であり、国の法律であるも同然なの! わたしに、笑顔を見せろって言われたら、笑顔になるべきだし、立てって言われたら、立つべきだし、ひざまずけって言われたら、ひざまずくべきなのよ! なんなら、あんたの、排泄に関することまで、わたしが、規定、管理してあげようかぁ……? ほらっ、校則で定められたことなら、一から十まで従う、優等生さぁーん。規律に背くなんて、自分らしくないことを続けてないでさ、とっとと立ち上がって、吉永さんに、謝罪しなさいよ!」
 秋菜は、一段と躍起になり、わしづかみにした頭髪を、大きな農作物でも引き抜くみたいにし、涼子の身を持ち上げようとする。
 すでに、相当数の髪の毛が、毛根ごと抜けてしまっていることだろう。強豪校としての伝統を築き上げてきたバレー部に所属し、それも、キャプテンを務めていることもあり、飾り気のないショートカットをしている涼子だが、世間では、しばしば、女の命とも呼ばれる髪を毟り取られていくのは、むろん、泣きたいくらいやるせない思いだった。しかし、かりに、頭皮の一部が、脱毛症っぽい状態を呈するに至るのだとしても、奴隷という身分に、自ら立ち戻ることだけは、金輪際しないと、決意を新たにする。
 そうして、コンクリートの地面に、おしりを、べったりと付けたまま、涼子は、挑戦的な眼差しで、秋菜の顔に、無言のメッセージを投げかける。
 吉永の薄汚い下僕である、滝沢さん、もう終わり……?
 悔しいけど、今日のところは、わたし、あなたに対して、腕力で対抗することが、どうやら無理みたい。だから、わたしのこと、好きなだけいたぶらせてあげる。
 でもね……、この心と体に受けた痛みは、いつの日か、数倍にして、あなたに返すから。必ず、ね。
 わたしを、散々、奴隷扱いしたんだから、その時は、逆に、あんたの、奴隷らしい姿を、とくと拝ませてもらうよ。うん、まざまざと思い浮かべることができる。わたしの前で、あんたが、直立不動の姿勢を取っている光景を……。わたしに、ボッコボコにされたせいで、原形を留めていないほど腫れ上がった、無残極まりない顔。もちろん、制服とか下着なんて、邪魔なものは、全部、はぎ取ってあるから、丸裸。それに、性的部分を、手で隠すことすら認めていないので、嫌でも目に付く、乳首や陰毛。あとは、そうだな……、あまりの恐怖に失禁していて、足もとには、黄色い水溜まりができていそう……。うっわぁ、きぃったない……。そんな姿で、滝沢さん、あんたは、人間廃業を宣言するのよ。
 プライドが山みたいに高そうな、あんたが、人間としての誇りを、完全に失ったら、いったい、どんな生き物になるのか、見ものだね。
 ああ、わたし、なんだか、わくわくしてきちゃった。こういうのを、血湧き肉躍るっていうのかな。クフフ……。
 気づけば、早くも臨戦態勢に入っており、病的な興奮状態にある者のように、鼻息を荒くしている自分がいたのだった。
 やがて、秋菜は、うんざりした顔で、短いため息を吐いた。
「あんたってさあ……、哀れとしか言えないくらい、頭の鈍い女ね。どうも、まだ、理解できてないようだから、教えてあげるわ……。わたしは、ほかならぬ、あんたのためを思って、吉永さんに、謝罪しなさいって、諭してあげてるの。だって、よく考えてごらんなさい。もう一度、言うけど、あんたは、吉永さんたちに尽くすため『だけ』に、生かされているのであり、存在を容認されているのであり、学校に通わせてもらってるの。だというのに、今ここで、自分の犯した罪について、吉永さんから、許しを得られないとしたら、それは、すなわち、奴隷としての価値なし、と見限られることを意味してるのよ? 当然、そんな奴隷は、お払い箱よねえ? そう。わたしが、好むと好まざるとにかかわらず、あんたを、この学校から、抹殺しなきゃならなくなるってわけ。まあ、あんたの人生だから、あんた自身に、決める権利だけは、あるんだけどさ……。で? どうするか、答えが、知りたいわぁーん……」
 それを聞いていて、最後のほうにもなると、涼子は、うっ……、えうっ……、とおえつを抑えられなくなっていた。全身からほとばしっていたエネルギーが、直前までとは一転、体内に押しとどめられていくのを感じる。果たして、自分は、まだ、闘争心を維持しているのかどうか、自分でも判然としないという境地である。
 しかし、まもなく、秋菜に、髪の毛を引っ張り上げられるがまま、コンクリートの地面から、おしりの肌が、べりべりと離れていく感触を覚え、自分自身の行動に唖然とさせられる。そうなると、もう、抵抗していたのが嘘みたいに呆気ないものだった。片膝を立てて腰を浮かし、ゆっくりと背筋を伸ばしていく。
 とうとう、目線の高さは、涼子のほうが、秋菜よりもやや上になった。
 だが、秋菜は、何を思ったのか、頭髪をつかんでいる手で、さらに上方へと、涼子の身を持ち上げようとするのだった。
 その力にも抵抗せず、涼子は、爪先立ちになり、伸び上がるような体勢を取らされる。これでは、まさに、釣り上げられた魚さながらの有様である。また、秋菜のほうも、涼子の、敗残者ぶりを、より強調してみせる意図から、そうしているのだと確信を抱く。意思とは無関係に丸まっていく、左右の手を合わせた十本の指。爪が手のひらに食い込むほど固く握り締めた、両手の拳。いっそ暴れたいという衝動を、未だに自制している自分自身が、もはや、人間ではない、異形の存在に感じられてならない。しかし、それから数秒もすると、当然のことだが、体の内側に押し込められていたエネルギーが、出口を求めて暴発したのだった。
「ちっ……、ちっ……、ちいぃぃぃっくしょぉぉぉぉぉぉうぅぅぅっ!」
 涼子は、女であることも忘れ、この世に、千年後まで怨念を残すがごとき咆哮を発した。
「ああ、やだやだ……。痺れるくらい、びんびんと伝わってくる、復讐への渇望! なんだか、この先、あんたの祟りがありそうで、寒気がしちゃうわよ。ホンット、プライドの高い奴隷ほど、忌まわしい生き物は、ほかにいないわね」
 秋菜は、その発言内容とは裏腹に、愉悦を隠しきれない様子で言い、さらに、言葉を続ける。
「よく聞くのよ? あんたは、自分の中にある、その、どろどろとした負の感情を、どうにか、ポジティブな方向に、百八十度、変換しなさい。そんでもって、吉永さんたちへの奉仕に、悦びを見いだすしか、あんたに、生きる道はないの。さっ、こっちに来るのよ」
 向こうへと、なおも髪の毛を引っ張られる。
 涼子は、その力に身を任せる格好で、ぎくしゃくと歩を進めていき、香織とさゆりの前に引き出されたのだった。
 ようやく、手を離した秋菜が、涼子の右手側に移動する。
「もう、充分、わかってると思うけど、今、あんたは、人生の明暗を分ける、分水嶺に立ってるんだからね。だから、最後に忠告しておくわ。これ以上、くだらない意地を張るようだったら、あとは、どうなっても知らないわよ」
 要するに、ふたたび、道化に徹することで、香織に、機嫌を直してもらわねば、自分の人生そのものが、暗転する、という状況に置かれているのだ。
 涼子は、その香織の顔を、さり気なく見やった。
 吉永香織は、斜めに見上げるようにして、涼子の顔を、じいっとうかがっている。その、つり上がり気味の目に宿った、ちょっとやそっとのことじゃ、許さない、とでも言いたげな、見るからにひねくれた光。
 なんって、嫌な目つきなんだろう……。
 そこで、香織の黒目が、かすかに下に動いたのを見て取った。
 涼子は、自分の乳房に、香織が、視線を注いでいるのを察知し、ついつい、乳首を隠すように両肩を抱いていた。
 すると、香織は、さらに、目を落としていく。どうやら、涼子の裸体の前側を、今一度、視覚情報として取り入れておきたいらしい。当然、その視線は、涼子の腰回りの高さで止まっていた。なにか、涼子のVゾーンに生い茂った、陰毛の生え具合に、改めて見入っているような様子である。
 涼子としては、強烈なコンプレックスのある、その部分を、ただちに両手で隠したいところだった。しかし、いくらなんでも、それは、あからさますぎる反応であり、香織、あるいは、秋菜から、反抗的な態度だというふうに咎められそうな気がし、両手を下ろすことはしないでいた。それにしても、吉永香織に、自分のVゾーンを凝視されるのは、これほどまでに苦痛に感じることだったのかと、今さらながらに思わされる。
 ほどなくして、香織が、再度、涼子の顔に視線を向けてきた。
 目が合うと、香織の口もとが、いいっ、と発音する形に歪んだ。恥をかかされたことに対する強い恨みと、これから、その思いを存分に晴らすことができる、という狂人めいた期待感が、表裏一体になったような表情である。
 一方、涼子の脳裏にも、つい先ほどの出来事が、ずっとこびり付いたままだ。これまでの人生経験からは、誰かに触れられる場面など、想像すら不可能に等しかった、後ろの排泄器官に、いきなり、他人の指が押し当てられたのである。そこに意識を傾けると、あの、おぞましい感触が、生々しくよみがえってきて仕方ない。そして、その行為に及んできたのが、目の前のこの、下卑た顔つきをしている女だと思うと、何かの力で、肉体をねじり上げられるような生理的嫌悪感に襲われる。
 自分の記憶から、あの体験を、綺麗さっぱり消し去ってしまいたい。また、それと同時に、あのような行為に手を染め、おそらくは、ある種の悦びを覚えていたのだろう、この女には、地球上から、跡形もなく消え失せてほしい。そうすれば、自分の中で、あれは、一応、なかったことになる……。もし、それが叶わぬというのなら、せめて、せめて……、吉永香織という女と、同じ空間からは、一分一秒でも早く立ち去りたい。この女の顔が、視界に入っているだけで、自分の精神まで、狂気に蝕まれていくかのような感じがあるし、次、その声を聞いたら、それだけで、体中、びっしりと鳥肌が立ちそうな気がする。
 だというのに……、自分は、これから、その相手に、平謝りに謝らなくてはならないと……。
 無理だ。
 かりそめにも、まともな神経の持ち主である人間であれば、到底、できようはずのない行為だ。
 よしんば、それを強行したとしても、口を開いて、出てくるのは、謝罪の言葉ではなく、吐瀉物になるように思われてならない。
 しかし……、今ここで、反旗をひるがえすためには、何かが足りていない、という感覚があるのも、また、動かしがたい事実だった。その何かとは……、きっと、高校生活が、望まぬ形で終焉に至るという、現在、十七歳の自分にとっては、カタストロフィとも呼ぶべき最悪の事態と、真っ向から向き合うだけの、常人ならざる、覚悟、であろう。果たして、自分は、そのような超人になれるだろうか……?
 しかも、あとちょっとの間に、である。
 右手側にいる、滝沢秋菜が、無言のプレッシャーをかけ続けてくる。もう、今にも怒鳴りだしそうな気配を、ひりひりと肌で感じるのだ。
 その時、ぽつりと思った。
 ああ、わたし、スポーツ推薦で、体育系の大学を受験したかったのになあ……。
 ん?
 まだ、その推薦を貰うこと、できるんじゃん。
 涼子は、肩から両手を下ろし、ぴしっと腰に付けた。最大限、誠意ある態度を示すためだ。
 そうして、香織に向かって、勢いよく、かつ深々と腰を折った。
「吉永さんっ! 本当に、本当に! 大変、申し訳ございませんでした! あのっ……、吉永さんが、無知蒙昧なわたしに! ケツ毛の検査の、受け方について! 指導してくださったにもかかわらず! そ、そのっ……、触れていただいた、場所が、場所だっただけに、えっと……、わたしの、汚い、う、うんカス? ですか? そ、それを、吉永さんの、指に付けてしまったと思うと、なんていいますか……、は、恥ずかしい、っていう感情が、爆発し! 愚かにも! ど、奴隷である自分を、見失ってしまったんですっ! そのため、本来は、感謝すべき吉永さんに対して! ありえない、暴言を吐いてしまい! それに加えて、体を突き飛ばす、暴力を振るってしまったこと! 心の底から、反省しています! もう二度と、あのような行為はしませんし! 反抗的な態度も取りません! なので、どうか、どうか! お許しくださいっ! わたし、奴隷として! 吉永さんたちに、もっと、もっと! 尽くさせていただきたいんです!」
 えっ……、これ、わたしの声? 嘘でしょ!? いったい、何を言ってんの……? おい、おい、南涼子、お前だ、お前。っていうか、わたしだ、わたし……。お前、人間をやめるつもりなの? まさかね……。ここは、続けて、こう言うべきでしょ? 『なーんちゃって。わたしが、本気で、そんなこと、言うと思った!? 人を舐めるのも、いい加減にしろよ』ってさ。それで、吉永の髪の毛を引っつかんで、力尽くで、頭を下げさせようよ。だって、そうでしょ!? 謝罪するべきは、わたしじゃなく、この変態クソ女のほうでしょ!? えっ……? そんな真似をしたら、滝沢が、黙って見ていないって? ああ、滝沢って、ある意味、吉永よりも許せない女だよね……。わたし、またもや殴られたし、そのせいで、今も、軽く目まいがする……。だったらさ、その仕返しとして、滝沢に、渾身のアッパーカットをお見舞いしてやろうよ。たぶん、それを喰らった滝沢の奴、二、三メートルは吹っ飛んで倒れて、口から泡を吹いて気絶するんじゃないかな。それで、滝沢の無様な姿が見られたら、けっこう、胸がすっとするはずだよ。やっぱり、ひとりの人間として、それに、人並み以上にパワーを持った、体育会系女子としてさ、そういうふうに振る舞いたいもんだよねえ、南涼子っ……。
 空想を膨らませるだけなら、ただだね。でも、それって、いくらなんでも、自分自身に対して、無責任すぎない……? そりゃあ、やる気になれば、やれるよ? 相手は、吉永? 滝沢? もしくは、この場にいる全員? こんな生っちろい女たち、右腕一本で片付けられる。それで、もちろん、あの、足立舞っていう、超、気持ちの悪いガキも含めて、五人を血祭りに上げれば、まあ、幾分かは、溜飲が下がるのかもしれない。だけど、その代償は、計り知れないほど大きいってこと。わたし、気づいたんだっ。たしかに、今日この場に居合わせた、五人とも、八つ裂きにしても飽き足らないくらい、憎い……。だからこそ、だよ。そんな奴らに、わたしの人生そのものまで奪われるなんて、それこそ馬鹿みたいだな、って。同感でしょ、南涼子さんっ……。
 今現在、涼子なかでは、こうして、対照的な主張をする二人の自分が、互いにせめぎ合っていた。人間としての誇りを、何より大事にしている自分と、自分の未来を照らす光だけを、真っ直ぐに見つめている自分である。どちらの言い分も、至極まっとうなのだが、今のところ、後者が前者を圧倒している状態だった。
 しばらくの沈黙の後、やっと、香織が口を開いた。
「暴言を吐いた、か……。で、あんた、あたしに、なんて言ったんだっけ?」
 その落ち着いた声からは、感情の抑制ぶりが感じられ、よけい怖くなってくる。
「あっ……、はい! あの、吉永さんに、不快な気持ちを、思い出させてしまいそうで、恐縮なんですが……、わたし、吉永さんに対して……、そのっ、れ……、レズで、変態みたいなこと、考えてる、とか……、口走ってしまいました! それについては……、あの、えっと、なんていうか……、わたしっ、自分が言われて、一番、嫌だったことを言い返してやろう、的な……、人間のクズみたいな心理に、無自覚ながら! おちいってしまって! そ、そういう言葉が、口を衝いて出てきちゃった、って感じだったんです……! こ、今回のことで! 自分自身が、いかに! いかに……! 心の汚れた人間か、思い知りまして! 今は、ひたすら、猛省するばかりです!」
 涼子は、平身低頭したまま、向こう見ずに謝罪の言葉をつむぎ出す。自分の卑屈ぶりを情けなく思うどころか、逆に、まだ、ひざまずくような真似まではしていない、自分のプライドの有り様に、感心の念すら覚える。
「ふーん。言われて、一番、嫌だったこと、か……。まあ、あんたにとっては、図星だもんねえ」
「えっ……?」
 どういう意味なのか、よく飲み込めなかった。
「だからさあ……、あんたの場合は、滝沢さんのことがあるんだから、レズであり、変態みたいなこと、考えてるって、図星すぎて、それだけになおさら、あたしたちから、そういう指摘を受けると、耳を塞ぎたい思いだったんでしょ」
 香織は、冷え冷えとした口調で言う。
 当然、涼子としては、是認しがたいところだった。
 しかし、なんにせよ、今の状況において肝要なのは、香織の発言を、決して否定してはならない、ということだ。
「そ、そうです、ねえ……。あの、レズビアンってこと自体は、別に……、その、珍しくなんてないし、恥ずかしいことじゃないって、ちゃんと、わかってはいるんですけど……、なんだろ、た、滝沢さん本人がいる場で、そのっ、女同士、付き合いたいって思ってるとか、あとあと……、あっ、罪の意識で、いっぱいなんですけど……、し、下心が、あるとか? 吉永さんたちから、ずばずば言い当てられると……、やっぱしぃ……、滝沢さんに対して、気まずいっていうか……、いっそ、消えちゃいたいくらい、すごく肩身が狭くて狭くて……」
 涼子は、しどろもどろになりながらも、どうにか調子を合わせる。
「つまり、レズとか、変態とか、そういう言葉で言い返せば、あんたと同じく、あたしも、精神的に動揺するに違いないって、思い込んだわけね……。どうも、あんた、壮大な勘違いをしてるようだけどさ……、自分自身が、レズで、しかも、日頃から、片想いの相手である、滝沢さんのことを、妄想の中で、好き放題に穢してる、ド変態だからって……、周りの子たちも、多かれ少なかれ、自分と似た一面を持ってるに決まってる、みたいな先入観は、やめてくれないかな……? 迷惑なの。言っておくけど、女子校は、レズの子が、たくさんいる、とか考えてるんなら、それ自体が、まず、最悪の偏見だから」
 もしも、この学校内に、そのような色眼鏡で、生徒たちを見ている者がいるとしたら、涼子自身、たしかに、あまり、いい気がしない。
「す、すみません……! まさに、吉永さんのおっしゃるとおりですよね……。レズで、そうやって、その、そうやって……、片想いしてる相手の子のことを、妄想の中で、あのっ……、あれこれして、穢してる? 変態の女なんて、めったに、いるはずがなくって……、やっぱしぃ、この、わたしくらい? みたいな……? でも、でも! 言い訳するつもりはないんですけど、そういうこと、しちゃったりするのは……、なにも、悪気があるわけじゃなくってぇ……、好き、っていう感情が、暴走してる状態? だってこと、滝沢さんにも、わかってほしいなぁー、なんて? 思っちゃったり? あっ、自分で言っていて、キモい。うん、相当、キモい……」
 おそらく、聞いている滝沢秋菜にとっては、それこそ、ぞわぞわと背筋の寒くなるような話であろう。
「だったら、あたしに対する暴言の内容を、撤回する意味も込めて、もう一度、言い直して……。四六時中、滝沢さんの裸を思い浮かべて、『あんなこと』をしたり、『こんなこと』をしたりと、淫らな妄想にふけってばかりいる、レズの変態女は、あんたでしょ? その事実を、自分の口から、具体的かつ明確な言葉で、公言しなさい。はいっ、顔を上げて、真っ直ぐ立って」
 香織に促され、涼子は、そろそろと腰の角度を戻していき、さながら、体育系の部活で、厳格な先輩部員を前にしている者のように、しゃんと背筋を伸ばした。そうして、頭の中で、香織の言ったことを反すうしながら、具体的かつ明確な言葉か……、と想像を巡らせる。しかし、右隣に立つ秋菜が、一連のやり取りに、少なからぬ嫌悪感を抱いたのだろう、汚物が真横にあるような眼差しで、こちらを見ているのだ。可能な限り、その彼女の感情にも留意しなくてはならない。
「はい! あのっ! もう、四六時中! 滝沢さんのことを思い浮かべて、それでっ!」
「違うでしょっ」
 香織に、言葉を遮られる。
「あんたの場合、思い浮かべてるのは、滝沢さんの『こと』じゃなくて、滝沢さんの、『裸』でしょ。は・だ・か。ぜ・ん・ら。そうよね? 往生際悪く、言葉を濁してんじゃないわよ」
 ここまで来たら、後は、どうにでもなれ、という気持ちになる。
「あ、ごめんなさい! そ、そうです! もう、四六時中……、滝沢さんの……、ぜ、全裸を思い浮かべて、あのっ……、おっぱいを、いやらしく揉んだり? あとは、下のほう、あそこも……、その、ま〇こ? そこまで、触ってみて、ぬ、濡れ濡れの状態にさせちゃってぇ……、滝沢さんの、あのっ、あ、あえぐ声? を聞かせてほしいなぁーっ、なーんて、淫らな妄想ばかりしてる、レズの変態女は! このわたし! 南涼子ですっ!」
 涼子は、自分の口から飛び出す言葉と、自分自身のアイデンティティーとの、はなはだしい不調和感に、くらくらと立ちくらみを起こしていた。
 はぁぁぁぁぁぁぁぁっ!? おい、お前、南涼子っ。よくもまあ、同性である女を相手にした、そんな淫猥な場面を、頭の中にイメージできたもんだなあ。本当に、お前、わたしなの? まあ、それはともかくとして……、わたしは、自分が、同性愛者だと思ったことは、一度もない。そもそも……、自分でも、とっくに、わかっているだろう!? それに当てはまるのは、相手側の女たちだってことを。レズビアンであることが確実、及びその疑惑に満ちた者は、一人、二人……、三人? いや、もっと増えるかも。下手をすると、この場に居合わせている、わたし以外の全員、レズなのではないか……? そう。南涼子、お前は、レズの女たちに、全裸姿にさせられ、周りを取り囲まれているという状況なんだよ。だから、どいつもこいつも、わたしのこの体を、見て、触って、性的興奮を覚えているということ。屈辱だろう!? これほどの屈辱を味わわされて、棒立ち状態になっている女子高生が、この世のどこにいる? お前に、ほんのわずかでも自尊心が残っているのなら、全力で抵抗しろ、南涼子っ。
 待って! やめて! わたしの気が狂いそうになることは、もう主張しないで。そんな……、わたしのことを、なぶり者にするために集まった、四人と、本来なら、『仲間』のはずだった、裏切り者の、計、五人が、偶然にも全員、レズビアンだったなんて、到底、考えられない。この学校は、女子校という環境のせいもあって、同性愛の傾向のある生徒が多い、だなんて思考を持ち始めているのなら、それこそ、馬鹿げた偏見じゃないの。とにかく、今日この場で、激情に駆られるまま行動を起こすことだけは、ご法度よ。たしかに、忍耐の臨界点は、とっくのとうに超えている。けど、いずれ、この生き地獄の時間にも、終わりはやって来るんだから。そうして、あの地上への階段を上がり、ひとりの、まともな人間として、帰宅することができたなら……、わたしは、まだ、未来の光を信じて生きていけるよね、南涼子さんっ。
「聞いた……? 滝沢さん。要するに、南さんにとって、あなたは、恋愛対象であると同時に、最高のオナネタだったってことよ」
 香織が、いくらか機嫌を直し始めたような顔つきで、秋菜に話を振る。
「もぉぉぉう、この女の存在自体が、許せなくなってきた……。三年で同じクラスになってから、今日に至るまで、この女は、まるで、虫眼鏡を使って調べるみたいにして、わたしの体に関するデータを、収集し続けてきたに決まってるわ。吉永さんの言うとおり、その……、オナネタにするために。想像しただけで、身震いしそうな話だけど。もう二度と、わたしの体を、そういう目で見ることができないよう、いっそ、この女の目玉をくり抜いてやりたい気分よ」
 滝沢秋菜は、あたかも、自身のほうこそ、性暴力の被害者であるかのごとく、ぎゅっと両肩を抱き、両手の爪を立てた。
「まあ、暴言のほうは、南さんが、自分自身のことだと認めたから、よし、として、あと問題は、あたしの体を、勢いよくど突いてきたことよね。あたし、肩が外れたかと思ったもん」
 香織は、その物理的衝撃を思い起こしているのか、右手で左肩を撫でさする。
 涼子としては、邪魔な荷物をどかす程度の力で、軽く突き飛ばしただけ、という感覚だったのだけれど。
「南さんさあ、あなた、女にしては、けっこうデカいし、何より、バレー部のキャプテンを務めてるだけあって、屈強ぶりを見事に体現した、アスリート体型だよね。それなのに、一般人のあたしに、暴力を振るうなんてさ、まさに、凶器で人を殴ってるようなもんじゃん? あなた、そんな卑劣なことをするために、今まで、体を鍛えてきたってわけ? 自分で、恥ずべきことだと思わないの?」
 香織は、いかにも説教ぶった口調で言う。
 その時、涼子のなかで、またもや、対照的な主張をする二人の自分が、激しく衝突した。
「ええっと……、なんでしょっ……。そのことについては……、わたし、今は、裸足なんで……、吉永さんに、あのっ、足を踏みつけられた時、悲鳴を上げそうなくらい、痛くて、ついつい、手を出しちゃったんですけど……。あ、でも! どんな理由があれ、わたしみたいな体つきの女が、吉永さんのことを突き飛ばしたら、その時点で、ほとんど犯罪に等しいですよね……? もう、弁解の言葉もございません。なので……、何をしても、許されることじゃないのは、承知の上なんですけど、いち体育会系女子として! 猛省している姿を、精一杯、示させていただきます!」
 涼子は、そう宣言すると、取っ組み合いの喧嘩をするような勢いで、自分の右頬に、右の手のひらを打ちつけた。続けて、左頬にも、左手で、同等の威力の平手打ちを加える。
「反省っ! 反省っ! 反省っ! 反省っ!」
 声を張り上げながら、まるで、バレーの大事な試合を前に、自らを奮い立たせる時のごとく、右手と左手を交互に使い、自分に対して、ビンタを繰り返す。一発一発、頬を張るごとに、大きく鳴り響く、ばちんばちんという乾いた音。そうして、十往復くらい終えた頃にもなると、もはや、両の頬は、燃え上がったように熱くなっていた。
 香織はというと、一時的に、涼子に対する害意すら忘れたのか、すっかり目を丸くしている様子である。
 涼子は、手応えを得たので、さらなるパフォーマンスを見せることに決めた。
「あと、自分へのお仕置きとして! セルフで、おしり叩きもしておきまーっす!」
 香織に満足感を与えるべく、両の手のひらで、自分のおしりを荒々しく叩く。おしりの表面は、あぶら汗にまみれているせいで、一発、二発、三発と殴打するごとに、あたかも、牛レバーの生肉ブロックを、地面に打ちつけたかのごとき破裂音が、豪快に響き渡った。
 おいおいおい、南涼子。あんまり、わたしを、がっかりさせないでくれ。わたしは、毎日、毎日、思い出すだけで、気が遠くなるような、過酷な筋トレのメニューをこなし、一心不乱に体を鍛え上げてきた。たしかに、その一番の目的は、他人を暴力でねじ伏せることなどではなく、もちろん、ジャンプ力やスパイク力、瞬発力といった、バレーにおける競技能力の向上だった。だけどだよ? 理不尽な攻撃を仕掛けてくる者がいたら、それが誰であろうと、最終的には、パワーで対抗できるような、そんな強い女になるのも、大事なことだったんじゃないのかよ!? それなのに、なんだよ、このザマは……。お前、自分でも、薄々は気づいているんだろう? わたしは、すでに、精神的にも肉体的にも、壊れる寸前だ。人型の肉塊のイメージが、脳裏に浮かぶか? 刻一刻と、その状態に近づいているんだよ。そして、悪魔すら青ざめるほどの、この奸悪な女たちは、わたしのことを、本気で『壊したがって』いるんだ。人間というものは、一度、壊れたら、二度と、本来の健康を取り戻すことはない。つまり、このままだと、わたしが、人生そのものを奪われるのは、時間の問題だということ。ならば、戦え。わたしの最大の武器ともいえる、腕力を用いて……。なに? そんな暴挙に出たら、後々、滝沢の策謀によって、わたしは、学校の門を、くぐれなくなる事態に追い込まれる? もう、そのことについては、残念だけど諦めるしかないじゃん。だからさ、いっそのこと、どれだけ憎んでも憎み足りない、五人の女、全員、体中の骨を粉々にするつもりで殴りつけて、再起不能の体にしてやった上で、自分から、潔く退学届を出すんだって。要するに、この女たちと、人生を刺し違えるってことだよ。それしか、自分の誇りを守る方法はない。拳を振り上げろ、南涼子っ!
 待ってよ……。わたしは、まだまだ、狂いもしなければ、倒れもしない。今となってはね、逆に、妙なエネルギーが湧いてくるの。こんなところで、絶対に、壊れてたまるか、って……。それに何より、わたし、光の見えない人生を、とぼとぼと歩いていくことだけは、どう考えても耐えられそうにない……。でも、だけど……、もしも、本当に、人型の肉塊みたいな人間になっちゃったら、ごめんね、南涼子さん。
「あっらー、驚いたぁ。南さんのおしりったら、すこぶる、いい音が鳴るじゃないの。ただ単に、おしりの表面を叩いてる、っていうより、なにか、肉そのものが弾け飛んだような、ダイナミックな響きで、おしりの迫力とか、弾力性とかが、まさに、手に取るように伝わってくる、っていうか……」
 香織は、半ば、気圧されている様子で言う。
「さっき、香織先輩も、間近で見たから、わかってると思いますが、南せんぱいのケツ、汗で、でらでらと濡れ光ってる状態でしたから、その水気の影響じゃないですか。べちゃーん、べちゃーんって……、なんとも言えない、淫靡な音」
 後輩は、おどけたように肩をすくめる仕草をする。
 そんな二人の反応は、今の涼子にとって、内心、ガッツポーズものなのだった。
「そそそ、そうそうそうっ! 石野さん、ずばり、そのとおりなんですっ! わたしのおしり、全体が、汗! っていうか、粘っこい油? みたいなのに覆われてまして! そのせいで、めいっぱいの力で叩くと、どうしても、かなぁーり品のない、ハレンチ? な音が、鳴っちゃうんですよねー。ごめんなさいっ! 聞き苦しかったですかね!?」
 涼子は、なおのこと勇み立ち、あぶら汗にまみれた、おしりを、両手で、二度、激しく叩き、水気と油気を多分に含んだ、下品な破裂音を響き渡らせた。そうして、愉快なことなど、何一つないというのに、ははははっ、と笑う。
「なんだか、その音、聞いてたら、南さんへの懲罰として、あたしが、おしり叩きするのも、いいかなって思ってきちゃった。思いっきし、ぶっ叩いたら、なかなか、爽快な気分を味わえそうだしぃ。それで、南さんのおしりが、真っ赤に腫れ上がるくらい、叩き続けてやりたいね……。ねえ、南さん。本当に、心から猛省してるのなら、甘んじて、それを受け入れられるでしょう?」
 香織は、上目遣いに、こちらを見上げる。
 叩かれる痛みを心配する気持ち以上に、香織の手で、おしりを触られること自体に拒否感を覚えるが、今の涼子に、首肯する以外の選択肢はないのだった。
「あっ、はぁい! もちろんですぅ。わたし、罪を償えるのであれば! 喜んで、この身に、罰を受ける所存であります! むしろ、ぜひ! ぜひ! よろしくお願いいたします!」
 涼子は、積極性を示して申し出る。
 すると、右手側にいる滝沢秋菜が、にわかに口を開いた。
「吉永さーん。その程度じゃあ、手ぬる過ぎますって。なんていったって、この女は、奴隷の身分であるにもかかわらず、吉永さんに乱暴を働いた、大罪人なのよ? もっともっと、厳しい処罰を与えるべきでは……? そこでなんだけど、わたしに、いい考えがあるの……」
「うん?」
 香織は、秋菜に発言を促す。
「都合のいいことに、ここの上は、体育倉庫よね? だから、体育で使う、ソフトボール用のバットが、収納されてるはず。つまり……、その金属バットで、この女の生ケツに、ケツバットを喰らわせてやるの。もちろん、フルスイングで。それを、そうだなあ……、二十発とか、いかがでしょう? この女は、奴隷としても、最底辺の愚か者ですから、それくらい、痛い目を見ないと、自分の犯した罪と、向き合えないと思うんです」
 涼子のほうが手を出した場合、といっても暴力と呼ぶような範疇ではなく、最低限の自己防衛に過ぎなかったのだが、いずれにせよ、その場合は、懲罰として、同じく身体的な暴力で、それも、百倍以上にして返すべきだというのが、調教役たる滝沢秋菜の持論らしい。
「なるほど……。いくら根性の塊のような南さんでも、フルスイングしたバットで、おしりを打たれたら、一発一発、痛みで飛び上がりそうになるだろうねえ……。半分の、十発も打った頃には、もう、南さんのおしり、そこらじゅう、青黒く変色して、全体的に、肉が、ぶくぶくに膨れ上がった状態になりそう……」
 香織は、乗り気になっているのかもしれない。
「うわぁ……。ただでさえ、汚らしい見た目の、南せんぱいのケツが、よけい醜くなるなんて……、もう、グロ画像みたいに、二目と見られない有様になりそう……。悲惨すぎぃ」
 後輩が、苦笑混じりにつぶやく。
 涼子は、自分のおしりの右下部に、そっと触れた。先ほど、明日香に、革靴の底で蹴られた部分だ。指先で傷口を確かめてみると、ぴりっとした痛みを感じる。バレー部では、これまでに、数え切れないくらい、怪我を押して試合に出場してきた経験があり、それゆえ、自分は、肉体的な痛みには強いほうだと、漠然とした自負心を持っている。だが、この話の流れを聞いていると、振り切られた金属バットが、おしりにめり込むたび、激痛に叫び声を上げている、自分の姿が、まざまざと目に浮かび、その近い未来に対する恐怖心から、動悸が早まってくる。
「あ、待って……。やっぱり、ただ単に、南さんのおしりをいたぶるだけ、っていうのは、今一つ面白味がない気がしてきた……。懲罰は懲罰でも、南さんには、なんていうか、もっと、こう……、奴隷にふさわしい、懲罰を与えてやりたくてね……。たとえて言うとさ、漫画とかで、よくある、焼きごてを使って、奴隷の体に、焼印を押すみたいな?」
 香織は、涼子に制裁を科す話となると、現実とフィクションの境目すら見失うのだろうか。
「はあ、なるほど……。では、焼印の代わりとして、入れ墨なんか、どうです? 針と、書道で使う墨が、用意できれば、あたしたち素人でも、その真似事くらいは、できそうじゃないですか? 南せんぱいのデカケツに、『奴・隷』の二文字を彫り込んでやったら、面白い絵になりそう……。案外、哀れなことに、二十歳を過ぎても、その文字が残ることになったりして」
 どこまで本気なのか、判断が付かないが、後輩には、猟奇趣味に傾倒する傾向があるらしい。
「まあね、方向性としては、間違ってないんだけどね……、あたしも、ちょうど今、ひねりの効いたアイディアが、ぽっと浮かんじゃってさ……。ねえねえ、おしりに、一、二週間は消えそうにない、歯型を付けるなんて、名案じゃなぁーい?」
 香織の発言は、涼子にとって、首を傾げるしかない内容だった。
 後輩も、怪訝そうな顔をしている。
「ハガタ? 歯? 歯で噛むってことですよね? でも、自分で自分のケツに噛みつくなんて、不可能じゃないですか? それとも……、まさかとは思いますが、ほかの誰かが?」
「ちょうどいいところに、適任の子がいるじゃないの……」
 香織は、なにやら、涼子の足もとのほうに目をやる。
 その視線の先は、自分の背後であるとわかり、涼子は、とっさに振り向いた。真後ろ、距離にして、二歩ほどのところに、一年生の足立舞が、ちょこんとしゃがみ込んでいるのを見て、ぎょっとさせられる。
 いったい、いつから、そこに……!?
 今、舞の見開かれた目が、自分の陰毛部に釘付けになっていることを悟り、涼子は、ついつい、その視線を遮るように、左手を、Vゾーンの前に動かしていた。それから、もう一点、疑問が生じる。
 あんたは、なんのために、そこにいたの……!?
 いや、そのことに関しては、即座に推測できた。
 おそらく、舞は、涼子の裸体の後ろ側、つまり、ボリュームに富んだおしりを、近距離から目に焼き付けたいという、性的欲求に突き動かされるがまま、その場まで移動してきて、目線の高さを合わせるため、体勢を低くしたに違いない。それからは、ずっと、涼子のおしりの大きさや形状、肌質、肉質、さらには、汗の噴き出し具合に至るまで、それこそ舐め回すように、子細に観察していたことだろう。そのことを思うと、涼子は、屈辱感という名の炎に包まれ、なにか、自分の魂まで焼けただれていく様を、目の当たりにしている気分になった。
「はい、南さん。奴隷らしく、目上の人に対するように、舞ちゃんに、頭を下げてお願いして。わたしのおしりを、思いっ切り強く噛んで、血が滲み出るくらいの、歯型を付けていただけませんか? ってね」
 香織が、冗談にしか聞こえないことを要求してくる。
「えっ、えっ、えええぇぇー!?」
 涼子は、思わず、大きくのけ反ってしまった。
「名案と言われれば、名案かもですが……。もし、それを、舞ちゃんが承諾してくれるとしても、南せんぱいの、いかにも、極太うんこをひり出しそうな、このケツを見れば見るほど、とにかく、衛生面が問題に思えてきますよね。噛んだりなんてしたら、相当、高い確率で、病原菌やら、寄生虫の卵やらが、口から体の中に入って、食中毒みたいな症状が出そうだし」
 さゆりが、ふしししっ、と笑いながら指摘する。
 涼子は、香織のほうに向き直り、異議を唱えたかったが、舞に対して、おしりを無防備にさらすことに、強烈な抵抗感を抱く。しかし、舞にとっては、涼子が、今、左手で半分ほど隠している、ジャングルと形容されそうな陰毛の茂みも、並々ならぬ興味の対象なのである。そのため、躊躇はしたものの、身を反転させ、ふたたび、舞に背中を向ける格好となった。
「あのっ……。吉永さんには、お言葉なんですけど……、わたしも、石野さんの意見に、同感ですっ。えっと……、歯型ってことは、つまり、その……、わたしのおしりに、口? を、じかに付けるんですよね? そうですよね……? そっ、それ……、ヤバすぎますって! だってだってぇ! わたしのおしり……、部活の練習中から、めちゃめちゃ蒸れてたし、おまけに、今は……、あ、あぶら汗が、だらだらと、止めどなく、噴き出してくるような始末でしてぇ……。だから、なんだろっ……、たちの悪い、ばい菌とかが、うじゃうじゃとこびり付いてるのは、確実なことだし、そんなところに、口なんて付けたら、その……、石野さんも、指摘してくださったとおり、十中八九、感染症にかかっちゃいますよぅ……。たとえて言うと、学校のトイレの床を舐めるよりも、危険な行為? みたいな? あ、あと、とくに、わたしのおしりだと、だ、大腸菌の温床にもなってるはず! 大腸菌って、場合によっては、重篤な症状を引き起こしかねないっていう、怖いイメージが、わたしのなかには、あるんですけど……。なので、わたしのおしりに、歯型を付けるなんて、舞ちゃんにとって、いったい、なんの罰ゲーム? って感じぃ」
 口を動かしながらも、今、背後にいる舞が、涼子のおしりの、どういった点に着目しているのか、という思考が、頭から離れない。それにしても、いったい、何が悲しくて、思春期の女の子が、自分のおしりの不潔ぶりを、必死にアピールしなくてはならないのか。
 その時、背後から、蚊の鳴くような声が、耳に届いた。
「南先輩の、おしりを……、かじるんですかぁ……?」
 それに続いて、涼子の立ち位置へと、舞が、しゃがんだ姿勢のまま、じりじりと迫り寄ってくる気配を、背中に感じた。
 ほどなくして、どうやら、その動きが止まったらしいと悟る。
 気配から察するに、涼子が、あと一歩、後ろに脚を引いたら、舞の体にぶつかる、といった間隔だろう。
 わずかながらも距離があり、なおかつ、顔の高さが、だいぶ違うものの、しかし、それでも、舞が、はあっ、はあっ、と切なげな吐息を吐いている音は、耳を澄まさずとも聞こえてくる。
 涼子は、ぞわっと恐怖を覚えた。
 まさか……、と思う。ひょっとして、舞は、すでに、『その気』になっているのでは……?
 そこで、ふたたび、舞は、小声でつぶやく。
「うわぁ……。なんか、臭ってきたぁ……。南先輩の、体臭……? っていうか、おしりの、汗の臭いなのかな……? 息が詰まるくらい、むんむんするぅぅぅっ……」
 声の発せられる位置からして、舞が、涼子のおしりに、あからさまに顔を近づけている感じではない。にもかかわらず、嫌な臭いが、もう、舞に伝わっているということ。となると、自分のおしりは、その表面全体を覆った、あぶら汗のせいで、想像以上に、臭気を放っているのだと推量される。涼子にとっては、自己嫌悪の底無し沼に、ずぶずぶと沈み込んでいくしかない状況だった。
 それから、まもなくのことである。
 おしりの右半分の、そのもっとも肉の盛り上がった部分に、突如、一本の指を、ぐにっと押し込まれ、涼子は、全身の筋肉が突っ張るような感覚に襲われた。むろん、舞の指である。たぶん、右手の人差し指だ。
 いったい、どういう意図なのだろうか……?
 いや、そのことについても、すぐに、おおよその見当は付いた。
 舞にしても、その行為が、三年生の先輩である涼子への、明らかな性的侮辱に当たることくらいは、当然ながら承知しているはずだ。しかし、そんな善悪の判断など、涼子の肉体に対する、嵐のような興味の前では、まったくもってどうでもいい問題なのだろう。
 人間のおしりの肉質。柔らかさ、脂肪の付き具合、筋肉量、弾力性などは、たとえ、近距離から観察したとしても、視覚では、ろくに確かめられない。だから、舞は、その人差し指の先端に伝わる触感から、涼子のおしりの肉質を、背徳的好奇心の赴くままに推し量っているに違いなかった。
 たっぷり、三十秒ほど経つと、ようやく、涼子のおしりの弾力に押し返されていくような形で、舞の、その人差し指が、おもむろに引いていくのを感じた。
 ここで、何もアクションを起こさなければ、再度、舞から、なんらかの性的行為を加えられると直感し、涼子は、もはや、居ても立っても居られない心理状態におちいる。
「あ、あの! 吉永さんっ! や、やっぱしぃ、わたしは、腕っぷしに、それなりに自信があるのをいいことに、吉永さんに対して、手を出してしまったわけでしてぇ……、懲罰としては、この体に、その何十倍もの痛みを受けるほうが、わたし自身、身をもって猛省することができる、って思うんです! た、たとえば、さっき、吉永さんがおっしゃっていた、おしり叩きでしたら、それこそ、わたしのおしりが、真っ赤に腫れ上がるくらい、叩き続けてください! あっ、も、もう一度、お聞きになりません? わたしの、この、おしりを叩く音! 吉永さんも、思いっ切りぶっ叩いたら、間違いなく、爽快感、抜群ですよお!?」
 先ほどと同様、両手で、二度、自分のおしりを荒々しく叩き、地面に打ちつけられた生肉のような、ひどく下品な破裂音を、地下の空間全体に響き渡らせる。
 すると、その直後、背後にしゃがみ込んでいる舞が、わわわわわっ、と困惑気味の声を出した。
「どうしたの? 舞ちゃん」
 香織が、優しく尋ねる。
「南先輩が、おしりを叩くたび、でっかいおしりが、ぶるんぶるんって揺れまくって、そのせいで、ばっちい汗が、あたしの顔に、びちゃびちゃ飛んできたんですよぅ……。もう、サイアクゥゥゥゥッ」
 その嘆き方が、はなはだ嘘っぽく聞こえるのは、舞が、内心では、涼子の後ろ姿を見ながら、はしゃぐようにして笑っているためだろう。
 涼子としては、いっそのこと、後ろ蹴りを喰らわせ、舞の体を、遠くまで吹っ飛ばしてやりたいところだった。が、その衝動を、どうにか抑え込み、思案を巡らせる。
 今日この場で顔を合わせてからというもの、涼子に対する性的欲求をむき出しにしてきた舞であるが、つい今し方、香織が考案、決定した『懲罰』には、その内容の異常さ、不潔さから、さすがに、強い拒否反応を示すものと予想した。というより、そう固く信じていた。しかしながら、それからの、舞の言動からすると、むしろ、その行為に心惹かれているのではないかと、そう疑念を抱かずにはいられないのだ。
 それゆえ、自己防衛のためには、とにかく、舞を引き下がらせるべきだと判断を下す。そうして、くるりと身をひるがえすと、舞と目線を合わせる形でかがみ込んだ。
 今、目と目を見合わせている相手は、まだ、公園で、鬼ごっこをして遊んでいる小さな子供のような、やけに容姿の幼い一年生なのだ。その彼女から、たった今も、性的侮辱を受けたことを思うと、改めて、忌まわしさを覚える。しかし、そんな感情とは裏腹に、涼子は、得意としている、とびっきりの笑顔を作ってみせた。
「ごっめーん、舞ちゃーん。わたしのおしりの汚い汗、お顔に、飛び散らしちゃってぇ……。そりゃあ、サイアク、だよねー? でもさ、でもさ……、そんなに、わたしの真後ろまで、寄ってくる必要って、あったかなあ? まさかとは思うけど、わたしのおしりに、歯型を付けるなんて、罰ゲームみたいなこと、引き受けるつもりじゃないよね!? まさかね!? もし、引き受けるっていうのなら、舞ちゃんって、おバカさんなんだなって、わたし、もう、どん引きぃぃぃぃぃぃぃっ! だってさ、常識的に考えて、舞ちゃんには、デメリットしかないんだもん。そんなの、絶対に嫌だよねっ……? だけどもぉ、そんなところにうずくまってると、その貧乏くじ、無理やり押しつけられちゃうぞっ。ささっ、そうなるのを避けるために、急いで、バック! バック!」
 両の手のひらを、舞のほうに、ずいっと突き出す。
 ところが、数秒間、待ってみても、舞に、動きだす気配はない。
 息苦しい沈黙が流れており、涼子としては、苛立ちが、加速度的に募る一方だ。
 なにやら、舞は、言葉を探している様子である。やがて、ようやく、その口が開かれた。
「でも、南先輩に、『チョーバツ』を与えるのはぁ、あたしの役目っぽいですしぃ……」
 話が噛み合わない。こちらは、舞に、主体的な判断を求めているのだが、彼女のほうは、とんちんかんな言い訳で、それをはぐらかしている。おそらくは、意図的に。つまり、それだけ、涼子への懲罰に、乗り気になっているとしか思えなかった。
 涼子は、自分の顔から、笑顔が消えていくのを自覚した。
「あっ、ああうんうん……。吉永さんから、適任として選ばれたんだったねー? けど、その一方で、石野さんは、衛生面のこと、指摘してくれてたじゃない? ねえ、舞ちゃん、よーく考えて? わたしのおしりに、歯型を付けるなんてことしたせいで、なんらかの感染症にかかって、明日、明後日くらいに、ものすごいお腹が痛くなったり、何度も吐くようなことになったりしたら、どうするの? お父さん、お母さんに、本当のことを言える? 言えないよねえ? 危険な症状が現れてるのに、誰にも相談できないって、下手をすれば、命に関わってくる事態だと思わない……? あのっ、ごめんね? なんか、脅すような言い方になっちゃって……。だけども、今回の件では、わたし、本当に、舞ちゃんの体が心配でさっ。悪いことは言わないから、やめておきな? ね? ねっ?」
 捨て身の覚悟での説得だった。
 しかし、舞は、終始、目を合わそうともせず、つまらなそうに指をいじっており、話が終わると、はぁーっ、とため息を吐いた。やれやれ、うっとうしいなぁ、とでも言いたげに。
 舞のその、人を人とも思わぬような態度を見て、涼子は、失意に打ちひしがれ、生きる気力そのものまで失ってしまいそうになった。
 もはや、舞に対する疑念は、確信に変わっていた。
 すなわち、舞は、涼子に、淫らな懲罰を与えられるということで、密かに、しかし、小躍りせんばかりに浮き立っているのだ。もっというなら、涼子の裸体に、それも、臭い立つような性的部分に、自身の唇をじかに付け、背徳感に満ち満ちた快楽を貪りたいのだ。
 後ろの香織から、声を掛けられる。
「ミ・ナ・ミッさぁーん。あなた、何か勘違いしてない? なによ、やめておきな、って。舞ちゃんだってねえ、やりたくてやろうとしてるわけ、ないじゃないっ。なにせ、この懲罰を与えるのは、考案したあたしが言うのも、なんだけど……、キショすぎ、汚すぎ、それに……、衛生面を考えたら、危険すぎ? のサンKが見事に揃ってるんだから。それでも、南さんが、罪を償えるならと、その汚れ役を、引き受けてくれようとしてるんでしょう? あなたは、懲罰を、『受けさせてもらう』側なの。だから、最低限の礼儀として、まずは、あなたのほうから、舞ちゃんに向かって、深く頭を下げて、懲罰を、お願いしなさい」
 そんな懲罰など、受けられるはずがない……。ほんのわずかでも、プライドが残っている女の子であれば。
 舞はというと、まん丸に近い大きな目を、ぱちくりしながら、こちらを見返してくる。そして、その口もとは、かすかながら、含み笑いの形を示していた。
 今の涼子にとって、その舞の顔つきは、デスマスクよりも不気味に感じる代物だった。
 やだやだやだ、絶対に、いや……。
 涼子は、意を決して、すっと立ち上がると、身を反転させ、ふたたび、香織と相対し、舞に、背中を向ける格好となった。
「吉永さんっ。無礼を承知の上で、申し上げます……! 懲罰としては、わたしのおしりを、真っ赤に腫れ上がるくらい、叩き続ける、という案を、真剣に検討してくださらないでしょうか? あ、えっとぉ! 誤解しないでいただきたいのですが、これは、わたしの、そのっ……、感情の問題とかではなくって、ですね、もし、わたしのせいで、舞ちゃんの身に、何かあったら、きっと、大人たちが介入してきて、真相が、追求され始めるんじゃないかなあーって、思いまして! もしも、そうなったら、吉永さんたちに、大変なご迷惑が……」
 訴えかけている途中で、腰の両側に、いきなり、手のひらを、びたっと張りつけられた。舞が、左右から挟み込むようにして、涼子の腰を押さえつけてきたのだ。
「えっ!? あ、あっ、待って……」
 どう対処すべきか狼狽していると、あぶら汗に覆われた、自分のおしりに、早くも、舞の吐息がかかってくるのを、肌で感じ取ったのである。
 それから時を移さずして、背後から声が上がった。
「うっひゃぁぁぁぁっ……。ひゃぁぁぁぁぁぁぁっ……。南先輩のおしり、くぅぅっさぁぁぁぁっい……。たしかに、さゆり先輩の言ったとおりぃ、超、不衛生なのが、丸わかりで、おしり一面に、こわーい病原菌とか、うねうねした虫の卵とかが、付いてそうで、鳥肌が立ってきちゃった……。やっぱし、口を付けてかじるなんて……、あたし、不安……。南先輩、おしりは、人に見られたり、触られたりしないから、不潔にしててもいい、とか思わないで、こういう時のために、ちゃんと、清潔にしておいてほしかったですよぅっ」
 子供は残酷。その言葉を彷彿とさせられる、純真なまでに思慮分別のない物言いだった。しかし、舞は、不快感に顔を離すどころか、逆に、涼子のおしりの超至近距離で、あからさまに、すんすんすんすん、と鼻を鳴らし始める。あたかも、これから口に入れる料理の、香ばしい匂いを、充分に堪能するかのように。
 涼子は、恥ずかしさのあまり、意識が遠くなっていくのを感じ、今この瞬間、自分が、地面に足の裏を付けて立っていること自体に、自分自身で驚嘆する。だが、これ以上の苦痛をこうむったら、もう、身も心も、壊れてしまうであろうことを、本能が察知していた。そう……。もしも、自分のおしりに、舞が、口をくっつけ、そこに、歯を立てるという行為に及んできたら……。その時のことを想像すると、五臓六腑までもが、悪寒に縮み上がるような感覚を覚える。と同時に、脳裏には、またぞろ、人型の肉塊となって、コンクリートの地面に転がっている、自分の光景が、いかにも不吉めいた白黒映像でちらついた。
 わたし……、今度という今度こそ、本当に、そうなっちゃう……。
「南先輩のおしりってぇ、表面の肌も、くさいけど、おしりの中は、もぉーっと、もぉぉぉーっと、何倍も、くさいんですかねぇ……? やらしいことなのかもですけど、あたし、すごい興味が湧いてきちゃったんで、ちょっと、臭い、確かめさせてくださいっ! 南先輩、いいですよね? お願いしますっ!」
 腰の両側を押さえていた、舞の両の手のひらが、涼子のおしりの表面を、中央部に向かって、ぬるぬると滑っていく。まもなく、おしりの割れ目に、両の親指をかけられたのがわかり、涼子は、反射的に、体力を総動員して、大臀筋に力を入れた。まさに間一髪だった。しかし、舞のほうも、非力ながら、あらん限りの力を使っていると思われ、無理やり、おしりの割れ目を押し広げようとしてくる。
 涼子は、我知らず、かっと目を見開いていた。
 このクソガキ……! 臭いを確かめたいだってえ!? わたしの体の、もっとも汚い部分の臭いを……? それが、二個下の後輩のやることか! 同じ女のやることか! させない……。わたしが、こうして、自分の両脚で立っていられる限り、そんなことは、絶対に、やらせない……!
 そうして、涼子のおしりの割れ目を、こじ開けようとする側と、一分の隙もなく閉じておこうとする側の、両者の攻防は、いつ終わるともなく続くのだった。
「あっ! 毛が見えてきたっ! こんなところにまで、びっしり毛が生えてるぅ……。えええぇぇーっ、なんか、見た目が汚くって、やだなっ、こういうのは……。南先輩、いくら、ボーイッシュっていうか、男みたいに、ワイルドな、スポーツ選手だからって、いちおう、女の子ですよねぇ? なのになのに……、ここまで、身だしなみが、悪いなんて、想像もしてなかったですよぉぉっ……。はっきり言って、幻滅もんですっ」
 舞は、まるで、それが、道徳に反していることだとでも言いたげに、咎め立てるような口調で告げてくる。おそらく、涼子の背後を取っているという、心理的余裕と、それに、彼女の精神年齢の低さが相まって、増長していく自分自身に、歯止めをかけられなくなっている状態なのだろう。
 ただ、なんにせよ、まだ、おしりの割れ目を、深部まで押し広げられたという体感はない。だから、いわゆる、Oゾーンの毛について指摘されたとはいえ、不浄の穴までは覗かせていないはずだ。たぶん、もっと浅い部位、割れ目に沿って、左右の肉の内側に生えている縮れ毛を、今、舞に見られているに違いない。
 涼子は、自分の肉体が、中学を卒業してまもない一年生に、慰み物として扱われていることを、骨身に染みて自覚させられたが、だというのに、手も足も出せないどころか、やめて、と叫ぶことすら許されない、この身の上が、ただただ呪わしかった。

 目の前で、事のなりゆきを注視している、香織が、ふてぶてしさ全開の表情で言う。
「ねえ……、どうして、南さんは、自分のほうから、舞ちゃんに、懲罰を、お願いしようとしないわけ? もしかして、痛い思いをするのが、怖いの? だとしたら、見た目に似合わず、けっこう臆病なんだね……。でも、だいじょうぶだよ。たぶん、痛み自体は、それほどでもないはず……。それとも、なに? どうしても受け入れられない、何か、特別な理由でも、あるわけ……? ないよねえ? なにしろ、奴隷なんだから。もう、何もかも捨て去ってて、大事なもの、守るものなんて、何一つとしてないはずでしょう……? まあ、なんにしろ、いつまでも、その状態で、舞ちゃんを待たせ続けても仕方ないから、南さんが、いくら意思表示しなくても、あと一分ほどしたら、舞ちゃんに、ゴーサインを出すからね?」
 その後……、涼子は、視界全体から、色彩が、徐々に失われていくのを目にしていた。あたかも、脳裏に映し出されていた、白黒映像の世界が、現実に重なり始めたかのように。これは、きっと、本能からの最終通告なのだろう。この身が、人型の肉塊と化した、その光景は、もうすぐ、現実のものとなる……、と。
 にもかかわらず、できることといえば、全精力をもって、おしりの肉を引き締め、割れ目を押し広げようとする、舞の指の力に対して、抗い続けるだけ、という有様の自分がいる。そうして、今の自分が、どれほど絶望的な状況下にあるのか、それを漠然と理解したとたん、体のありとあらゆる細胞が、南涼子という人間の終わりを悟り、恐慌をきたしたかのごとく、けいれん発作に似た、体中の震えの症状が起こり始めた。
 香織は、目をぎらぎらと輝かせながら、さらに喋り続ける。
「ねえ、舞ちゃん……。歯型は、おしりの、なるべく肉付きのいいところに付けてね? そっちのほうが、見栄えがいいからさ。それで、わかってるとは思うけど、甘噛みした程度じゃあ、懲罰を与えたことにならないの。きっちりと、一、二週間は消えそうにない、血が滲み出るくらいの、赤い歯型を付けるんだよ? まさに、奴隷への焼印のような、ね……。あ、でも、がぶっ、て思いっ切り強く噛んだら、南せんぱいのおしりの皮下脂肪に溜まってる、あぶらだらけの、きいぃぃったない肉汁が、じゅわっとあふれ出てきそうだねえ……。どうする? その肉汁。すすって、どんな味がするのか、確かめてみる?」
 すると、舞は、まんざらでもなさそうに、えへへへへっ、と笑い声を漏らした。
 今や、涼子の視界は、完全に白黒世界へと変わっていた。
 そのせいもあり、やたらとリアルに思い浮かんでしまうのだ。コンクリートの地面に、全裸姿で横たわっており、まぶたは開いていても、何も視覚情報を取り入れていない、その瞳を、虚空の一点に向けたまま、だらしなく半開きになった口から、よだれを垂らしている、自分、南涼子。人型の肉塊と成り果てた自分の、そのイメージが、幻覚のように眼前に現れている。
 それゆえ、心の底から、そうはなりたくない……、と願った。
 と、そこで、人が、よく夢の中で体験するといわれる、あの、高い所から足を踏み外し、落下していくような感覚にとらわれた。落ちていく、落ちていく、どこまでも……。
 果たして、この感覚は、なんなんだろう?
 ああ、これは、強い恐怖を感じている状態だ。ものすごく純粋な恐怖であるがゆえに、逆に、それと気づかなかった。
 いわば、未知への恐怖である。
 極端な例としては、処刑台の前に引きずり出され、自身の命が絶たれる、その時が、目前に迫った者の心理状態を、まず想像させられる。そして、そうした状況に立たされた者たちと、今の自分自身を、重ね合わせて考えると、さしたる根拠もないけれど、半ば確信する。きっと、人間というのは、とてつもない根源的恐怖に襲われた場合、えてして、色彩の消失した世界の住人となるものなのだろう……。
「ん? どうしたの? 南さん……。どうも、目の焦点が、合ってないように見えるし、それに何より……、顔色が……、変。肌の色が濃いっていうか、だけど、全然、健康そうじゃなくて、なんだろ……、重度の薬物中毒で、きちんと栄養を取ってない人、みたいに、黒ずんだ顔色してる……。ねえ、そう思わない?」
 香織は、隣の後輩に訊いた。
「……言われてみれば、たしかに。なんか、ちょっと目を離した隙に、南せんぱいの、顔の見た目が、十歳以上、老けちゃったような、印象……。とにかく、生気が感じられないですよね」
 後輩も、真顔で答える。
「あ、あのっ……」
 涼子は、わらにもすがる思いで、口を開いた。
「……バ、バット。……バットをっ」
 その先、どう言えばいいのかと、思いを巡らす。
「バット……?」と香織。
「えっ、ええ……。吉永さんの手による、おしり叩きじゃあ、懲罰として、甘すぎるっていうんでしたら……、た、滝沢さんが、おっしゃってましたよね……? あのっ、ソフトボール用の、金属バットで、わたしに、その……、ケツバットをするって……。たしか……、二十発でしたっけ……? その案を、どうか! どうか! 検討してくださらないでしょうか!?」
 涼子は、清き一票をお願いする、議員候補者さながらの勢いで懇願した。
「あー、滝沢さんの案ねぇ……。正直、滝沢さんが、どこまで本気で言ってたのか、あたし、わからなかったんだけど……、でも、南さん、本当に、いいの? 耐えられる自信が、あるわけ? 金属バットなんかで、おしりを打ったら……、滝沢さんが言ったとおり、フルスイング? まあ、あたしも、やるとなったら、容赦しないし、一発一発、痛みで飛び上がるんじゃない? たぶんだけど……、十発も打ったら、その時点で、南さんのおしり、そこらじゅう、青黒く変色して、全体的に、肉が、ぶくぶくに膨れ上がると思うよ? そうなったら、そこからの後半が、地獄……。そのおしりに、さらに一発、もう一発と、バットを打ちつけていくから……、うん、ほとんど、拷問みたいなもんで、病人レベルのマゾヒストにしか、耐えられない懲罰になるだろうねえ……。あと、後遺症は、心配じゃないの? おしりの形、それ自体が、変わっちゃうはずだから、この先、五年くらい、綺麗に元通りには、ならなかったりして? いいのかなぁー。それに比べて、舞ちゃんに付けられた、歯型なんて、三週間もすれば、跡形もなく消えるはずだけどお?」
 おそらく、香織の予想は、間違っていないだろうが、しかし……。
「いえ! も、もう、金属バットで、わたしのおしり! めっためたの、ぐっちゃぐちゃにしちゃってください! そうして味わう激痛のなかでこそ、わたし、自分の犯した罪と向き合えるって……、そう確信しているんです! 肉体的ダメージのことで、ご心配いただいてるようですが! わたしは、絶対に、最後まで耐え抜く覚悟です! 根性、見せますので、どうか! 見届けてください!」
 涼子は、右手の拳を、腹の前で握りしめるジェスチャーをした。
 すると、香織は、人生を達観した老婆が、愚かな若者を眺めるかのように、その、つり上がり気味の目を細めた。
 不思議な沈黙が降りる。
 涼子としては、香織が、聞き入れてくれますように、と祈るしかなかった。
「ふーん……。激痛のなかでこそ、か……。立派な心がけだけど、その一方で、舞ちゃんのことを、妙に意識しちゃうところは、変わってないみたいね」
 香織は、極めて平板な声で言った。
「えっ……」
 涼子は、言葉を返せなかった。
「まあ、南さんにとっては、二個下の、それも、自分のことが好きで、告白の手紙まで手渡してきた、って子だもんねえ……。色々と、複雑なことを考えちゃう? なになに……? 舞ちゃんの唇が、まるで、キスみたいに、ぶちゅっと、自分のおしりにくっつく、って時点で、ありえない! って感じぃ? 舞ちゃんに、おしりを噛まれて、あまつさえ、汗まみれの状態のおしりの、肉汁をすすられるなんて、恥ずかしくて、やるせなくて、何より、屈辱で、狂い死にしちゃいそうなの?」
 香織は、青みがかった光を湛えた目で、真っ直ぐこちらに視線を向けてくる。
 何もかも言い当てられたがために、涼子は、すっかり返事に窮してしまう。あくまでも、プライドを捨てた姿勢を装いたかったものの、香織には、完全に内心を見透かされていたようだ。では、これから、自分は、どう振る舞えばいいのかと、途方に暮れる思いである。
「そうなんだね? 否定できない、ってことは……。まったく、なーにが、わたしの感情の問題じゃない、よ。もろに、あなたの感情の問題じゃないの。要するに……、南さんは、奴隷として尽くさせてほしいと、あたしに、頭を下げたくせに、女の子としてのプライドだけは、まだ、捨てきれてない、ってことね? もう、バレバレなんだから、素直に認めなさいよ」
 香織は、駆け引きに勝った気分なのか、むしろ、愉快げな表情で、そう迫ってくる。
 どう考えても、なおも、自分を取り繕うのは、見苦しい悪あがきとしか思われないはずだった。
「……はいっ。ごめんなさい」
 涼子は、消え入りそうな声で、ぽつりと口にした。
「あらあら、しゅんとなっちゃって。それにしても……、女の子としてのプライドを守るためなら、たとえ、ケツバット地獄、拷問みたいな肉体的苦痛であろうとも、最後まで耐え抜く覚悟がある、なんて……」
 香織は、なにか、感慨深げな口調で言うと、一呼吸、間を置き、そして言葉を続ける。
「ワンダフォォォォォッ! まるで、この世のすべてを焼き尽くす炎のように、猛々しく、同時に、霜に包まれた一輪のすみれのように、いじらしい、乙女心! なんて美しいものなんだろう……。南さんは、それを、胸に秘め続けてるわけね? 奴隷である以前に、ひとりの乙女だっていうのね?」
 ひどく答えにくい問いかけだった。
 であるがゆえに、その時、涼子は、哀れみの情を誘いたいという感情の表出か、無自覚のうちに、胸の前で、自然と両手を組んだのだった。その数秒後、これでは、いかにも、何かに祈りを捧げる、か弱い女の子みたいだな、と自分自身で認識する。
「なによ、なによ……。一気に、乙女っぽく見えてきたじゃないの……。よし、それじゃあ、表情やポーズで、もっともっと、あざといくらい、乙女アピールをしてっ。わたし、南涼子は、鏡を見るたび、一喜一憂して、人前で、お腹が鳴ったら、血の気が引くほど恥ずかしくなっちゃって、うんこ、なんて単語は、とてもじゃないけど、口にできない、いたいけな乙女なんです……、って。そうして、南さんの乙女心が、痛いくらい伝わってきたら、そんな女の子に、焼印を押される、奴隷みたいな屈辱を味わわせたり、おしりが変形するほどの、暴力を振るったりするのは、残酷な話だなってことで、あたし、懲罰を与えること自体を、考え直してあげてもいいよ?」
 香織は、ひひひひっ、と野卑に笑う。
 涼子は、希望の光を、目の当たりにした境地に至った。しかし、同時に、強いためらいを覚える。そもそも、人の気を惹くために、そうした、少女らしさのようなものを、前面に出す行為とは、ほぼ無縁の性格であるため、これ以上、どうすればいいのか、ほとほと困り果ててしまう。それに、現在、陰惨な性暴力の被害者という立場に立たされているにもかかわらず、感情を殺し、ことさら乙女チックな姿を見せるなど、それこそ、生身の人間のやることではないはずだ。
 おい! 南涼子っ……。お前、わかっているな!? 絶対に、絶対に、ここで、吉永の甘言になんか、乗せられるんじゃないぞ! 吉永は、わたしの女心を、とことん、もてあそんでいるんだ。わたしが、その場逃れのために、自分の品位を、考えうる限り最低のところまで落とし、まさに、絵に描いたような道化と化すかどうか、と……。そして、いずれにせよ、最終的には、わたしを、心身ともに壊しにかかる腹づもりであることは、明々白々としているんだから……。ん? ならば、どうやって、この絶望的な状況下から脱し、自分の誇りを守ることができるかって? お前には、言ったはずだぞ……。拳を振り上げろよ! とにかくさ、後ろにいる、レズのエロガキ、わたしの体に、何をしている? わたしの体の、どこに、指をかけている? まず、このガキの顔面に、今すぐ、渾身のバックキックを喰らわせろ! 今すぐに、だ……。なに? そんなことをしたら、洒落にならない重傷を負わせてしまう? いいじゃん。再起不能の体にしてやって、今後、二度と、レズとして、女の体に触れることの叶わない、悲しい人生を送らせてやろうよっ。
 その舞が、思い通りにオモチャを扱えない幼児みたいに、あーん、もぉうっ、と声をこぼした。おそらく、涼子のおしりの肉が、岩のように硬いほど引き締められているため、その奥の排泄器官が覗くまで、割れ目を押し広げるのは、困難だと諦めかけているのだろう。だが、今一度、おしりの浅い部分の肉を、ぐいっと左右に引っ張ってきたかと思うと、またしても、露骨に鼻を鳴らし始めた。しかも、気配というか、皮膚感覚に、それとなく伝わってくる感じからすると、今度は、涼子のおしりの割れ目に、鼻を押し当てんばかりにして、臭気を確かめているらしいことを悟らされる。
「やぁっだぁ……。たぶん、っていうか……、もう、二百パーセントくらい、確実に、南先輩……、おしり、ちゃんと拭いてないっ……! だってだって、この、おしりの中に溜まってる、ばっちすぎる汗……、臭いからして、病原菌とかが、いっぱい、含まれてるだけじゃなくて……、う、うんち……、の粒子? まで、混ざってるって、一瞬でわかっちゃいますもぉん……。あの南先輩が、まさか、ここまで不潔な体してたなんて……、なんだか、怖い夢の中にいる気分……。ああ、ダメだ。嗅いでると、あたし、頭が、くらくらしてきちゃうぅぅぅぅっ」
 今この瞬間、自分は、臨死体験をしているのではないかと、本気で思うような、非現実的なまでの恥辱。
 とうとう、この状況に耐えきれなくなり、より乙女チックな姿を、どうにか体で表現しようという気持ちが働く。ただ、けいれん発作に似た、体中の震えの症状は、依然として続いており、自分の体を、巧く動かしたり、また、静止させたりと、コントロールするのが可能なのかどうかすら、自信の持てない心持ちなのだった。
 しかし、涼子は、自我すら捨てる覚悟で、自分を奮起すると、胸の前で組んだ両手を、じわじわと持ち上げていき、左の頬に付けた。そうして、首を、左に三十度ほど傾けてみせる。おやすみポーズっぽいものを意識したのだ。むろん、それでも、気力を振り絞るようにして、大臀筋に力を入れ続けているのであるが。
「おおおっ……。いいじゃん、いいじゃぁーん……。まさに、真夜中、窓から夜空を見上げて、お星様に、あの人と結ばれますように、ってお願い事をする、うぶな乙女を思わせるポーズじゃないのぉ……。わりと板に付いてるところを見ると、南さん、さては、毎晩のように、そんなことをしてたんだなぁ……? あ、あれか? 南さんの場合は、大好きな滝沢さんと、エッチできますように、か……? 図星でしょ? なんで、わかっちゃったの? って、その顔に、はっきりと書いてあるよ……? だったら、表情も、今の南さんの胸の内を、ストレートに表すように、ちゃんと乙女っぽくして。恥ずかしそうに、それでいて、ちょっぴり拗ねたように、アヒル口、作ってよ。アヒル口!」
 香織は、いつになく気が逸っている様子でまくし立てる。
 もはや、後戻り不能な状況であるのは、川の流れのごとく明らかだった。しかし、普段、人とのコミュニケーションにおいて、相手が、同性か異性かに関わらず、そんな表情を、意図的に作る習性はないため、どう口もとの形を変えたら、それらしく見えるのか、その感覚がわからない。そのため、参考になる何かはないかと、日常生活を振り返ると、つと、テレビによく出演している、ある二十代の女性アイドルの顔が、頭の中に思い浮かんだ。彼女は、事あるごとに、視聴者、とくに男性受けを狙っていると思しき、涼子としては、正直、あまりいい印象を持っていない、いわゆる、アヒル口の表情を作ってみせるのだ。
 涼子は、その際の、彼女の口もとの形をイメージしながら、プリクラでキス顔をする女の子みたいに、思いっ切り唇を突き出した。それから、口の両端を、ぎゅっと、できる限り上げてみせる。半端なく自分にそぐわない顔つきだということは、ほかならぬ、自分自身が、一番、よくわかっている。しかし、それでも、その状態で、表情筋を固定したまま、どうにも焦点を合わせにくい目で、白黒世界の視界に映る、吉永香織に、『乙女アピール』のための視線を向ける。
 なあ……、南涼子。お前には、完全に愛想が尽きたよ。人間としての誇りを踏みにじられているのに、もう、その痛みすら感じていないんじゃないのか? まあ、いいや。そうやって、道化を演じ続けて、最後には、ナメクジみたいな肉塊に成り果てるといい。そして、お前は、生涯にわたって、気が触れるほど悔やみ続けるんだ。今日この日、血の色まで、どす黒いであろう、この女たちの顔面に、拳を叩き込まなかったことを……。あばよっ、南涼子っ……。
「きゃぁぁぁぁぁっ、かぁっわぁいぃぃぃぃぃっ! これが、強豪校として知られてる、バレー部のキャプテンか、っていうくらい、南さんの、別の一面を、見させてもらってる気分よ。あの、極太うんこのイメージを、ついつい連想しちゃう、きったないおしり、してる女だなんて、嘘みたいじゃない……。こーんな、いたいけな乙女を、パンツまで脱がせて、全裸にさせたうえ、奴隷として躾けてるなんて……、あたしたち、ひょっとして、大げさでなく、今、全国で、一番ワルな女子高生グループだったり?」
 香織は、頬がとろけんばかりの笑みを浮かべている。
 その隣のさゆりが、なにやら、涼子の頭のてっぺんから足の爪先まで、まじまじと眺めるようにしながら言う。
「ただ……、なんなんでしょ……。これでもかというほど、可憐な少女をアピールしてるわりに、全身、いかにも油、って感じの汗にまみれてるわ、ジョリジョリした腋毛も覗いてるわ、おまけに、まん毛は、男勝り気質を、見事に象徴してるような、ボーボー状態だわで……、違和感満載、というか、絵的に、めちゃめちゃシュールでっすねえ……」
 一方で、右手側にいる、滝沢秋菜は、気に食わないという表情で、黒目だけをこちらに向け、射るような視線を送ってくる。おそらく、調教役である秋菜としては、懲罰を免れたいがために、乙女チックな姿を見せる、涼子の態度そのものが、目障りで仕方ないのだろう。
 この現場には、陰惨な性暴力という言葉では表現しきれない、至極、怪奇な雰囲気が漂っていた。
 まず、第三者の視点でも、セーラー服姿の少女たちが、加害者的な立場にあることは、自明の理である。そして、ひとり、全裸姿をさらしている女の子の惨めさが、当然ながら、極度に際立っている。まさしく地獄絵だといえた。しかし、その被害者らしき彼女を、前から見ると、なんとも奇異な様子を呈していることがわかる。
 彼女は、目も当てられないほど、悲惨な立場に立たされているが、にもかかわらず、ロマンチックな夢に浸っているみたいに、組んだ両手に、左頬をのせ、さらには、あたしのこの、ピュアなハートを、傷つけたりしないでね、とでも言わんばかりにアヒル口を作っているのだ。きっと、男に媚びるタイプの女を嫌う女性が見たら、胸がむかむかするような思いになるに違いない。
 また、その不自然さが助長されているのは、彼女の身体的特徴のせいもあるだろう。飾り気のないショートカット。女性にしては、肩幅が広く、加害者連中の誰よりも、上背がある。その体格を活かして、スポーツに取り組んでいるらしいことが、二の腕や太ももに現れた、筋肉の浮き出具合から察せられる。つまり、ボーイッシュであり、なおかつ、見るからに体育会系の彼女に、そんな可愛い子ぶった様は、恐ろしく不似合いなのだ。その上……、彼女にしても、年頃の女の子であることには、変わりないので、間違いなく、コンプレックスを持っているはずの、岩礁に着生した藻のように茂った、おびただしい量の陰毛も、不調和感を醸すのに、一役買っていた。
 今現在、果たして、彼女は、どれほど恥ずかしい気持ちでいるのだろうか……?
 その心中を、正確に読み取るのは困難だが、しかし、彼女が、心身ともに、健康とは、はるかにかけ離れた状態にあることは、容易に見て取れる。
 いったい、その瞳には、どのような景色が映っているのかと問いたくなる、焦点の合っていない目。顔色が悪い、というより、なにか、体は、血液ではなくドブ水で作られてでもいるかのように、顔面は土気色だ。それに、清純さを気取ったポーズを取っていながらも、全身が、がたがたと激しく震え続けているのである。
 彼女を、それほどまでに追い込んでいる、そもそもの原因は……。
 その答えは、彼女の背後に回ってみれば、たちどころに判明する。
 そこにしゃがみ込んでいるのは、彼女と比べると、見た目年齢が、大人と子供のような差の、セーラー服を身に着けていなければ、小学生とも見紛いそうな少女だった。あろうことか、その少女は、ひとり、全裸姿で立つ彼女のおしりの、なるたけ深部まで、割れ目を押し広げようとしながら、そこに、半ば鼻を突っ込むような体勢を取っているのである。あどけない容姿には、およそ似つかわしくない、下劣極まりない変態行為。どこからどう見ても、その少女には、レズビアン的な傾向があると、そう判断せざるを得なかった。
 すなわち、全裸姿の彼女は、はち切れんばかりに若々しい、と同時に、充分に成熟した感のある、自身の肉体を、同性に、それも、いかにも未熟な少女に、性欲のはけ口として利用されている最中なのだ。そして、ダイナマイトヒップとも呼ぶべき、迫力満点のおしりに着目してみると、現在の彼女の苦悶ぶりが、如実に現れていた。おしりの外側、つまり、左右両側が、べっこりと大きくへこんでいる様を見ると、大臀筋に、死ぬ気で力を入れているのが、ひしひしと伝わってくる。要するに、肛門をさらけ出すことに対して、それだけ激烈な拒絶感を抱いているという証左である。
 しかし、背後にいる少女が、これまた小さなお手々で、可能な限りとばかりに、おしりの肉を、左右に引っ張っているため、割れ目の内側に汗で張りついた、多くの縮れ毛が、すでに覗いてしまっている。全裸姿の彼女にとっては、おそらく、その部位の毛深さも、コンプレックスであろうことを考えると、それは、ぞっとするくらい無残な有様に見えるのだった。
 いずれにせよ、常識的に考えて、年頃の女の子が、全身全霊で、おしりの肉を引き締めながら、また、その割れ目から漏れ出る便臭を、レズビアンの少女に吸い込まれるという恥辱に、内心では悶え苦しみながら、表面上は、乙女チックな姿をアピールするなど、到底、できるものではない。
 だから、人が、現在の彼女の姿を、とりわけ、その、アヒル口の表情を見たとしたら、きっと、こう思うに違いない。
 このボーイッシュな女の子は、人間として、とっくに壊れている……。
 陰鬱な地下の空間とはいえ、かりにも学校の敷地内である場において、今現在、あたかも、殺人をも請け負う闇のシンジケートによって、不幸にも剥製化された、うら若き女の子を、よこしまな少女たちが、死者の尊厳というものを徹底的に無視し、享楽の道具として扱っているかのような、世にもまがまがしい光景が繰り広げられているのだった。
 南涼子は、潤んだ目を意識しながら、主犯格である、吉永香織に向かって、情けをかけてほしいと、視線で訴え続ける。
 背後では、足立舞が、聞くに堪えない艶めかしい声を出す。
「あぁぁ……、南先輩っ、南先輩っ……。ああぁぁぁぁっ……」
 その無我夢中ぶり、それも、まるで、涼子の背徳的な臭いに包まれながらであれば、たとえ、ここで命が燃え尽きたとしても、悔いはないとでも言うほどの、舞の情念が、これ以上ないくらい感じられてならなかった。
 おそらく、涼子の恥部やおしりといった、本来であれば、女の子が、他人には、見せることすらないような部位の臭気が、強ければ強いだけ、舞は、劣情を燃え上がらされる境地なのだろう。同性愛者である点はともかく、いったい、どのような環境で育ったら、中学を卒業したばかりという年齢で、そんな変態じみた性癖が形成されるのか、涼子には、想像も及ばぬ話だった。
 そして、とうとう、舞が、熱に浮かされたように言い始めた。
「そろそろ……、あたしぃ、自分の役目を、果たすことにしますね……。これはぁ、南先輩が、受けなくっちゃいけない、チョーバツなんですぅ……。ですんで、けっこう痛いかもですがぁ……、我慢して、ずっと、じっとしててくださいねぇ、南先輩……」
 えっ……。
 ややあってから、涼子は、おしりの右半分の、極めて割れ目に近い部分に、なにか柔らかいものが触れる感触を覚えた。
 刹那の後、あらゆる状況に鑑みて、それが、足立舞の唇以外の何物でもないことを察知する。と同時に、皮膚感覚を通して伝わってくる、そのゼリーのような感触が、脊柱を這い上って、全身の神経に広がると、涼子の頭の中で、何かが弾け飛んだ。
「やめてえぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!」
 涼子は、狂女のごとく絶叫し、がばっと背後に向き直った。そうして、なんとも言い様のない気持ちで、足もとにいる者を見下ろす。
 その直後、白黒世界だった視界に、色彩が戻った。
 だが、人のおしりに、口を付けるなんて、どんな下卑た顔の人物がいるのか、という潜在意識が働いたせいか、まだ、ぬいぐるみを抱いて寝ていそうな、やけに幼い、その舞の容姿が、網膜に飛び込んできたとたん、強烈な違和感から、ぐらりと目まいがした。
 舞は、たった今、夢から醒めたような、虚ろな目で、こちらを見上げてくる。と、それから、悪びれるふうもなく、何か問題でもありましたか、とでも問いたげに、首を傾げると、恐ろしく意味ありげに、右手の人差し指を、自身の唇に当ててみせる。
 涼子は、それを見て、舞に向ける視線に、怒りはむろん、負の感情が、何から何までこもっていくのを自覚した。おそらく、今、自分は、目の血走ったような形相を示していることだろう。だが、もちろん、意識の大半は、いつ見ても、泣きたくなるほど毛深い、自分の陰毛部と、舞の顔との、あるまじき近接ぶりに傾いていた。両者の高さは、ほぼ同じであり、間隔は、ぱっと見、二十センチほどしか離れていない。この至近距離で、そのVゾーンを、舞に視認されるのも嫌であるが、とにかく気になるのは、やはり臭気のほうだった。
 まもなく、当然のことながら、舞は、自身の眼前に迫った、ジャングルのごとき黒い茂みに、目線を移した。すると、その顔は、みるみるうちに、開いた口が塞がらない、とばかりの表情に変わっていく。きっと、彼女とは、体の作りからして違うような、陰毛の異次元の量に、改めて、衝撃を受けているのだろう。その数秒後、案の定、鼻をひくつかせ始めたかと思うと、なにやら、とろんとした半目になり、まるで、吸い寄せられるみたいに、こちらに顔を寄せてきた。
 無力な涼子は、その瞬間を、ただ網膜に焼き付けるしかなかった。もさもさと前方にも大きく飛び出た陰毛の、その毛先に、告白の手紙を手渡してきた一年生、足立舞の鼻先が、ふさっと触れたのである。
「くうぅぅぅぅぅっ、ごおおぉぉぉぉぉぉぉぉっ!」
 もはや、涙こそない慟哭だった。今この時ほど、暴力の衝動が、四肢にみなぎったことはない。もしも、この身を拘束しているのが、滝沢秋菜が鎖を握る、見えない首輪ではなく、身体的自由を奪うために、羽交い締めにしてくる、人間の腕だったとしたら、自分は、まず間違いなく、足立舞の顔面に、殺意を込めた膝蹴りを喰らわせていたことだろう。
 その動作の代わりに、涼子が行ったのは、それこそ、天使のごとく、ささやかな抵抗だった。一度、かがみ込み、舞の両脇に、勢いよく両手を差し込む。
「きゃぁっ!」
 突然のことに、舞が、悲鳴を上げるのも構わず、涼子が、乱暴に扱ったら、骨が外れてしまいそうな、その身を、微妙な手加減で持ち上げて立たせる。
 目が合うと、舞の顔いっぱいに、怯えの表情が浮かんだ。涼子から、腕力を振るわれることになるなど、丸っきり想定していなかったという様子である。散々、涼子の体を、穢らわしい欲望のはけ口にしていたくせに。
 この、ド変態のクソガキ……!
 せめて、その一言だけでも、浴びせてやりたかったけれど。
「ねえ、きみぃっ! きみだけは、いい加減に、帰ってよぉぉぉっ! スペシャルゲストだか、なんだか知らないけど! もう、満足したでしょう!? わたし、頭がおかしくなるくらい、苦痛だったけど、きみに、おっぱい、触らせてあげたでしょう!? おしりだって、触らせてあげたでしょう!? これ以上、何を望むっていうのよおぉぉぉっ!?」
 涼子は、声の限りに訴えながら、高速設定のランニングマシーンに乗っているかのように、その場で、どたどたと両脚を動かした。
 だが、舞は、忌々しいことに、横にいる滝沢秋菜に、救いを求めるような視線を向ける。
 すると、秋菜は、目だけでうなずき、右手を、涼子の頭部に伸ばしてきた。
 その手に、髪の毛をわしづかみされ、引きずるように強引に、体の向きを変えさせられ、涼子は、ふたたび、香織とさゆりの側に向き直る格好となった。それから、顔を上げろ、とばかりに、髪の毛を、さらに引っ張り上げられ、あごを、思いっ切り上方に反らせるような体勢を取らされる。
「吉永さーん。この女、猛省しています、とは口先だけで、懲罰を受けることは、拒否する始末です。なので、もう、奴隷としての価値なし、と見なして、いいんじゃないですか? 吉永さんが、そう判断するなら、わたしが、責任を持って、この女を、学校から抹殺処分することにしますが」
 秋菜は、涼子の生殺与奪を握っているのが、自身であることを、改めて強調する。
「やぁ……、やめてください……。滝沢さん、お願いですからぁ……」
 まだ、年齢的には子供であり、社会に関する見識が狭いせいか、あるいは逆に、すでに、半分は大人として、将来のビジョンを思い描いているがゆえか、涼子にとって、退学を余儀なくされるという事態は、人生の破滅としか捉えられないのだった。
「待ちなよ、滝沢さん……。たしかに、南さんは、プライドを捨てきれてない。その点は、奴隷として見た場合、褒められたことじゃないだろうね。でも、南さんの、奴隷である以前に、ひとりの乙女でありたい、っていう気持ちは、今、切々と伝わってきたからさ。やっぱり、あたしたちと同じく、年頃の女の子だってことは、無視しちゃいけないなって、そう思い直してね。そんな乙女が、ひとりだけ、全裸にさせられて、どうも、めちゃめちゃコンプレックスを持ってるっぽい、もじゃもじゃに生え揃った、まん毛を、手で隠すことすらできない、っていう状況は、それだけで、屈辱……、いや、恥辱と言うべきかな? その恥辱のあまり、時には、取り乱して、暴れちゃうこともあるだろうし……。だから、あたしに、暴力を振るってきたことについては、情状酌量の余地ありとして、免罪してもいいかな、って気がしてるのよ」
 香織は、いかにも、この場における、一番の権力者のごとく、鷹揚な態度で説く。
「えええーっ。吉永さん、甘すぎますってぇ。こんな、奴隷という身分を与えてやるのも、もったいないくらいの、心も体も汚い、家畜みたいな女に、乱暴狼藉を働かれたっていうのに、お咎めなしで済ませるなんて……、吉永さんは、いったい、どこまで女神なんですかぁー? わたしが、吉永さんの立場だったら、懲罰の内容について、ぐだぐだ抜かし始めた時点で、即、この女を、張り倒してましたよお?」
 秋菜は、そこで、涼子の頭部を邪険に押しやるようにして、髪の毛を離した。
「まあね……。あたしも、このお人好しの性格のせいで、損ばかりしてるなって、つくづく思うんだけどさ。情けは人のためならず、っていうし、こんな南さんでも、まだまだ、使い道はあるんじゃないかって、これからに期待したいところだね。それに……、セクシーショーにしても、プライドのかけらもない、ブタ同然の女が、ブヒブヒ言いながら、ケツを振り回すよりは、恥じらいあふれる乙女が、はにかみ笑顔で、慣れない淫靡な踊りに、頑張って挑戦する姿のほうが、よっぽど風情があるじゃないの」
 香織は、自身の裁量で、すべて丸く収めてやったとばかりの、得意げな表情で、こちらを見る。
「そういうわけで、南さんの、セクシーショーが、あたしとしても、愉しみなんだけど、何はともあれ、ケツ毛の検査だけは、ちゃんと受けてもらわないと。検査に当たるのが、あたしと、さゆりと、明日香の三人だけとはいえ、乙女にほかならない、南さんにとって、同じ学校の生徒である、あたしたちに、うんこの出る穴まで見せないといけない、っていうのは、やっぱり、恥辱の極みなのかな? でも、こればっかりは……、うん、南さんの義務だから、仕方ないよねえ?」
 喜ぶべきか、嘆き悲しむべきか、要するに、自分が、我を忘れて、香織への反撃に打って出た、それ以前の状況に戻ったということか。
「あっ、はぁい! わたくし! 南涼子! 吉永さんの、聖母のごとき寛大なる処置に、涙が出るほど、感激しており! また、到底、言葉では言い尽くせない思いで、感謝申し上げます! 本当に、本当に! ありがとうございましたぁっ! このような、不肖の奴隷ではありますが! ぜひ! 今後とも、吉永さんたちに、奉仕させてくださいませ! あと、それと……、セクシーショーを演じるに際しての、わたしの義務である、ケツ毛の検査についてですが! こちらのほうこそ、この身に、やましいところはないことを! 証明させていただきたく存じます!」
 涼子は、一点の曇りもない澄んだ心をした者のごとく、声高らかに述べる。
「うんうん……。じゃあ、さっそく、ケツ毛の検査に取りかかろうかな」
 香織が、ゆっくりと腰を落とし、その隣のさゆりも、それに倣った。
「承知いたしました! 今度こそ、わたしの……、ケツ毛は、もちろんのこと、きったない、おしりの穴まで、余すところなく、さらけ出す覚悟で、臨みますので!」
 涼子は、再度、身をひるがえし、香織たちの側に背を向けた。そうして、両手を両膝につく形で、ほとんど九十度、腰を曲げ、その分、おしりを、めいっぱい後ろに突き出す。
 だが、その数秒後、香織は、冷めた口調で言った。
「そっか……。南さんってば、世間知らずだから、こういう場合、どういった体勢を取ればいいのか、わからないんだったね……。滝沢さん、南さんを躾けるのは、あなたの役目でしょ? あなたが、教えてやってくんない?」
「あっ、気が利かず、申し訳ありませんっ」
 秋菜は、慌てたように応じる。
 それから、一転、無機質な声を出した。
「膝を伸ばしたまま、両方の手のひらを、地面に付けて、ケツを、高く突き上げなさい」
 むろん、涼子に向けられた、命令の言葉だ。
 やや遅れて、涼子は、それが、どのような体勢か悟った。
「ええーっ!?」
 人権蹂躙という概念が、脳裏に浮かぶのも、さることながら、肉体的に、かなり厳しそうに思われたのだ。
「なにが、ええー、よ!? あんたは、バレーやってんだから、それくらいの柔軟性は、いちおう、備えてるでしょう!? ほらっ、さっさと、言われたとおりにやりなさいよ!」
 頭上から、秋菜が、ヒステリックにがなり立ててくる。
 涼子は、縮み上がる思いで、両膝をぴんと伸ばし、その状態で、両手を、そろそろと下ろしていった。どうにかこうにか、両の手のひらを、コンクリートの地面に、ぴたりと付けるに至ったが、ふくらはぎから太ももにかけての筋肉に、過度の負荷がかかってくる。と同時に、自分が、今、いかに、おしりを高く上げているか、自分自身でもよくわかる。だから、背後にいる、香織とさゆりからしたら、涼子の体の汚い部分が、さぞかし、視認しやすい状態であるに違いない。それにしても、百歩譲って、いわゆる、Oゾーンの毛の生え具合を調べるためとはいえ、こんな不格好な体勢を、涼子に強いる必要はないであろう。
 しかし、秋菜は、さらに命じてきた。
「地面に手のひらを付けたまま、顔を上げなさい」
 さすがに、その意図は、まったくもって不明だった。
 なぜ……?
 だが、調教役たる秋菜に対し、問いを発する勇気は出ず、涼子は、ほぼ真下に垂らしている頭部を、四十五度ほど上向かせる。
 すると、前方、数歩先の位置に立っている、足立舞が、そんな涼子の顔を見て失笑し、その表情を隠すように、右手を口もとに当てた姿を、視界に捉えた。
「もっとよ! もっと、顔を上げて、真っ直ぐ正面を向くのよ!」
 秋菜は、半ば、狂乱状態におちいっているかのごとく、どやしつけてくる。
 涼子は、それを受けて、エサを欲しがる亀のように、ぐぐぐっと首を限界まで反り返らせ、かろうじて、正面に顔を向けることができた。しかしながら、体操選手ですら、うめき声を漏らさずにはいられないであろう、無理な体勢であり、体中の筋肉が、引きつれを起こしそうなほど突っ張っているため、肉体的に、そう長くは持たない気がする。
「いい? それが、肛門検査を受ける際の、正しい姿勢なのよお? 奴隷である、あんたには、今後も、こうした機会が、ちょくちょく待ってるはずだから、きちんと覚えておきなさい」
 一時は、涼子の『仲間』だったとは、とても思えないくらい、冷血な物言いである。
 涼子は、現在の自分自身が、この世における、紛うことなき奈落の底に、両手、両足を付けていることを、まざまざと自覚させられた。
 わたしって、本当に、もう、本当に、堕ちるところまで堕ちたもんだなあ……。
 霊長類のなかでも、特段、高度な知性を有する、人間が、なぜ、これほどまでに無様な格好をさらさなくてはならないのだろう……。
 これでは、まさに、四つ足の家畜に等しい存在ではないか……。
「吉永さーん、この女の、肛門、ばっちり見えてますかあ?」
 秋菜は、直前までとは別人みたいに、うやうやしく尋ねる。
「うん、見える、見える……。っていうか、見えすぎて、やばいわ、これ……」
 香織は、よほど感心しているらしい口振りで答える。
「だって……、ここなんて……」
 背後に向かって、想像するだに怖ろしいほど、無防備に露出しているに違いない、女性器の、その小陰唇を軽く抓まれ、指の腹で、くにくにと擦られる。
「ビラビラの形まで、丸わかりなくらい、見えちゃってるし……、それにぃ……」
 香織は、興奮を覚えているのか、息を整えるように、一呼吸、間を置いた。
「ここだって、よぉーく見える……」
 続いて、肛門の縁に触れられ、窄まりの外周を、じりじりと指でなぞられる。
 涼子は、もはや、恥辱という名の苦痛に、責めさいなまれる感覚を通り越し、あたかも、これは、自分の身に起こっている事柄ではないかのような、そんな錯覚にとらわれ始めていた。まさかまさか、かりにも学校内において、同性から、しかも、クラスメイトから、ここまで露骨に性的行為を加えられるなど、現実にはあり得ないはずだ……、と。そのため、この高校に入学してからの日々が、今日この日につながっていると捉えると、なんだか、バレー部の活動で、血と汗と涙を流し続け、ついには、キャプテンを任されるに至ったことも……、友人たちと笑い合い、時には、ちょっかいを出したり、出されたりしたことも……、授業中、おそらくは、誰よりも積極的に挙手し、発言していたことも……、すべてが、夢まぼろしだったかのように思われてならない。
「それにしても、どうしてなんだろう……? 今さっき、あんなに、かんわいぃぃぃ姿を見せてた、いたいけな乙女である、南さんの体に、こんな汚らしい部分があるなんて……、あたし、納得できない気分。いったい、神様は、どうして、残酷にもほどがあるような、いたずらを、女の体に施したんだろう……?」
 香織は、本心を吐露するかのように言う。
「たしかに、こうして見せつけられると、破壊力が、エグいでっすねえ……。卑猥とか、そういう次元を、完全に突き抜けて、もう、毒々しいですよ。セクシーショーのためには、必須の検査業務とはいえ、この光景が、絶対、トラウマみたいに、記憶に焼き付いちゃうことを考えると、あたしって、損な役回りだなーって、気が滅入ってくるんですけど……。なんか、この先、桃の割れ目とか見ただけで、南せんぱいの、この、ま○こから、ケツの穴にかけての光景が、鮮明に思い浮かびそう」
 さゆりは、ひえーっ、と声を出した。
 そこで、やや離れたところで眺めていた、竹内明日香が、香織とさゆりの話を聞いて、がぜん興味が湧いてきたらしく、ひょこひょことした足取りで、こちらに歩いてきた。
 涼子は、その動向に注意を引きつけられ、今さらながらに、明日香に対し、自分の背後には回ってほしくないと、そう懇願したい思いに駆られた。
 時をさかのぼり、バレー部のマネージャーとして、明日香に、全幅の信頼を寄せていた期間のことが、ありありと想起される。学校の内外を問わず、明日香と一緒にいると、とても楽しくて、会話は、なにも部活のことだけではなく、友人関係や高校卒業後の進路、それに、流行りのスイーツから、推しの男性アイドルに至るまで、いつ尽きるともなく、すこぶる弾んだものだ。
 しかし、その頃においても、明日香を相手に、しばしば、妙に気まずい経験をしたことが、よく記憶に残っている。
 ふとした時、明日香は、まるで、愛し合う恋人同士みたいに、涼子の顔を、じっと覗き込んでくるのだった。
 こちらは、視界いっぱいに迫った、人の顔というより、なにか、きらびやかなガラス細工じみた、その美貌に圧倒され、ついつい、引け目を感じてしまう。そういう時は、おうおうにして、逆に、この子の瞳には、自分の顔が、どんなふうに映っているのだろう、という思考が、脳裏をかすめるのだ。そうなると、もう、お終いだった。
 あ、ひょっとして……、わたしの顔って、なんて笑えるんだろうって、今、心の中で思ってたりする……?
 ちょっとちょっと、この距離だと、顔の毛穴まで見られてそうで、かなーり恥ずかしいんだけど……。
 っていうか、正直、口臭が伝わらないか、気になって気になって、息ができないじゃんっ……!
 そんな過度に神経質な思いから、涼子は、へどもどしてしまい、拗ねるような態度で、どうにか、その場をごまかしていたのだった。
 そして……、今現在、むろんのことであるが、その竹内明日香が、涼子の背後に回り、香織たちの横で、腰を落とした。
 涼子の頭の中では、香織とさゆりによる、直近の発言が、一言一句、ぐるぐると渦を巻いている。
 であるがゆえに、二人の言うとおり、自分の体の、それこそ審美性は最悪な部分が、あの、トップモデルにも勝るとも劣らぬ美少女の、その瞳に、余すところなく映っていることを考えると、劣等意識が、気の狂わんばかりに掻き立てられるのである。
 涼子は、虚しくも、心の内で、明日香に哀訴し始める。
 明日香……、わたし、白状しちゃうと、あなたと行動を共にするようになってから、女子力を高めることに目覚めたんだ……。でも、それはそれで、よかったんだけど、今度は、わたしが、どれだけ女磨きしようと、あなたには、女子として勝てっこないことを、嫌というほど思い知らされた。だからなのかなあ……。あなたに、顔を覗き込まれたりすると、敗北感みたいなものが募って、せめて、自分の欠点に着目されたくない、って心理が、強く働いた気がする……。あ、これって、女としてのプライド? もしかして、わたし、知らず知らずのうちに、あなたに張り合ってた?
 なのにさ……、今では、ひとり、全裸姿であるうえに、そんな、あなたの目の前で、わたしは、こーんな、無様な格好をさせられ、体の、もっとも汚いところまで、さらけ出してるんだよ?
 ねえ、明日香……。少し、想像してみてよ。女の子にとって、これほど残酷なシチュエーションが、ほかにあると思う? 屈辱か、って……? いいや、屈辱なんて言葉じゃあ、到底、片付けられない。もっと、絶望を孕んだ、苦しくてしょうがない、この気持ち……。ひどいよ、明日香……。そりゃあ、あなたは、わたしをハメるために、近づいてきたんだけどさ……。それでも、わたしたち、きゃっきゃとじゃれ合いながら、あちこち街中を歩いたりしたじゃない。あんなに熱く語り合ったじゃない。わたしに、ほんのちょこっとでも、情が移ってるのなら、あなたは、そこから離れて……。
 えっ……? なんか、気配からして、あなた、さらにこっちに、顔を寄せてない……!? やだやだやだ……! わたしの、おしりの、その……、穴に付着したものの臭いなんて、嗅ごうとしないで……! 恥ずかしい、恥ずかしい、恥ずかしい、恥ずかしい……!
 途方もない羞恥感情との戦いで、精神力そのものを削られている境地であるが、それに加え、恐ろしく無理な体勢を続けていることによる、肉体的苦痛も、すでに耐え難くなってきており、その苦悶が、どうしても顔に表れるのを抑えられない。歯茎をむき出しにし、かっと見開いた目で、前方をにらみすえている、自分のこの顔貌は、きっと、鬼神の形相という表現がぴったりの、凄絶さを漂わせていることだろう。
 三人が、検査態勢に入ったことで、滝沢秋菜は、一仕事、終えたとばかりに、その場を離れ、足立舞のところに歩いていった。そうして、見た目からすると、十歳以上、違いそうに思われる、滝沢秋菜と足立舞が、珍しく肩を並べ、涼子の顔を、真っ直ぐに見下ろしてくる。
「こういう場面に、立ち会うことは、なかなか経験できるものじゃないから、あなたも、後学のために、よーく見ておきなさいね。これが、この世で最大級の屈辱と言われる、肛門検査を、強制的に受けさせられてる、女の顔よお?」
 秋菜は、自分の手柄だとでも主張するような、誇らしげな口調で告げる。
「うわわわぁぁ……。南先輩、超、かっこわるぅぅぅっ……。なんかなんかぁ、あたしも、ほかのファンの子たちも、南先輩の、上辺ばっかり見て、騙されてたのかも、ですねえ。今じゃあ、この姿が、化けの皮が剥がれた、本物の南先輩、って感じぃぃぃ」
 舞は、実際に幻滅しているのか、顔いっぱいに、引きつった表情を浮かべている。
「この女の調教師である、わたしが言うのも、変な話だけど……、まったく、よく耐え続けられるものよねえ。わたしが、この女の立場だったら、とっくに、舌を噛み切ってるわよ……。だから、わたし、服を脱がなくちゃならないって、聞かされた時は、もう、どうなることかと、恐怖と不安で泣きそうになったけど、この女と同じ運命を辿らず、助かって、本当によかったって、しみじみ思うの……。今日ここでの体験のおかげで、普通の女子高生という身分が、保障されてるのって、当たり前のようで、実は、こんなにも幸せなことなんだって、気づかされちゃったぁーん」
 秋菜は、自身の両肩を抱くと、幸福感、というより、なにか、性的な快感にでも浸っているかのように、妙に妖艶な仕草で、その身を反らした。
「あたしもぉ、この先、嫌なことがあって、落ち込んじゃいそうな時は、南先輩のことを、考えようと思いますぅ……。うちの学校には、ほかの子たちの前で、丸裸になって、なんとなんと、こっ……、肛門検査? までされてる、南、涼子、っていう名前の、先輩がいるんだから、あの、底辺の人に比べたら、あたしは、ずっとずっと恵まれてるって思えて、なんだか、元気になれそうですもん……。あ、うっかり、底辺とか言っちゃった……。怒ってるかな、南先輩」
 もしかしたら、舞は、典型的な、下を見て安心するタイプなのかもしれない。
 そんな二人のやりとりを聞いているうちに、顔をさらしているのが、ますます、やるせなくなってきて、涼子は、我知らず、下を向いていた。
 だが、秋菜が、それを黙って見ていなかった。
「恥ずかしそうに、顔をうつむけるんじゃないわよ! ちゃんと、真っ直ぐ正面を向いてなさいよ!」
 その雷のような怒声にたじろがされ、涼子は、即座に、首を限界まで反り返らせる。
「肛門検査が終わるまで、ずっと、その姿勢を保ちなさい。次、顔をうつむけたら、あんたの、そのあごを、爪先で蹴り上げるからね……。わかった?」
 今の秋菜だったら、本当に、それをやってきそうで怖い。
 それにしても、である。そもそも……、どうして、顔を上げていないといけないのと、心の中で、秋菜に、疑問の言葉を投げかける。どう考えても、涼子の見世物っぷりを、より一層、際立たせるためとしか思えないのだった。
「返事はぁっ!?」
 今や、秋菜は、阿修羅と化していた。
 涼子は、無理な体勢のために、圧迫されている気道から、どうにか声を絞り出す。
「……ははぁい」
 およそ女らしからぬ、野太い声。
 その涼子の様子を見ていた舞が、秋菜に対し、遠慮がちに口を開いた。
「あの……、先輩っ……」
「んん?」
 秋菜は、優しいお姉さんの顔になる。
「南先輩って……、奴隷、なんですよね……?」
 舞は、その単語を、覚えたばかりみたいに口にした。
「もちろんよ」
 秋菜は、にっこりとする。
「ってことはぁ……、あたしは、普通の女子高生だから……、先輩とか後輩とかは、関係なくて……、奴隷の南先輩より、あたしのほうが、偉い、ってことですよね……? それなのに、南先輩は、あたしにだけは……、敬語を、使わないんです……。どうしてなんですかぁ……?」
 舞は、どうも、純粋に不可解に思っているようである。
「どうしてなんだろうねえ……。それは、本人にしか、わからないことだから、あなたの口から、直接、この奴隷女に、訊いてみたらどう……? ほらっ、もっとそばに寄って、顔と顔を突き合わせて、問いただしてみなさい」
 秋菜は、舞の背中に、左手を回して促す。
 だが、舞は、本当にいいのかな、というふうに、ためらう素振りを示した。それから、右手の人差し指を、頬に当て、涼子の顔に視線を注いでくる。考え込んでいる面持ちである。しかし、やがて、今の涼子など、恐るるに足りない、と判断したらしく、腹を決めたように、とことこと、こちらに歩み寄ってきた。ちょうど真ん前、それも、舞が、やる気になれば、その足で、涼子の顔面を踏めるほどの距離まで来て、すっとしゃがみ込む。
 当然ながら、今、涼子の視界のど真ん中に、試しにセーラー服を着込んだ小学生みたいな外見の、足立舞の顔がある。しかし、涼子は、意図的に目の焦点をずらすようにして、断じて舞と視線を合わせないつもりだった。一方、舞のほうは、そんな涼子の顔を、わずかな表情の変化すら、見逃すまいとばかりに、無遠慮に凝視してくる。おそらく……、とおぼろげに感じる。もし、現在の自分のこの顔を、世間一般の人々が目にしたら、戦国時代のさらし首に似た代物、という印象を受けるに違いない。
「南先輩、質問なんですけど……、どうして、あたしにだけは、敬語を使わないんですかぁ?」
 舞が、やや非難の響きの滲んだ声で問うてくる。
 むろん、涼子は、人間としての最後の矜持にかけて、答える気など、毛頭なかった。
「あたしが、まだ、一年生で、南先輩は、三年生だから、そういう……、先輩と後輩の、上下関係、みたいなのに、こだわってるんですかぁ……? それとも……、もしかして、あたしが、一目惚れしちゃったこととか、手をつないでデートしたいですとか、書いた手紙を、渡したから、南先輩は、自分のほうが、あたしより、有利な立場なんだって、なんか、うぬぼれっていうか、優越感みたいなのが、あるんですかぁ……?」
 舞の、つたない言葉遣いが、逆に、皮肉や当てこすりで言っているのではないことを、雄弁に物語っていた。
 だが、涼子としては、舞の、そんな真剣さが伝わってくるほど、なおさら、虫唾の走る思いなのだ。だから、後先のことは、もう考えずに、よっぽど、目の前の、幼児みたいに精神年齢の低い、小娘の顔に、つばを吐きかけてやりたいところだった。
 なにやら、背後の三人も、舞の動向に、注意を向けているらしい空気である。
 しんとしたなか、涼子の、せわしない呼吸の音だけが、この場に居合わせている、全員の耳に付いているはずだ。
「……答えない。どうしてなんだろ? お口は、ここに……、付いてるのに」
 舞は、人差し指を立てた右手を、じわじわとこちらに伸ばしてきた。
 その指先で、上唇を、つん、と突かれ、涼子は、電気刺激を加えられたかのように、不覚にも、びくりとしてしまった。
 すると、舞の口もとが、にやりと歪んだ。
 それから、ふたたび、右手の人差し指を、無礼千万にも、涼子の上唇に当ててきた。今度は、その指先で、そのまま、ぎゅうぅぅっと、唇を横に押しやってくる。今、自分は、さぞかし無残なアホ面を見せているはずだ、と感じながらも、正面を向いたまま耐えているうち、どうやら、舞は、涼子の唇を、指でなぞり始めたらしいと悟る。
「おかしいなぁ……。このお口は、喋ることが、できないのかなぁ……。ひょっとして、実は、南先輩って……、奴隷どころか、それ以下の、ブタみたいな生き物だったりしてぇ……」
 その侮辱行為を受けている、涼子は、今にも、唸り声を発しそうな憤りのために、それこそ家畜のごとく、自分の鼻息が荒くなっているのを自覚していた。しかし、それでも、目の焦点をずらし続け、自分の瞳に、感情の火が灯るのを自制し続ける。両手、両足を地面に付け、およそ人類とはかけ離れたような、醜悪な姿をさらしている、この自分が、ぎろりとねめつけ、威嚇する表情を示したとして、何がどうなるというのか。おそらく、今や、完全にダークサイドに堕ちた感のある、舞の嗜虐心を、よけい刺激するだけであろう。
 くそったれ、くそったれ……!
 舞は、目をらんらんと輝かせながら、その指先で、涼子の唇を、一周、なぞり終えると、気が済んだかのように、おもむろに立ち上がり、きびすを返して、秋菜のほうに戻っていった。
「南先輩ったら、あたしが、丁寧に質問してるのに、うんともすんとも言わないんです……。だんだん、むかむかしてきちゃいましたっ」
「奴隷の分際で、黙秘を決め込むなんて、いったい、どれだけツラの皮が厚いのかと、あきれるわね……。いい? スペシャルゲストのあなたには、この女を、好きなように調教する権利が、あるんだからね? あなたにとって、この女が、憧れの人だったことなんて、もう忘れなさい。遠慮は、いらないの。これ以上、この女から、不愉快な思いをさせられるようだったら、調教の一環として、たとえば、まん毛をつかんで、毟り取ってやったって、いいのよお?」
 秋菜は、無知な子供を、甘い言葉で誘うように、舞をそそのかす。
「えっ。あたしなんかが、そんな……、偉い身分だったなんて……、あたし、この高校に入って、よかったぁぁぁっ……。それじゃあ、奴隷の南先輩が、質問を無視するとか、あたしに、タメ口で話しかけてくるとか、生意気な態度を取るごとに、もじゃもじゃに生えてる、まん毛を、ぶちぶち抜いていっちゃおうかな……。あたしも、自分で、南先輩のこと、調教してみたくなってきちゃった」
 舞は、軽侮と期待のこもった眼差しで、改めて、涼子の顔を見下ろしてきた。
 涼子は、心の中だけで、リング上において、試合開始前に相手と向かい合う、女子格闘家さながら、舞をにらみ返しながら、なんとはなしに、過去のことを振り返っていた。
 果たして、放課後の体育館で、何度、足立舞の姿を目にしただろうか。まるで、アニメに登場する小さな女の子が、現実の世界に飛び出したかのような、その容姿のため、すぐ顔を憶えてしまった。その彼女は、目が合うどころか、涼子の視線が、自身の方向に向けられたのを察知しただけで、しまった、とばかりに、こそこそと逃げてゆくのだった。涼子は、そんな場面を、繰り返し視界の隅に捉えていたがゆえに、正直、かなり前から、彼女が、放課後の体育館にやって来る目的は、ほかでもない自分にあることを認識していたのである。
 そこで、足立舞の、涼子を巡る心理的変容について、第三者的に考え始めた。
 足立舞にとって、南涼子とは……、同性愛的な好意を寄せている相手であると同時に、強豪校としての伝統を誇る、バレー部のキャプテン……、自身とは対照的に、Tシャツとスパッツの上からでもわかる、迫力のあるプロポーション……、連日、後輩たちから黄色い声援を浴びており、恋のライバルは数え切れないモテっぷり……、といった要素を兼ね備えた、言うならば、住む世界が違うように思う存在だったのではないだろうか。しかも、である。人生最大の恐怖と戦うような勇気を振り絞って、告白の手紙を手渡したにもかかわらず、涼子からは、なんの音沙汰もない。そのため、やり場のない切なさは、募る一方となった。が、それだけではなく、同時並行的に、舞の深層心理には、芽生え始めたのかもしれない。指一本、触れることの叶わない、偶像であるならば、いっそ、地に叩きつけられて、粉々に砕け散ってしまえばいいのに……、という思いが。
 そして……、舞は、今日この場において、その涼子が、見えない首輪に身を拘束されるのを目の当たりにすることとなった。それにより、舞の胸の内では、幼い容姿にそぐわない、薄汚れた劣情が、暴風みたいな勢いで煽られ始めたのも、さることながら、無意識下に潜んでいた、悪意の芽が、大量の養分を吸収した。結果として、その芽は、みるみるうちに巨大化し、ついには、舞の意識にのぼるに至る。
 アノミナミセンパイガコワレルノ……?
 ここまでの推測が当たっているならば、ひょっとすると、涼子を、もっとも壊したがっているのは、吉永香織でも竹内明日香でもなく、一年生の足立舞なのかもしれない……。いや、きっとそうなのだと、今や、半ば確信する。
 フッフッフッ……。そっか、そっか。そりゃあ、きみは、いくらお願いされても、帰らないよねえ……? わたしのおっぱいを揉んだり、おしりの臭いを嗅いだりする程度じゃあ、全然、物足りないよねえ……? なんせ、きみ、わたしが、壊れるところを、その目で確かめたいんでしょ? あっ、あれか。たぶん、きみも、校則違反だけど、携帯電話とかスマートフォンを、学校に持ち込んでるだろうから、わたしが、人型の肉塊となって、地面に転がってたら、どうせ、動画撮影しちゃうんでしょ? そうしたら、その動画、きみにとっては、一生のお宝になるもんねえ? あー、たのしそう……。でも、ざーんねん。わたしは、壊されません。だって、このままじゃあ、たとえ壊されても、壊れきれないもん。ってことは……? そう。わたしは、ひとりの、まともな人間として、家に帰るってことぉ。そうなったら、どうなると思う? わたしは、近日中に、必ず、滝沢の呪縛を打ち破ってみせる。要するに、自由の身になるわけ。自由って、素晴らしいよねえ? なにしろ、暴れられるんだから。どうしても許せない奴らに、復讐を果たすことができるんだから。あ、いちおう、言っておこうかな。復讐リスト、更新したよ。きみの名前を、一番上に繰り上げちゃったぁ。つまり、五人の中でも、色々な面で最弱であろう、きみが、最初のターゲット。怖いでしょう? 怯えてっ怯えてっ。わたしは、エサを発見した、空腹の猛獣のように、きみが、隙を見せるところを、虎視眈々と狙い続けるから、さ。わたしと、きみじゃあ、それこそ、ライオンとリスだよね。お話にならない。きみを捕まえるのは、時間の問題じゃん。で……、きみを引きずり込む場所は、やっぱり、地下牢みたいに陰鬱な、ここが、おあつらえ向きかな。ん? 何をするつもりかって? は? 決まってんじゃん。まず、その制服と下着を、引き裂くようにはぎ取って……、あっ、きみ、わたしの手で、全裸にさせられたら、なんか、変な気を起こしそうだね……。うぅっわぁぁ。きみって、つくづく気持ち悪いと思っちゃう。わたし、きみには、純粋な苦痛だけを与えたいから、ちょい、やり方を修正しないと。まあ、ただ……、きみが、地獄を見ることに変わりはない。とりあえずは、わたしに対して、スケベな気持ちを持ったこと、それ自体を、骨のきしむような激痛のなかで、一生分、後悔するといい。ああ、だめだめっ。気絶したくらいじゃあ、許してあげないよん。だって、きみには、たっぷりと味わってもらいたいの。人間としての誇りを、踏みにじられる痛みってものを。痛いよお? 痛いよお? そうして、挙げ句の果てには、自分が自分ではなくなっていくような感覚にとらわれるの。わたしが、そのスペシャルな体験を、きみに、プレゼントしてあげるっ。そんでもって、きみの、その、まん丸に近い、お目々から、光が消えるのを見届けたら、わたし、その場を去ることにするね……。あれっ。わたしって、残酷? ちっちゃな子供みたいな一年生を相手に、大人げない? フッフッフッ……。こういう妄想、すんごい、たのしぃー。いや、妄想なんかじゃなく、もうすぐ実現する、いわば未来予想図にほかならないから、最高に、たのしぃー。ってなわけで……、もう一度、宣言しておくね。わたしは、たとえ、これから、身も心もえぐられるような恥辱のせいで、こめかみ辺りの血管が切れて、血の涙を流すことになろうとも、きみへの復讐を、何よりのモチベーションにして、絶対、絶対、今日、ひとりの、まともな人間として、家に帰ってやるんだからぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!






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