バレー部キャプテンと
よこしまな少女たち
第十八章
醜い心
3



 部室から引きずり出され、一歩、また一歩と、フロアに近づいていた。
 怖い……。どうなっちゃうんだろう、わたし……。
 フロアの出入り口まで、あと二十メートルほど。その出入り口のところには、制服姿の生徒が、数人、固まっている。もう、一時間近く前から、そこで、バレー部の練習を見学していた、後輩たちだ。おそらく一年生だろう。先ほど、涼子がフロアを出る時、彼女たちの間から、小さく聞こえたのを思い出す。
『南先輩……。かっこいい……』
 要するに、彼女たちは、バレー部の練習を見学しているというより、憧れの涼子を目当てに、そこに集まっているのだ。今は、突然、姿を消した涼子が、また練習に戻ってくるのを、待っているのかもしれない。
 そんな後輩たちの存在は、今の涼子にとっては、身の縮こまるような恐怖の対象だった。きっと幻滅される。軽蔑される。やだ……。あの子たち、いつまでいるつもりなの……。もう帰ってよ……。
 いや、待てよ。その後輩たちのグループから、ちょっと離れたところに、もう一人、制服姿の生徒が立っている。
 その生徒の横顔を見た瞬間、涼子は、目を剥いた。驚愕のあまり、この場で卒倒してしまいそうだった。
 そこにいたのは、なんと、涼子が今、もっとも顔を合わせたくない人物、あの、滝沢秋菜だったのだ。
 滝沢さん……! うそ……! なんで……!?
 猛然とした恐怖に、涼子は、ずるずると後ずさりを始めていた。身を翻して逃げ出そうとしたその時、右側を歩いていた明日香に、腕をつかまれた。
「りょーちん! なに、逃げようとしてんのっ!」
 声が、でかい……!
 明日香の声に、フロアの出入り口で固まっている後輩たちと、秋菜が、揃ってこちらに顔を向けた。
 涼子の姿を見た後輩たちの、はしゃいで嬉しがる声が、聞こえてくる。
「あっ。南先輩だっ!」
「南先輩、やっぱり、戻ってきたーっ」
「待ってて、よかったぁ」
 そして、秋菜が、こちらに歩いてくる。
 なんで、なんで、なんで……! なんで、滝沢さんが、ここにいるの……!? よりによって、こんな時に……! 涼子は、心の中で絶叫していた。
 
 秋菜は、涼子と明日香の前まで来て、口を開いた。
「南さんのこと、待ってたの……」
 涼子は、Tシャツの前すそを、生地が伸びてしまうほど下に引っ張り、股間を隠していた。秋菜にだけは、絶対、ブルマからはみ出た陰毛を、見られたくないという思い。
「どっ、どーしたの? 滝沢さん……?」
 自分の声は、悲鳴みたいにうわずっていた。
 すると秋菜は、はにかむように口もとを曲げた。
「あの……、さっきは、ありがとう」
 保健の教科書のことだ。
「……あっ、あ、いやっ、べつに……」
 彼女の保健の教科書に貼られた、涼子の全裸に、秋菜の顔という、アイコラみたいな組み合わせの写真。
 先ほど、体育倉庫の地下で、香織から聞かされた言葉が、頭の中に響いている。
『南さんが、教室を出て行った後、滝沢さんも、言ってたよ。『南さんの顔、すごい赤くなってなかった? なんか、この写真のこと、自分のことみたいに恥ずかしがってたよね?』って。そんで、滝沢さん、疑わしそうに、じーっと、あの写真を見てたよ』
『あの滝沢さんの様子だと、南さんのことを疑ってる可能性が、大だね。写真に写ってる裸の女は、南さんじゃないかってね。そのことは、もう、覚悟しておいたほうがいいよ』
 その秋菜が、今、目の前に立って話している。
「さっきさ、わたし……、せっかく、南さんと吉永さんが、時間を作ってくれて、教科書、届けてくれたのに、なんていうか……、嫌な態度だったでしょ? ごめん、あの時は、教科書に、『あんな』いたずらがされてるのを見て、やっぱり、ちょっとショックで……、そのせいで、南さんと吉永さんに感謝するってこと、忘れてたみたい。嫌な態度、取っちゃって、ごめんね」
 しおらしく謝る秋菜を見つめながら、涼子は思っていた。でも、でも、でも……。滝沢さん、あなた、あの写真のことで、わたしを疑ってるんじゃないの……? だが、その問いを、口に出せるはずもない。
「ううんっ! ちっとも、そんなことなかったよっ! 気にしないでっ!」
 涼子は、ぶんぶんと首を横に振った。動揺しているせいで、滑稽なくらい大げさに振る舞ってしまう。
 秋菜は、控えめに微笑む。
「帰ろうと思って、一度、学校を出たんだけどさ……、なんか、今日のうちに、南さんに、ちゃんと謝らなくちゃって思って、引き返してきたの。それで、体育館まで来て、コートを見たら、南さんがいなかったから、あれっ、て思ったんだけど……、少ししたら、南さん、戻ってくるかなって思って、ここで、待ってたんだ……」
 涼子に謝るために、わざわざ、そこまでしたということに、少なからず驚かされる。同時に、訳のわからない思いだった。もし、本当に秋菜が、涼子を疑っているのだとしたら、帰り道を引き返してまで、謝りに来るというのは、なんだか変な気がするのだが……。
「あっ……、あはっ、そんな……、わたしに謝る必要なんて、ぜんぜん、ないのにぃ……」
 二人の間に、互いに遠慮し合うような、ぎこちない沈黙が流れる。
 おかしいなと、涼子は思い始めていた。秋菜が涼子を疑っている可能性は、大だと、香織は言っていた。しかし、目の前の秋菜からは、涼子に対して疑念を抱いているような気配は、まるで感じられないのだ。この子は、あの写真のことで、わたしを疑ってなど、いないのではないか……? そんな気がしてくる。もしかすると、香織のあの言葉は、まったくのデタラメだったのではないだろうか。涼子を、怖がらせるための。それだったら、気持ちは、ずっと楽になる。
 だが、なんにせよ……、用件が済んだなら、秋菜には、すぐに帰ってもらいたかった。なにしろ、自分は今、この、Tシャツを下に引っ張っている手を放せば、秋菜に、陰毛を見られてしまうという、薄氷の上に立っているような、危険な状態なのだ。
 と、その時、秋菜の眼差しが、涼子の下半身へと向けられた。無遠慮なまでに。
 やだ……。Tシャツを押さえる手に、ぐっと力が入る。
 秋菜は、不思議そうに、目をぱちぱちさせた。
「南さん……、それ、下は、何はいてるの?」
 Tシャツで、ブルマがすっかり隠れており、前から見ると、何もはいていないように見えるからだろう。
 瞬く間に、顔に血が上っていくのを感じる。またしても、不自然に赤くなった顔を、秋菜に見せることになるのか……。
「あっ……。ブッ、ブルマ……」
 言っていて、よけい恥ずかしくなってくる。
「ブルマ……? ……南さんは、いつも、その格好で、練習やってるの?」
 秋菜の顔に、苦笑いのようなものが浮かぶのを、涼子は見逃さなかった。
 やっぱり、この子、なんか苦手……。
「いっ、いやっ。いつもは違うんだけど……、今日は、たまたま……」
 涼子は、無理に笑顔を作って答える。
 秋菜は、ふーん、と口にする。
 お願いだから、もう帰って……。
「今さ……、南さんが来るまで、ちょっと、バレー部の練習を見てたんだけど……、みんな、すごい気合い入ってるね。三年生にとっての最後の大会が、もうすぐなんだっけ?」
 こんな時に限って、秋菜は、涼子と打ち解けようとするかのように、話を引き延ばした。
「うっ、うん。まあ、そう……」
 素っ気なく答え、涼子は、唇を引き結んだ。秋菜には申し訳ないと思ったが、これ以上、会話を続ける気にはなれない。秋菜が、気まずさを感じて、早く帰ってくれることを期待していた。
 ところが、秋菜は、思いもよらぬことを言いだした。
「せっかくだから、わたし、もう少し、バレー部の練習を見ていこうかな」
「えっ……」
 涼子は、言葉を失った。
「南さんのプレーするところも、一度、見たいし」
 秋菜は、にっこりと笑って、そう付け加えた。
 そんな……。冗談じゃない……。
「でっ、でも……。今日は……」
 涼子の反応に、秋菜の表情が、わずかに曇る。
 その時、それまで黙っていた明日香が、いきなり口を開いた。
「いいよーっ。滝沢さん。練習、見てってー」
「本当? ありがとう」
 秋菜は、屈託のない顔で言う。たった今、涼子が、拒否反応を示したことなど、忘れたかのように。
「それじゃあ、りょーちん、そろそろ、練習に戻りましょっ」
 明日香は、親友を演じるかのように、涼子の右腕に、腕を絡めてきた。
「ちょっと待ってよ、明日香……!」
 涼子は、抗議の声を上げ、右腕を引き抜いた。むろん、左手のほうで、しっかりとTシャツを押さえたまま。
「なに?」
 明日香は、むっとした声を出す。
「むりだよっ。だって、わたし……」
 ブルマからはみ出た汚らしい陰毛を、秋菜にまで見られたら、自分はもう、立ち直れないという気がする。
「いいからっ、いくよっ、りょーちん」
 明日香に、右腕をつかまれる。
「やだっ! ほんと、むり……!」
 涼子は、明日香の手を振りほどいた。
「……怒るよ、りょーちん」
 明日香は、じろりと睨みつけてくる。
 その美貌の眉間にしわを寄せた、明日香の顔を、涼子は、じっと見返す。そういうことか、と思う。ここへ来て、偶然、滝沢秋菜が現れたことを、この女は、これ幸いと捉えているのだ。涼子が苦手意識を抱いている相手、滝沢秋菜。その秋菜を、これから涼子が恥をさらす舞台のギャラリーに加えることで、涼子に、より強い精神的ダメージを与えてやろうという考えなのだろう。
 この女には、何を言っても無駄だ。そう判断し、涼子は、訴える相手を変えた。目を潤ませるようにして、秋菜を見つめる。そうして、彼女に向かって、首を横に振り続ける。
 お願い、滝沢さん……。今日は、もう帰って……。
 しかし、秋菜は、不思議そうに小首を傾げ、相変わらずのひんやりとした眼差しで、涼子を見返しているだけなのだった。帰るような素振りは、一向に見せない。涼子のジェスチャーの意味が、彼女には伝わらないらしい。
 涼子は、驚き呆れる思いだった。この子って、頭はいいのかもしれないけど、とんでもなく鈍感……!
 明日香が、また、涼子の右腕をつかんできた。
「ほらっ。りょーちん、いい加減にしなさいっ。もう行くよっ!」
 厳しい口調だった。もはや、これ以上、抵抗を続けたら、明日香は本気で怒りだすだろう。そうなったら、後々、どのような仕打ちが待っているかわからない。
 ぐいっと腕を引っ張られ、一歩、二歩と、足が前に出る。ぐらぐらと、足もとの地面が揺れ動いているかのような感覚だった。
 明日香は、一転、陽気な調子で秋菜に言う。
「滝沢さんっ。今日はぁ、これから、三年対二年のゲームやるから、ぜひ、見てってねっ」
「あっ、そうなの? 見ていく見ていくっ」
 まるで、涼子のことなど、はなっから無視しているかのように、秋菜も明るく応じるのだった。
 目の前の秋菜に対して、どうしようもなく腹立ちが込み上げてくる。
 もう! ちょっとは、空気、読んでよ! そう怒鳴って、秋菜の背後に回り込み、その背中をどどどどっと押して、体育館の玄関から外へと、追い出してしまいたい衝動に駆られる。だが、そんな思い切った行動に出るだけの勇気は、むろん、湧いてこない。
 明日香に引きずられるようにして、涼子は、ぎくしゃくと歩きだした。
 最悪中の、最悪の事態。なんで、よりによってこんな時に、滝沢さんが、練習を見に来ることになるの……? どうして? どうして、わたしって、こんなに運が悪いの……?
 
 三人で並んで、フロアへ向かう。というより、明日香が、涼子の腕を引っ張ってずんずん進むので、二人の後を、秋菜が付いてくる形となる。
 最初の屈辱の瞬間は、この時だった。
 今、自分の見苦しい後ろ姿を、秋菜に見られていることを思う。下品なまでに小さなブルマをはいて、自分の大きなおしりの肉が、だらしなく、半分以上も布地からあふれ出している様は、きっと、臭うような不潔感を漂わせていることだろう。どうしても、秋菜の視線が、おしりのあたりにまとわりついてくるような気がしてならない。
 後ろから、秋菜の無言の言葉が、伝わってくるようだった。南さん、なんで、そんなものをはいてるの……? そんな格好で、恥ずかしくないの……?
 強烈な羞恥に、体温が四十度くらいまで上昇しているのではないかと思うほど、全身が熱くなっていた。
 しかし、今は、この程度で恥ずかしがっている場合ではないかもしれない。ゲームが始まったら、秋菜も見守るコート上で、自分は、この、Tシャツを押さえている手を、手放すことに……。
 つまり……、わたしの、下の毛が、滝沢さんの目に……。
 苦手意識のあるクラスメイト。日頃から、心のどこかに、あった気がする。あの子は、わたしのことを、どう思ってるんだろう……? あの子から、わたしは、どのように見られてるんだろう……? そんなふうな思いが。たとえば、自分が、仲のいい友人たちと、大声ではしゃいだり、おどけて、滑稽なポーズを取ってみせたりしている時、ふと、秋菜がそばにいて、いつものひんやりとした眼差しで、自分のことを見ているのに気づくと、なんとなく、気恥ずかしくなってしまうような。苦手な相手だからこそ、自分の格好悪いところ、恥ずかしいところは、見られたくないという意識。
 その滝沢秋菜の見ている前で、もうすぐ自分は、あろうことか、ブルマからはみ出た汚らしい陰毛を、変態みたいな姿を、さらす羽目になるということ。考えるだけで、気が狂いそうだった。
 やだやだ。むりむり。そんなの、わたし、とても耐えられない……。
 コート上が、地獄になることをわかっていて、体育館に、足を踏み入れた。だが、あり得ないほど不運なことに、ここへ来て、滝沢秋菜が現れたために、その地獄は、より一層、激烈なものになったのだった。



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