バレー部キャプテンと
よこしまな少女たち
第二十章
地獄からの脱出口
3



 教室に足を踏み入れると、涼子は、窒息しそうな圧迫感を覚えた。
 クラスメイトたちの視線が、次々と涼子に集まってくる。それと同時に、聞こえていた喧騒が、にわかに静まっていく。涼子の登場によって、教室内の空気が、明らかに変わったのだ。
 涼子は、誰とも目を合わせないようにして、しかし暗すぎる表情には見えないよう、ごくかすかな微笑を口もとに滲ませ、自分の席に向かった。
 席に着くと、顔の片側を隠したい心理も働いて、頬杖をついた。まるで、教室内で、自分ひとり、半裸をさらしているような、身の置き場のない思いに耐えながら、始業時間を待つ。
 例の噂が広まってから、涼子の周囲にいたクラスメイトたちは、潮が引くように離れていった。今まで、涼子が友達だと思っていた生徒たちの大半が、本当の友達ではなかったということだ。なんと、そのなかには、高校生活で最高に愉快な出来事とばかりに、嬉々として涼子の陰口を叩いている生徒たちもいるらしい。それを知ってからは、もはや、周りが敵だらけのような気さえして、クラスメイトたちに自分から話しかけることが、怖くてできなくなった。そのため、休み時間や移動教室の時には、しばしば孤立状態におちいってしまう。
 けれども、何人かの心優しい生徒は、涼子を見捨てておらず、以前のように声をかけてきてくれたり、一緒に行動しようと誘ってきてくれたりする。そんな時、涼子は、表情筋を最大限に使って、とびっきりの笑顔で応えるのだ。たとえ、その笑顔が、ほかの生徒たちから見れば、どれだけ滑稽なものであっても……。
 
 授業中は、別の形で苦しまされた。
 この何日間は、まったくといっていいほど睡眠が取れていないため、常に頭の芯が朦朧としている状態で、机に向かっているのだ。当然ながら、授業の内容は、何一つとして理解できないし、黒板を写したノートに書いてあることを見直しても、意味のない文字の羅列にしか思えない。そのため、涼子は、教師に当てられないよう、ひたすら祈り続けるしかなかった。
 しかも、やっかいなことに、不定期的に、脳が睡眠を求めてくるのだ。そうなると、もう、一瞬でも気を抜いたら、意識が、深い谷底に転がり落ちていきそうな感覚が続く。実際、前日の古文の授業中、涼子は、知らぬ間に眠り込んでいた。一度だけではない。二度も、居眠りをしてしまったのである。そのせいで、古文の教師を激怒させることとなり、今まで築き上げてきた信頼関係は、完全に崩れ去ってしまった。ほかの教科で、同じことを繰り返すわけにはいかない。そう強く思っている。
 だが、居眠りが許されない理由は、もう一つあった。
 自律神経の狂いが原因であろう、腸内環境が、著しく悪化しているためだ。ちょっと前までは、下痢に悩まされていたのだが、それが治まったと思ったら、今度は、ひどい便秘が待っていた。もう、かれこれ、一週間は、まともに便が出ていない。こんなのは、生まれて初めての経験だった。そして、便秘で何より苦しいのは、大量にガスが溜まることである。授業中は、席を離れられないので、お腹がぱんぱんに張ってしまう。そんな状態で、もし、眠りに落ちたら、制御不能となったガスが、一気に噴出しそうで怖かった。授業中に、大きな音のオナラを放ち、その、おそらくは公害レベルであろう悪臭を、辺り一帯に漂わせる……。それは、もはや、教室から逃げ出したくなるほどの大失態である。これ以上、恥をかくのだけは、絶対にごめんだ。
 そういった事情があるため、涼子は、猛烈な眠気が襲ってくるたびに、青あざになるくらい、腕や肩、太ももなどの肉をつねり、自分の体に痛みを与え続けることで、遠のく意識を懸命につなぎ止めていた。
 要するに、涼子にとっては、授業もまた、大変な苦行なのである。
 
 自分の体は、壊れ始めている。昼食時に、そのことを、はっきりと認識させられた。
 午後一時少し前、教室に残っているのは、クラスメイトの半分ほどだった。
 涼子は、自分の席で、バレー部の仲間、二人と一緒に食事を取っていた。お互いに話しやすいように、涼子は、右を向いて座っている。涼子の正面、つまり右隣の席には、同じクラスの柏木里美が座っており、二人が向き合っている形である。また、涼子の右側、つまり後ろの席には、別のクラスの浜野麻理が着席していた。浜野麻理は、友達の少なくなった涼子を心配して、わざわざやって来てくれたのだ。
 涼子の手には、学校の売店で買った、コロッケパンが握られていた。正直、食欲なんて、まったく湧いていなかった。それでも、とにかく栄養を取らねば、一日を乗り切れない。そういう気持ちで、涼子は、パンにかぶりつく。
 柏木里美と浜野麻理の二人は、涼子が、バレーコート上で痴態を演じたことなど、すっかり忘れたかのように、屈託なく振る舞ってくれた。それが嬉しくて、涼子も、周りの目など気にせず、手を叩いて大声で笑ったり、イエーイ、というかけ声と共に、二人とハイタッチを交わしたりしていた。
 そんな最中のことである。
 涼子の左側、つまり前の席に、ある生徒が腰を下ろした。それは、滝沢秋菜だった。
 思いがけぬことに、涼子は、どきりとした。
 秋菜は、その右隣の席のクラスメイトと話すために、そこに座ったらしかった。そのため、秋菜も、涼子と同じ方向を向いている。涼子と秋菜の距離は、わずか一メートル程度しかない。
 あの、バレー部の練習場での一件があって以来、涼子にとって、滝沢秋菜は、魔物みたいに怖ろしい存在だった。それゆえ、涼子は、秋菜のことを徹底して避けていたのである。そればかりか、絶対に目を合わせたくないので、彼女のいるほうには、極力、顔を向けないように意識していたほどだ。また、秋菜のほうも、涼子に対しては、間違いなく不快な感情を抱いているはずだった。その秋菜が、すぐそばにいる……。
 秋菜は、その右隣の席のクラスメイトと、たわいないお喋りをしている。一見、涼子には、まったく関心のない様子だ。だが、それは、ポーズのような気もする。ひょっとすると、涼子への当てつけの意味を込めて、そこに座っているのではないか。そんな疑念が、頭をもたげる。
 涼子は、恐怖に硬直していた。秋菜のその、しっとりとした話し声を聞いているだけで、動悸が速まってくる。
 滝沢さん……。いくらなんでも、わたしとの距離が、近すぎるでしょっ……。もしかして、わたしに、何か言いたいことでもあるの……?
 柏木里美も浜野麻理も、涼子の異変に気づいたらしい。
「おーい、りょーこー。どうしたのっ? 急に黙っちゃってさあ」
 浜野麻理が、涼子の肩を揺すってくる。
 涼子は、明るい自分に戻ろうと努めた。しかし、それは無理だった。笑顔ひとつ作れない。
「うっ、うん……」
 それだけ口にするのが、精一杯だった。目の前の光景が、二重にぶれて見える。
 柏木里美と浜野麻理の二人は、いよいよ怪訝そうに顔を見合わせる。
「ちょっと、涼子、本当にどうしちゃったの!?」
 今度は、柏木里美が、真剣な口調で尋ねてきた。
 涼子は、内心で絶叫していた。やめて……! 横にいる滝沢さんの注意を引くようなことは、やめて……!
 だが、もう駄目だった。滝沢秋菜と、その話し相手であるクラスメイトも、涼子たちから、ただならぬ空気を感じ取ったらしく、二人の顔が、こちらに向けられた。
 秋菜の視線が、自分に注がれているのを感じる。
 恐怖は、たちまち頂点に達した。
 パンを持つ右手が、かたかたと震え始めた。
 バレー部の仲間、二人も、また、秋菜たちも、涼子の震える右手を凝視する。
「涼子……」
 柏木里美が、呆然とつぶやく。
 手の震えは、激しくなる一方だった。パンを取り落としてしまいそうである。
「だいじょうぶ!? 落ち着いてっ! どうしたの!?」
 浜野麻理が、身を乗り出し、涼子の右手を、がっちりと握り締めた。これ以上、涼子を見世物にしたくない、というように。
 涼子は、はあっ、はあっ、と荒い息を吐き出した。とにかく、呼吸を整えようと思った。バレーの試合で、サーブを打つ前のように、ゆっくりと深呼吸をする。それを何度も繰り返す。そして、浜野麻理の手のぬくもりを意識した。今は、かけがえのない友達である浜野麻理が、自分を守ってくれている。その安心感もあって、だんだん、気持ちが落ち着いてきた。
 柏木里美と浜野麻理は、涼子の身を案じる言葉をかけ続けてくれた。
 しかし、そんな彼女たちとは真逆に、滝沢秋菜は、いつものあの、冷ややかな眼差しで、じっと涼子のことを見すえていた。きっと、涼子に対して、こう思っているに違いない。こんなふうにはなりたくない……、と。
 その時、涼子は、恐怖に震えるのではなく、言いようのない屈辱感を噛み締めていた。
 
 やがて、その昼休みが終わり、次の授業が始まった。
 授業の間、涼子の胸の内では、滝沢秋菜に対する呪詛の念が、延々と渦巻いていた。
 滝沢さん……。あなた、わたしのことを、心の底から軽蔑してるんでしょう? わかってる。ちゃんと、わかってる。南涼子は、変態? うん、そう思われても仕方がないよねえ。なんていったって、自分の裸の写真を、あなたの保健の教科書に貼りつけて返したり、犯罪的に恥ずかしい格好で、部活の練習に出たりしたんだもん。でも……、滝沢さん。すべては、この学校にいる悪魔たちが、わたしにやらせたことなの……! 普通の高校生活を送っている、あなたには、とても信じられないでしょうけど。わたしと違って、あなたは、気楽な身分で、いいよねえ。本当に羨ましい。だけどね……、そうやって、のうのうとしていられるのも、今のうちだからね。あの悪魔たちの、次のターゲットは、滝沢さん、あなたなんだよ? 確実に、あなたも、地獄に引きずり込まれるでしょうね。そうなったら、どうなるか? 決まってんじゃない。わたしの裸の写真、あなた、見たでしょ? あれが、近い将来の、あなたの姿なの……! プライドの高そうな、あなたに、耐えられる? もしかしたら、それだけじゃなく、わたしみたいに、大勢の生徒が見てる前で、恥をさらすことになるかもね。そういう目に遭えば、わたしの気持ちも理解できるでしょうよ。早く、一刻も早く、あなたも、わたしのところまで堕ちてきなさいよ……! もうこれ以上、あなたに上から見下されてると、わたし、本当に壊れちゃいそうなの……。
 
 休み時間は、人間関係で神経がすり減り、授業中は、体の様々な不調と戦い続け、また、しばしば、ショックに打ちのめされるような出来事が起こる。そうして、身も心もボロボロになりながら、涼子は、ようやく終業時間を迎えた。
 しかし……、本当の地獄は、むしろ、これからだった。



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