バレー部キャプテンと
よこしまな少女たち
第二十章
地獄からの脱出口
4



 帰りのホームルームが終わった後、涼子は、トイレの個室の壁に寄りかかり、ぐったりとしていた。
 部活の練習が、そろそろ始まる頃だ。だが、体育館に向かう気になれない。
 バレー部の部員たちの目には、まだ、生々しく焼きついているに違いない。涼子のあの、浅ましい姿が。涼子の体の汚いものが。ある意味、この学校内で、涼子のことを、もっとも軽蔑しているのが、ほかならぬ部員たちであろう。その部員たちと、顔を合わせることを考えるだけで、足がすくんでしまう。しかも、である。先ほどまでは、自分の席で、頬杖をつきながら、じっと苦痛に耐え続ける、という受け身の姿勢が許されていた。だが、これからは違う。自分自身が、恥ずべき存在であることを承知のうえで、キャプテンとして、率先的に行動していく必要があるのだ。自らのプレーで手本を示し、部員たちに大声で指示を出し、時には、後輩たちに活を入れ、そうしてバレー部全体を引っ張っていく……。考えれば考えるほど、絶望感で、気が遠くなってくる。
 しかし、いつまでも、こうしてトイレに閉じこもっているわけにはいかない。
 行くしかないのだ。
 涼子は、なまりのように重たい体にむち打ち、個室のドアを開けた。
 その後は、立ち止まることなく、体育館へと歩いていった。
 
 部室に入ると、涼子は、制服を脱いで、白いTシャツと黒のスパッツに着替えた。壁に備え付けられた縦長の鏡に、練習着姿の自分を映してみる。制服を着ている時とは違い、上半身、下半身ともに、筋肉の盛り上がりが、顕著に現れている。これまで、厳しい練習を重ねてきた、そのたまものだ。心なしか、自分が、頼もしい存在に見えてくる。それと同時に、徐々に覚悟が芽生えてきた。
 涼子は、気持ちを奮い立たせるつもりで、両手で、体中をばちんばちんと叩いていった。ほっぺたから始まり、肩、腕、脇腹、背中、おしり、太もも、すね、と。それを終えると、おしっ、と声に出した。
 もう、よけいなことは考えない。わたしは、自分のやるべきことを、やり通すだけだ。

「しゅーうぅぅごーうぅ!」
 体育館フロアに入るなり、涼子は、腹の底から声を張り上げた。
 三十人を超える部員たちが、こちらに集まってくる。だが、以前に比べて、一人ひとりが、なんとなく、とろとろと動いているように見えてならなかった。しょうがないから、行ってやるか。部員たち全体から、そんな空気が伝わってくるのは、気のせいではあるまい。
 涼子は、初っぱなから、気勢をそがれる思いがした。
 心の準備は、できていたはずだ。しかし、目の前に集合した、部員たちの顔を見渡すと、どうしても気後れしてしまう。そんな自分を、心の中で叱りつけ、ミーティングを始めた。むろん、中心的に話すのは涼子だが、ほかの部員たちに発言させることも大事だ。だから、試しに、何人かの部員に、話を振ってみた。けれども、彼女たちの反応は、極めて鈍いものだった。
「まあ、メニューは、昨日と一緒でいいんじゃない?」
「とくに、ありません」
「まだ、そういうことは、わからないので」
 こんなのは、ミーティングとは呼べない。
 涼子は、ため息をつきたくなったが、ここは、キャプテンである自分が、どうにか空気を変えなくては、と前向きに考え直した。まず笑顔だ。今のバレー部には、笑顔が、決定的に足りていない。直感的に、そう感じた。なんでもいい。部員たちの笑いを誘うようなセリフを、口にしてみよう。
「あと……、一年生、とにかく声出し。今日の練習で、全然、声が出てなかったら、一年生、全員、罰ゲーム。そうだねえ、何をやってもらおうかなあ……」
 あごに手を当て、つかの間、考えを巡らした。
「いいこと思いついた。校舎の屋上から、一人ずつ、初恋の人の名前、大声で叫んでもらう」
 涼子は、不敵な笑みを浮かべてみせた。渾身のジョークだった。
 しかし、期待外れなことに、笑いは起こらなかった。それどころか、部員たちの間には、寒風が吹いたような雰囲気さえ漂っている。以前ならば、こういう時、誰かしらから、突っ込みが入ったものなのに。
「……っていうのは、もちろん、冗談なんだけどさ、それくらい、気合い入れてねってこと」
 涼子は、ひどく決まりの悪い思いに耐えながら、ふたたび喋り始めた。
 だんだん、頭の中で、ネガティブな思考が膨らんでくる。
 結局、みんなが言いたいのは、こういうことか。南涼子は、キャプテン失格。それも当然かもしれない。わたしは、恥ずべき存在なのだ。部員全員の前で、あれほど恥ずかしい姿をさらした女が、いったい、どのツラ下げて、リーダーとして振る舞っているのか。自分で自分の顔を見てみたい。さぞかし、馬鹿みたいな顔をしているんだろう。
 そんなことを考えながら、口を動かし続ける。それは、まさに拷問のような苦痛を伴うことだった。
 
 バレー部の練習は、校外でのランニングから始まる。それを走り終えて、体育館に戻ってくると、涼子は、自分の身の異変に、戸惑いを覚えた。軽く体を動かしただけなのに、早くも、全身に、ぐっしょりと汗をかいていたのである。健康だった頃ならば、あり得なかったことだ。おそらくは、これも、自律神経の狂いが根本的な原因で、汗を分泌する汗腺の働きが、異常に活発化している状態なのだろう。しかも、噴き出した汗は、爽快感とは、ほど遠い、べたべたとしたもので、臭いも、強いような気がする。
 涼子は、自分の体の不健康な要素を、また一つ、知ってしまったことで、やるせない気持ちになった。天に向かって叫びたい。お願い……! わたしの元の体を、返して……!
 
 練習が始まってから、二時間ほど過ぎた頃のことである。
 スパイクの練習中に、とうとう、涼子は、仲間と深刻な揉め事を起こしてしまった。
 肉体的にも、疲労は、極限に達していた。この何日間は、まともな休息を取れていないのだから、当たり前のことである。一歩、脚を動かすごとに、体中の骨の、みしみしとした音が、聞こえてきそうな気がした。
 スパイクの順番待ちの列に並ぶと、間もなく、自分の番が回ってきた。
 トスが上がる。
 涼子は、助走をつけ、持てる力を総動員してジャンプし、ボールを叩き込んだ。
 しかし、そのボールは、相手コートのエンドラインの外に飛んでいった。
「ああ、くっそぉ!」
 つい、そう言葉を漏らした。先ほどから、スパイクが、ろくに決まらないのだ。
 涼子は、コートの外に出ると、両手を膝についた。はあああっ、と焼けるように熱い息を吐き出す。今や、涼子の体は、滝を浴びたかのように、汗で濡れそぼっていた。顔や髪の毛はもちろん、Tシャツやスパッツからも、汗のしずくがしたたり落ちる。恐ろしいくらいに汗が出るせいで、体力をよけいに消耗している感じだった。それと、はっきりとわかったことがある。この大量の汗が、ひどい臭いを発しているのだ。その臭さといったら、まるで、自分だけ、ドブの水か何かで水分補給をしているのではないかと思うほどである。この原因については、おおよそ見当がつく。今でも、お腹に意識を向ければ、大腸の下のほうに、ずっしりと便の詰まっている感覚がある。おそらくは、溜まりに溜まった便が、かなり腐敗してきており、それによって発生した有害物質が血液に溶け込んで全身に回り、毛穴から汗として排出されている状態なのだろう。想像するだけで、気が滅入ってくる。自分の体が、どんどん汚いものに変わっていくという感覚は、思春期の女の子にとって、泣きたいくらい悲しいものだった。
 涼子は、うめき声を漏らしながら立ち上がる。ともかく、自分で、自分の汗臭さに閉口してしまうのだから、周りの部員たちには、さぞかし不快感を与えているに違いない。その根本的な原因であろうものを、どうにかしたいと、痛切に感じる。つと、へその下に触れた。常に便意だけはあるのだ。だから、学校のトイレで踏ん張ることも、再三だったが、毎回、小動物のそれのようなものしか出てこない。しかし、今度こそ、という思いで、フロアの出入り口に向かう。出入り口を出てから、館内通路の途中で、冷水機の水を、これでもかというほど、がぶ飲みし、それから、トイレへと歩いて行った。



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