バレー部キャプテンと
よこしまな少女たち
第二十章
地獄からの脱出口
5



 十数分後、涼子は、トイレから出た。案の定、結果は、貴重な体力を馬鹿みたいに削っただけだった。そのせいで、全身の脱力感が半端ではなく、真っ直ぐに歩くことすら難しい。しかし、練習は、まだまだ終わらないことを思うと、恐怖にも似た感情に襲われ、ぐらぐらと目まいがした。ひょっとすると、自分は、練習中に血を吐いて倒れるかもしれないな……。本気で、そんなふうに思い始めた。
 
 フロアに戻ると、涼子は、両手を腰に当て、しばし、部員たちの様子を眺めていた。とにかく苛立たしい気分だった。自分の体の問題に悩まされているせいもある。しかし、それだけではない。練習が始まってから、ずっと思っていたのだが、声出しをしない部員が、多すぎるのだ。とくに問題なのは、やはり、ボール拾いをしている一年生たちである。今日の彼女たちは、まるで、入部当初の頃に逆戻りしてしまったように活気がない。おのおのが、ただ黙々と動いている、という感じなのだ。バレーにおいて、声出しは、基本中の基本だ。そのことを徹底的に教え込むのは、キャプテンである自分の役目だろう。
 涼子は、両手を強く叩いた。
「ちょっと一年生! 全員、集まって!」
 厳しい声で叫ぶ。
 一年生たちが、こちらにやって来る。
 十数人の部員が、涼子の前に集合した。
「あのさあ、あんたらのなかで、自分は、しっかりと声出ししてますって、自信を持って言える人、手、挙げてみて」
 涼子は、威圧的な口調で言う。
 十秒近く待った。
 誰も手を挙げない。
「そっか……。わたし、今日のミーティングでも、言っておいたよね? 声を出せって。なのに、なんなの? 自分たちは、黙ってボール拾いしていれば、それでいいと思ってんの?」
 涼子は、一人ひとりに、鋭い視線を送っていく。
 一年生たちは、そのほとんどが下を向いている。
「……あんたらさ、やる気ある?」
 涼子は、立て続けに問いかけた。
 だが、返事をする者はいなかった。
 その無反応ぶりに、涼子は、頭に血が昇るのを感じた。
「聞いてるんだから、返事くらいしなさいよっ!」
 つい、大声で怒鳴ってしまった。
 だが、それでも、一年生たちは、まるで示し合わせたかのように、口をつぐんでいる。
 反抗のつもりか……? 涼子は、一年生たちの態度に、怒りを通り越し、驚きの念すら覚えた。
「もういいっ……。一年、全員、校庭の横で、ダッシュ往復三十本。今すぐ行って」
 投げやりに命じ、フロアの出入り口のほうを、親指で指した。
 しかし、一年生たちは、誰一人として動こうとせず、どうしようかと迷うように、互いに視線を交わし合っている。なかには、ふて腐れたような顔をしている部員も、何人か見受けられる。
「早く行けぇぇぇぇぇぇ!」
 涼子は、雷のような怒号を発した。
 それにより、一年生たちは、ようやく、しぶしぶとフロアの出入り口へと歩き始めた。
 そんな彼女たちの背中に、涼子は、言葉を投げつける。
「あと、しっかりと声出しする気になれないんだったら、もう戻ってこなくていいから」
 一年生たちは、無言でフロアの出入り口から出て行く。
 涼子は、深いため息をついた。

「南先輩、やりすぎですよお」
 背後から、いきなり聞こえた。
 振り向くと、二年生の部員、沼木京香が立っていた。
「なに? わたし、何か、間違ったことしてる?」
 涼子は、強い語気で尋ねる。
 京香は、言いにくそうに唇を噛み、それから答えた。
「今、南先輩が、一年生たちに厳しく当たるのは、逆効果にしかならないと思うんですよ」
 意味がわからなかった。
「何が言いたいわけ……? わたしには、キャプテンとしての責任があるの。今日は、一年生たちから、ちっとも、やる気が伝わってこなかった。だから怒った。当たり前のことでしょっ? だいいち、なんで、二年のあんたが、わたしの指導のことに、口を出してくんのよっ。すんごい腹立たしいんだけど」
 涼子は、興奮してまくし立てた。
 すると、京香は、呆れたような顔をした。
「南先輩……。自分の立場、わかってないんですか?」
 その言葉に、一瞬、涼子は、唖然とした。
 しかし、その直後、京香に詰め寄った。
「どういう意味よ?」
 自分より、五、六センチ背の低い京香の顔を、にらみつける。
 京香は、やや身を引くような素振りを見せた。こちらの気迫に怯んだのだろう、と最初は思った。が、京香のその、苦々しげな表情を見て、ぴんときた。もしかしたら、京香は、涼子の強烈な体臭に不快感を抱き、つい後ずさりしそうになったのかもしれない。
 涼子は、羞恥を感じたが、それでも、京香の顔を、にらみ続けた。
 だが、気の強い二年生の部員は、鼻に微妙なしわを寄せながらも、涼子の目を、じっと見返してくる。
 その時、横から聞こえた。
「もう、みんな、あんたには、付いていきたくないってことよ。涼子」
 副キャプテンの高塚朋美の声だった。そちらを見やると、朋美は、片手を腰に当て、いかにも傲然と立っている。
 涼子は、おもむろに京香から離れ、朋美のほうに歩いていった。そして、朋美のすぐ前に立ち、両腕を組んだ。今にも、互いに胸ぐらをつかみ合わんばかりの距離である。朋美は、百七十センチを超える長身であるが、迫力では、涼子も、まったく引けを取らないはずだった。
 涼子が口を開こうとした、その直前に、朋美は、京香とは違って、あからさまな反応を示した。鼻をつまみ、顔を横にそらしたのだ。涼子のことを横目で見る、その侮蔑的な眼差しが、はっきりと語っている。あんた、くさい……。
 涼子は、激しい屈辱感に、体が熱くなるのを感じた。しかし、一歩たりとも後ろに引こうとは思わなかった。努めて冷静な声で問う。
「それだったら、みんな、誰になら、付いていくっていうの? 朋美」
 やや間が空いた。
 朋美は、実に嫌そうに鼻から指を離すと、涼子の顔を真っ直ぐに見て答えた。
「わたしが、キャプテンを務める。最後の大会までは、わたしが、みんなを引っ張っていく」
 どうやら、本気で言っているようだ。
 涼子は、ごくりと生唾を飲み込む。かつてない窮地に立たされていた。
 これ以上、自分がキャプテンを続けるのは、バレー部にとってよくない。そんなことは、充分に理解している。だが、ここで、朋美にキャプテンを交代したら、どうなるか。まず間違いなく、涼子が、バレー部の合宿費を『紛失』したということが、白日のもとにさらされるだろう。その事態だけは、何がなんでも防ぎたかった。それゆえ、涼子は、合宿費を全額、取り戻すまでは、どんなに苦しくとも、キャプテンの座を譲るわけにはいかないのだった。一言でいえば、自己保身である。
 涼子は、後ろめたい思いもあって、朋美から視線を外し、そして口にした。
「言っておくけど、わたしは、キャプテンを辞めるつもりはないから……」
 すると、朋美は、はんっ、と笑った。
「勘弁してくんない? 涼子、あんた、自分が何やったか、もしかして憶えてないの? ……この前のゲームの時、信じられない格好でプレーしてたよね? わたし、目を疑ったもん。え? 何事って……。あの時のあんた、完全に変質者だったから。いい? ちゃんと自覚して。あんたは、部員全員に、とんでもない迷惑をかけたの。それでいて、キャプテンを辞めるつもりはない? 笑わせないで。どこまで厚顔無恥なの?」
 涼子は、床の一点を見つめていた。朋美の言うことは、もっともかもしれない。だが、その、過剰なまでの攻撃的な口調には、腹が立ってならなかった。
 朋美は、涼子の顔を、のぞき込むようにしてきた。
「一年生たちが、声出ししなくなったのは、誰のせい? 二年も三年も、ぐだぐだな感じがするのは、誰のせい? 涼子、ぜーんぶ、あんたのせいよ? その当たり前のことを、あんたひとりだけ、わかってないっていう状況なの。あんたみたいな人間を、裸の王様って言うんだろうねえ……。いい? これだけは断言できる。あんたが、キャプテンでいる限り、元のバレー部に戻ることはないの。わたし、こーんな状態で、最後の大会に臨むなんて、耐えられないなあ。だって、絶対に悔いが残っちゃうもん。今まで、色んなことを犠牲にして頑張ってきたのは、なんだったんだろうってね」
 もはや、その物言いからは、悪意すら感じ取れた。
 涼子は、朋美に対し、強い敵対心を持った。
「嬉しいんでしょ、朋美……」
 ぼそりと言う。
「はっ?」
 朋美は、聞き返してくる。
 涼子は、朋美の顔に、視線を戻した。
「嬉しいんでしょ、本当は……。あんたさ、一年前、自分がキャプテンに選ばれなかったことに、すごい不満を持ってたらしいじゃん。だから、今になって、わたしが、部員たちの人望を失ったことが、嬉しくてしょうがないんでしょ? なんていったって、キャプテンになれるチャンスだもんねえ?」
 どんどん口調が熱を帯びていくのを、自制できなかった。
 朋美の顔には、驚愕の表情が浮かんでいる。
「なに言ってんの……? あんた、心が歪んでる……」
「念のために、もう一度、言うけど、わたしは、キャプテンを辞めるつもりはない。だって、次にキャプテンになるのが、あんたみたいな身勝手な人間じゃあ、辞めるに辞められないから」
 涼子は、そう言い残して、その場を去ろうとした。
 が、次の瞬間、左頬に、衝撃が走った。
 朋美の右手が挙がっている。ビンタを喰らったのだと気づく。
 驚かされたが、すぐに、燃えるような闘争心が湧き上がってきた。
 涼子は、右手を振り上げると、手加減なしに、朋美の頬を平手で打ちつけた。朋美のビンタの、二倍、いや三、四倍の威力だったはずだ。
 かなり効いたらしく、朋美は、痛そうに左頬を押さえた。
 涼子は、つんっと、あごを反らした。取っ組み合いの喧嘩なら、受けて立つ。そういう覚悟だった。
 そこで、涼子と朋美のやり取りを見ていた沼木京香が、二人の間に割って入った。
「二人とも、やめてくださいよっ!」
 京香は、両手を突っ張り、涼子と朋美を離れさせる。それから、朋美の側に付いた。向こうに行きましょう、というように朋美の体に腕を回しながら、涼子のことを、非難がましい目で見てくる。
 朋美は、目じりをつり上げていた。
「あんたには、絶対、キャプテンを降りてもらうからっ! この、バレー部の恥さらしっ!」
 がなり声で捨てゼリフを吐き、京香と共に、向こうに歩いていく。
 気づけば、二、三年生の部員、全員が、かたずを飲むようにして、涼子たちの成りゆきを注視していた。
 涼子は、スパイクの順番待ちの列に並ぶ気力もなく、その場で天井を仰いだ。照明がまぶしく、ぎゅっと目を閉じる。もはや、精神的にも肉体的にも、壊れる寸前だという気がする。人間って、壊れたら、どんなふうになるんだろう……? そんな疑問が、ぼんやりと脳裏に生じた。



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