バレー部キャプテンと
よこしまな少女たち
第二十五章
もどかしい距離感
3



 その日、バレー部の三年生部員たちは、練習時間の前半を、トレーニングルームでのマシントレーニングに当てていた。
 息苦しいまでに充満する熱気。競い合うように体を動かす部員たち。
 キャプテンの南涼子は、まず、スタミナの一層の向上のために、有酸素運動として、エアロバイクのペダルを漕ぎ始めた。たっぷり四十分ほど、それを続け、ほどよく汗を流す。続いて、本格的な筋力トレーニングである、ベンチプレスのマシンに移った。その一番の目的は、大胸筋を主として、上腕三頭筋や腹筋など、上半身全体の筋力強化だった。
 午後五時頃になると、三年生部員たちも、適当なところで切り上げては、三々五々、退出し始め、バレー部の練習場である体育館へと向かっていく。
 しかし、涼子は、自らに課したトレーニングメニューを、最後までこなすべく、バーベルを両肩に担いでのスクワットを続けていた。
 バーベルスクワットは、バレーボーラーにとっては、命でもある、下半身の筋肉の肥大化に、極めて有効なトレーニングである。とくに、ゆっくりと腰を落とし、おしりを、ぐぐっと後ろに突き出す際、下半身に意識を集中すると、大臀筋から大腿筋にかけての筋肉が、限界までパンプアップしている感覚を得られる。
 やっとのことで、そのメニューを終えた時には、もう、練習着であるTシャツもスパッツも、水を浴びたように、汗でぐっしょりの状態になっていた。
 室内を見回すと、案の定、残っているのは、涼子ひとりだ。
 そのため、涼子は、トレーニングルームを出ると、ドアを施錠し、鍵を返却するべく、職員室に向かった。
 心のしこりとなる出来事は、その後に起こったのだった。
 
 職員室へと続く廊下の角を曲がったところで、涼子は、はっと目を見開いた。
 まさに今、職員室のドアが開き、クラスメイトであり、また、涼子としては、どうも、相性のしっくりこない相手である、滝沢秋菜が出てきたのである。
 あ、滝沢さんだ……。
 部活に所属していない秋菜が、どうして、この時間まで学校に残っているのか、という疑問を抱く。しかし、なんにせよ、秋菜と打ち解けて話すには、絶好の機会であると思い、涼子は、胸躍る気分になった。 
 これって、ラッキーじゃん……。
「滝沢さーんっ!」
 涼子は、思わず名前を呼び、まるで、アイドルに握手を求める女性ファンのように、きゃぴきゃぴと秋菜のもとに突き進んだ。が、五、六メートルまで迫ったところで、ぴたっとストップした。今、自分の身に着けている、Tシャツとスパッツは、二時間以上に及ぶ、激しいトレーニングで掻いた汗を吸い、びしょ濡れの状態なのだ。これ以上、近寄ったら、秋菜に、汗臭い、と思われてしまうに違いない。
「南さん……」
 秋菜の、その冷ややかな印象を放つ目つきには、かすかながら戸惑いの色が表れている。
「あっ、滝沢さん、どうしたの!? こんな時間まで」
 涼子は、やや不自然かもしれないが、とびっきりの笑顔を作ってみせた。
「ちょっと……、英語の補習を受けてて……。そのせいで、遅くなっちゃった」
 秋菜は、例によって、しっとりとした声で答える。
 そういえば……、と思い出す。滝沢秋菜は、難関大学の受験に向け、自ら望んで、しばしば個人的な補習を受けていると、クラスメイトから聞いたことがある。
「そっかそっかぁ、偉いなあ……。わたしもさ、この夏で、部活引退だから、そのあとは、滝沢さんみたいに、勉強一筋で、頑張らないといけないなって思ってる……。あの、あの、わたし……、自分では、どうしても解けない問題とかあったら、もしかすると、滝沢さんに、教えを請うかもしれない。その時は、ぜひ、よろしくね?」
 涼子にとっては、勇気を振り絞った発言であり、我知らず、もじもじと両手の指をいじっていた。そして、遅まきながら、こんな時に、秋菜にアプローチしてしまったことを、徐々に後悔し始める。対照的な二人。いかにも涼しげなオーラをまとった秋菜と、全身、汗だくの自分が、こうして相対しているという、このシチュエーション、それ自体に、ひとりの女の子として、なんとなく、言い様のない決まりの悪さを感じてしまう。
「南さんの、バレー部のほうは……、たしか、この夏に、三年生にとって最後の、大事な大会が控えてるんだったよね? そのせいもあるのか……、なんか、見るからに大変そうだね……」
 バレー部のことについて、秋菜が、少しでも知っていてくれたのが嬉しくて、涼子は、うん、うん、とテンション高めにうなずく。だが、その語尾の意味を考えると、どきっとした。
 見るからに大変そう……?
 秋菜の顔を、まじまじと見返す。
 今、秋菜の視線が、これまでより下方、つまりは、涼子の胸もとあたりに注がれていることに気づく。
 涼子は、慌てて自分のTシャツに目を落とした。ブラジャーが透けて見えるほど、汗で濡れそぼった白い生地。
 間違いない。涼子が、尋常ではないくらい、汗を掻いていることに、秋菜は着目しているのだ。
 たちまち、胸の内が、不安でいっぱいになる。
 もしかして、わたしの汗の臭い、滝沢さんの鼻に届いてる……!?
 そのことを考えたとたん、血の気の引く思いがした。
 さらに、そこで、自分の下半身に意識を向けると、スパッツの生地が、まるで水着のように、汗で肌に張りついているのを、改めて感じる。下手をすると、Tシャツだけではなく、スパッツのほうも、かなり臭気を放っているかもしれない。
 やだ、やだ、恥ずかしい、めっちゃ恥ずかしい……。
「あ、あの、わたし……、今まで、二時間以上、トレーニングルームに籠もって、マシントレーニング続けてたから、その……、だいぶ、ね……。あっ、ごめんねえ、なんかぁ!」
 涼子は、つい、気まずい思いをした時のクセで、サイドの髪を両耳にかけていた。
 その時になって、ようやく、一刻も早く、秋菜とのやり取りを切り上げ、職員室に駆け込むべきだという危機感を抱く。だが、ちょうどドアのところに、秋菜が立っているのだ。もし、その横を通り過ぎたら、今度こそ、秋菜に、鼻を摘ままれてしまいそうで、怖くて動くに動けない。
 秋菜は、不思議そうな表情で、そんな涼子の様子を眺めている。
 どうしたらいい……?
 一瞬の逡巡の後、判断を下した。
「わたし、何しにここに来たんだっけ? そうだ、トレーニングルームの鍵、返しに来たんだ……。でも、そういえば……、その鍵、ほかの子に預けたんだった。ここに来た意味、ねえぇぇぇぇぇっ! それじゃあ、体育館で、ずっと部員たちを待たせてるから、そろそろ行くね! じゃっねえ、滝沢さん」
 涼子は、秋菜のほうに、左の手のひらを突き出す。
 秋菜は、ぽかんとしている。
 そんな秋菜に背を向け、涼子は、競歩のような足取りで引き返していく。
 別棟まで来ると、廊下の壁に背中をもたせかけ、はあーっ、と溜め息を吐いた。
 あっちゃあ……。絶対、滝沢さんに、変に思われちゃったよ……。
 たった今の自分の行動を、脳内で繰り返し再生すると、まるで、好きな人に対する、ナイーブな少女みたいな反応だと思い、赤面しそうな感情が湧き上がってくる。しかし、今一度、自分の肩に鼻を寄せ、Tシャツの臭いを確かめると、あのまま、職員室に向かわなくてよかった、という心持ちになる。
 あの子にだけは、下に見られたくない……。そのような対抗心のせいだろうが、滝沢秋菜の前だと、どうしても、女の子としての品位を保ちたいという心理が、同性同士にもかかわらず、強く働いてしまうことを、否が応でも自覚させられる。
 滝沢さん……。
 涼子は、彼女の名を、心の中でつぶやいた。
 要するに、自分と滝沢秋菜は、互いの気持ちを探り合う男女にも似た、もどかしい距離感で接する関係だったのだ。



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