第三章〜無力な声


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第三章〜無力な声




 舞台の下見として、初めてこの場所に足を踏み入れたのが、本番の前日、つまり一昨日だ。だから、連続三日、ここに訪れていることになる。
 初日から感じていたのだが、なにより陰気くさい。空気は淀んでじめじめしているし、埃とカビの匂いが、間断なく鼻孔の前を流れている。慣れることはできない。
 しかし、これから南涼子に降り懸かる運命を考えると、にわかに、このスペースが監獄のように思えてきて、お誂え向きだという、ちょっとした高揚感も感じるのだった。誰よりも涼子本人が、この場の陰鬱さを身に染みて感じ、そして、おどろおどろしく思うことだろう。
 だったら、いいじゃない。環境的要素は、演出の役割を果たしてくれている。

 吉永香織は、灰色のコンクリートの壁を、靴先でこんこんと蹴った。
 すぐ隣には、石野さゆりが、壁に凭れて座り込み、携帯電話をいじっている。液晶画面を確認したわけではないのだが、どうも、ゲームで遊んでいるようなのだ。まったく、この後輩は、こんな時に、なぜそんなことをしているのか。
 もうすぐ涼子が来るのだから、話し合うことは、限りなくあるはずなのに。あの女に、今日は、こういった嫌がらせをしてみたいとか、逆に、もし思い通りに事が運ばなかったら、どうするかとか。
 期待と不安。さゆりの胸中には、それがないのだろうか。
 この子は、香織と明日香が盛り上げてくれれば、それに乗っかるし、不測の事態になった場合の解決も、全面的に先輩たちに任せようという、受動的なスタンスなのだ。
「さゆりっ」
 香織は、苛立ちを隠さない声で呼んだ。
「はい?」
 さゆりは、いつものように口元を微笑の形にして、香織を見上げた。この顔を見ると、香織は、怒るものも怒れないのだった。
「はい、じゃないでしょっ。もうすぐ、あいつが来るんだから、カメラ用意しておいてよ。すぐに使えなかったら駄目でしょう……」
 あきれ口調で香織は言った。

 体育倉庫に入る前に、香織とさゆりは、涼子の姿を一目見ていこうと、体育館のギャラリーを訪れていた。
 連日集まっている、南涼子ファンの後輩たちに混じって、同じ対象に目を向けた。
 威厳を示すかのように腰に手を当て、片脚に重心を掛けて立っている涼子の姿が、印象に残っている。
 時たま、涼子の怒鳴り声が、フロアに響くのだった。「よし! 気合い入れてこ!」とか「一年生、もっと声出して!」などと。
 香織にとっては、愉快この上ない光景だった。癒えない傷心を抱え、不安は片時も頭から離れないだろうに、部長としての責務をこなそうとする、その姿勢。あるいは、卑劣な辱めを受けたからといって、血と汗を流し、これまで積み重ねてきたものまで、奪われてたまるかという意地だろうか。
 なんにせよ、その姿は滑稽で哀れだったが、心地良い反動のように、香織を悦ばせてくれた。もし精気が消えたら、それほど詰まらないことはない。
 涼子のそばには、我らが竹内明日香も、紺のジャージを着込んで立っていた。
 自分を罠に嵌めた女から、間近で監視されているのは、いったい、どんな気分だろうか。
 それでも表向きは、文句なしに、いつもの南涼子だった。
 香織は、その、運動着を身に着けている、かっこいい涼子の姿も、カメラに収めるべきだと断を下していたのだった。

 さゆりは、バッグに携帯電話をしまい、代わりに、デジタルカメラを取り出した。
「大丈夫ですよ、先輩。いつでも、オッケーイ」
 香織は、自分のバッグの上に無造作に載せてある、一枚の写真を手に持った。体の芯が、ぼっと熱くなる。
 写っているのは、裸で股だけを両の手で覆っている涼子の全身だった。爪先から、頭のてっぺんまで、しっかりとフレームに収まっている。さゆりから手渡されて目にした時は、この生々しい肉体美に、思わず、鼻先がくっつくほど顔を近づけ、見入ってしまった。
 残念なのは、俯いているせいで、表情がわからないうえ、前髪が垂れて眼差しを隠してしまっていることである。ともすると、現場にいた香織たち以外の人間には、これが涼子だと確信が持てないかもしれない。
 今日は、この顔を上げさせてやる。そして、恥ずかしそうに隠している両手もどけさせてから、さゆりにシャッターを切らせる。要するに、決定的な弱みを握るのだ。

 香織が、写真を見つめてほくそ笑んでいる時、階上で、扉の開く大きな音が響いた。
 とうとうやってきた……。香織は、胸が躍るのと同時に、緊張で、かすかに膝が震えだすのを自覚した。
 何かを言い合っている二人の声が、上から伝わってくる。明日香と涼子であることに、間違いなかった。
 ほどなくして、注意深い気配を感じさせる足音がひとつ、下りてきた。
 姿を現したのは、正真正銘の、南涼子だった。
 慎重な足取りだが、かといって臆しているふうでもなく、涼子は、シューズの足を地下の地面につけると、徐々に香織たちとの距離を詰めてきた。壁の中ほどで待っている二人から、四、五メートルほどの地点で、涼子は足を止めた。
 涼子は、怒りや軽蔑といったものを籠めた視線を、香織とさゆりに対し、鋭く向けていた。その目つきに宿っている力に香織は圧倒されて、からかうことはおろか、目を合わせることすらできなかった。
 ちらっと、座り込んでいるさゆりを見やったが、彼女もまた俯いており、内心を誤魔化すように、爪をいじっている。
 出鼻を挫かれた思いだった。涼子の、この、ちっとも怯えていない素振りは、なんなのか。いくら涼子が誇り高く、強靱な精神力を持っているとしても、もう少し、おどおどすると予想していたのに。
 香織は、試しに仕掛けてみることにした。
「あのさあ、明日香はどうしたの? 一緒じゃないの?」
 横目で、涼子の表情を確かめる。
 涼子は、こちらを真っ直ぐに見据えたまま、しばし黙っていたが、面倒くさそうに瞼を閉じながら、ぶっきらぼうに言った。
「しらない」
 むかつく態度だ。だが、香織には、むかつく涼子と、面と向かって火花を散らす勇気などなかった。
 だんだん、香織は、胸騒ぎを感じ始めた。昨日は、不意打ちをかけることで涼子を動揺させ、判断力を奪うのに成功したが、今回は状況がまるで異なる。はなから、香織たちが敵だということを認識しているのだ。
 弱みを握っているこちらが、圧倒的に有利だと高を括っていたが、それは思い違いなのだろうか。絶対に言いなりにはならない、という意志を伝える構えで、涼子は、ここへ来たのかもしれないし、下手をすると、なんらかの対抗策を持っている可能性もある。
 どうしよう……。胸中に、不安の暗雲が広がっていく。いやだよ……。もっともっと、この子をいじめてやりたいのに。昨日のあれ、たった一回で終わりなんて、全然物足りないよ。
 だいたい、明日香は、なにをやってるんだ。さゆりと二人だけだと、涼子の迫力に押し潰されてしまいそうだった。はやくきて……。三人で囲まないと、手に負えないよ……。

 香織の念が通じたように、階段から足音が鳴りだした。
 制服姿の明日香が、細く長い脚を気怠そうに動かして、下りてくるところだった。
 降り立った明日香は、香織と目が合うと、怪訝そうな顔になった。
「どーしたのぉう? くらーい顔しちゃってえ、香織もー、さゆりもー」
「どーしたのじゃないでしょっ。それは、こっちの台詞。何してたのよ、南さんしか下りてこないから、心配になったじゃない」
 明日香の余裕げな話し方に、少なからず安心させられた香織だったが、つい語気を尖らせていた。
「明日香先輩、部活の練習、お疲れ様でーす」
 さゆりも、涼子に気圧されていたことを隠すように、苦笑いを浮かべて頭をぺこりと下げる。
「制服にぃ、きがえてた・のおー!」
 わざと語尾をだみ声に変え、明日香は、心外だということを大袈裟に表現した。それを聞いて、バレー部の練習中は、明日香がジャージ姿だったことを思い出した。
 明日香は、香織たちとも、涼子とも距離を置いた、中途半端な位置で立ち止まり、話を続けた。
「だってえ、みんなが見てるなかでぇ、ひとりだけ着替えるなんて、ちょっと恥ずかしくって、あたしには、できなあーい」
 いたずらっぽい笑みを浮かべた明日香は、両肩をぎゅっと抱いた。
 これは、前日、この場で、身に着けているものをすべて脱いだ涼子に対する、痛快すぎる皮肉だった。
 明日香の意図を受け取った香織は、つい吹き出してしまい、甲高く笑い声を立てた。当てつけを言われた涼子の頬が、ぴくりと動き、不快そうに顔を背けたのを見ると、香織は、ことさら可笑しくなった。
 いくらか遅れて、さゆりも呑み込めたらしく、くすくすと失笑する。

 胸中の暗雲が、すっと晴れていく。明日香の存在が、これほど頼もしく思えたことなど、今までにあっただろうか。
 だが、涼子の、怖じ気づいていない様子には、少し引っ掛かる。なにか対抗手段となる武器を、隠し持っているかもしれないからだ。
「りょーちん、もうちょっと、そっち行ってよ。香織たちの、正面あたりに立って」
 わずかの間、涼子は渋る素振りを見せていたが、緊迫した沈黙のなか、諦めたように移動を始めた。香織の正面に歩いてきて、足を止める。
 涼子が言いなりに動いたことで、やった、と香織は大きな感触を掴んだ。不安レベルが、急低下していく。

 部活の練習で掻いた汗だろう、涼子の髪、とくに襟足が、濡れているのが確認できる。
 白いシャツは、汗によって、肩や腹のあたりが、彼女の肉感的な体に貼りついている。すると、どことなく、胸のふくらみが引き立って見えた。スパッツも、黒い色なので見た目にはわかりにくいが、おそらく、多分に湿り気を含んでいるはずだ。
 けっこう、けっこう……。香織は、舌なめずりせんばかりの思いだった。前日の帰りぎわ、制服には着替えないでここに来るようにと命じておいた理由が、まさに今の涼子の状態にあった。やはり、涼子の顔立ちや体つきには、運動着が最も良く似合う。
 かりに、涼子が、運動系の部活に加入していなくて、帰りのホームルーム終了後、ほどなくして、制服姿でバス停に立っている高校生活を送っていたとしたら、どうだったろう。もしかすると、今、黄色い声援を発している後輩たちの目にも、おかっぱ頭の体格の良い先輩、くらいにしか映らなかったかもしれない。
 また、香織には、涼子の運動着にこだわる理由が、他にもあった。そしてそれが、最大の目的でもあるのだ。
 部活用のシャツとスパッツは、汗を吸っているのと同時に、涼子の誇りをも含んでいる代物だと、香織は捉えている。だから、涼子の衣類を脱がせるのは、誇りを剥ぎ取っていくことに他ならない。そうして最終的に、色んな意味での恥が露わになる。
 昨日、その過程に、言葉では言い表せないような快感を覚えたので、香織は、それを再現させたかったのだ。

「あのね、りょーちん。今日は、まず初めに、りょーちんに宣誓をしてもらいます」
 ひとりだけ、やや距離を取っている明日香が、真剣そうな話し方で口火を切った。相対している、香織たちと涼子との二者を、あたかも中立的に裁いているといった風情である。
 空気に合わせて、さゆりも立ち上がり、しゃきっとした。
 この演出は、事前に、三人で相談して決めていたことだった。馬鹿げているようだが、実は、これからの両者の関係、いや、運命とも言うべきものを決定づける重大な局面なのだった。事実、香織は緊張して、掌がじっとりと汗ばんでいた。
 涼子は、胡散臭そうな顔で、視線を斜めに落としている。たぶん、本来ならば、一喝して、こんな茶番劇など蹴散らしてやりたいところだろう。だが、そうすることができず、はらわたが煮えくり返る思いで、明日香の話の続きを待っている、といった様子である。
「りょーちん、どんな時でも、暴力は振るわないって誓ってください。りょーちんは、体も大きいし力も強いから、殴ったり蹴ったりするのは、すごい卑怯です。なにか不満があるなら、話し合いで解決しましょー。話し合うのが、一番公平ですっ」
 そんな大それた台詞を、明日香は、真面目腐った口調で、しっかりと言い切った。
 卑怯なのは、絶対的に自分たちのほうである。むろん、三人とも、そんなことは承知している。
 かたや、涼子のほうは、言われたことの理不尽さに絶句しているようだった。信じられないものでも見るような目つきで、明日香の顔を見やっている。
 しかし、これは、涼子を無意味にからかっているのではなく、香織たちにとっては、極めて合理的な策なのだった。
 涼子の体格や筋力は、こちらにとって大変な脅威である。もし、涼子が、怒りを抑えきれなくなったり、屈辱に耐えられなくなったりして、パワーに物をいわせて抵抗してきたら、香織たちには為す術もないのだ。悪くすると、体のどこかの骨が折られるとか、とんでもない怪我を負う事態になるかもしれない。
 けれども、逆に、そのパワーさえ封殺してしまえば、もはや、涼子は文字通り手も足も出なくなる。すなわち、それは屈服を意味する。

 香織たちの意図が読めてきたのか、涼子の顔つきが、だんだんと険しくなってきた。三人の視線を浴びている涼子が、ふと、香織の足元にあるバッグに目を留めた。
「ねえ、それ……。その写真で、わたしを脅そうっていうの? 吉永さん」
 ようやく涼子が口を開き、無表情で顎をしゃくった。香織に向けられた、切れ長の双眸には、薄汚い人間を心底軽するかのような色が滲んでいる。
 情けないが、香織は、つい目を逸らしていた。まだ、涼子が暴力の放棄を誓っていないので、あまり軽はずみなことは言えない。
「あとで話すよ……。それより、明日香に訊かれたこと、答えたら?」
 俯き加減のまま、呟くような調子で返す。
 しかし、涼子は、香織の言葉を無視して、さらに追及してきた。
「バレー部の合宿費を盗んだの、あんたでしょ?」
 香織は、涼子の気迫に、恐怖すら覚えていた。口の中は、すでに、からからに乾いている。
「知らないって……。言いたいことあるなら、あとにしてよっ……」
「ちょーちん、答えてください。暴力は振るわないですか? 誓ってくれますか?」
 明日香が、割って入ってくれる。
 だが、それが聞こえていないかのように、涼子は、香織から目を逸らそうとしない。
 だいぶ身長差もあるため、その、二つの意味で見下してくる視線が、香織にとっては不愉快極まりなかった。なんってむかつく女なんだ……。

「さいってー、だよね、あんた」
 涼子の吐き捨てた言葉は、紛れもなく、香織にぶつけられていた。
 香織はぎょっとさせられて、体がこわばった。くそ女……。むかつく、くそ女。この時を、狂おしいほど心待ちにしていたのに、こんな嫌な目に遭うとは、夢にも思わなかった。死角からのカウンターパンチに、沈められていくような気分だった。
 そもそも、なんで、この女は、あたしばっかりを責め立ててくるんだ。理不尽なことを言っている、明日香に反撃したらいいじゃない……。
 そこで、珍しく明日香が、いらいらした声を出した。
「りょーちんっ、なんで無視すんのっ、訊かれたこと、答えてよっ」
 それでも涼子は動じた素振りを見せなかったが、やっと、香織から目を離した。誰とも目を合わせたくないというふうに、視線を床に落とし、肩を上下させながら深い溜め息をつく。
「……あんたたちの態度しだいでは、わたしは、手を出すかもしれない、……って言ったら、どうなるの?」
 涼子は、誰に訊くともなく、独りごちるように言った。
 むろん、受け答えするのは明日香だ。
「どーなると、おもーうぅ? ちょーちーん」
 この期に及んでも愛称で呼ぶのは、明日香が、罠に嵌めたという快感に浸っている証だろう。そう呼ばれている涼子のほうは、激しい嫌悪感を持っているはずだ。
 ふっ、と笑うように涼子は息を吐いた。
「なによ……、わたしが、殴ったり蹴ったりしないって言えば、それで、あんたらの気は済むわけ?」
「そんな曖昧な言い方じゃあ、よくわかんないよぉ。ちゃんと言ってくれないとっ」
 明日香は、攻めの手を緩めない。いよいよチェックメイトだ、と香織は胸が昂ぶった。
 涼子は、明日香の顔を一瞥する。
「じゃあ、なんて言えばいいの?」
 明日香は、小さく咳払いすると、迷いのない様子で言い始めた。
「こう言って、りょーちん。……宣誓、わたし、南涼子は、いかなる時でも、暴力を振るいません。話し合いのみで、問題を解決することを誓います……」
 言葉を切ると、涼子に問う。
「ちゃんと言えるぅ? りょーちーん」
 その台詞もまた、あらかじめ打ち合わせておいたものである。

 涼子は、唖然としたように眉間に縦皺を刻み、瞳を明日香へと走らせた。怒りを通り越し、正気を疑っているかのような顔つきで、涼子は口を閉ざしている。
 もどかしい沈黙のなか、ついに明日香は、あからさまな脅しをかけた。
「言えなーいのぉ? りょーちぃーん。でもぅ、誓わないとぉ、どうなっちゃうか、わかんないよー」
 その言葉に、涼子の唇が、わずかに引きつった。そして、みるみると、諦めの色が顔全体に広がっていく。
 香織は、その様を視認すると、逸る気持ちを抑えきれなくなった。言えっ。早く言えっ、南……。
 うな垂れ、暗い表情をした涼子の口から、おもむろに、ぼそぼそとした声が聞こえだした。
「……わたしは、いかなる時でも、暴力を振るいません。話し合いのみで、問題を、解決します」
 涼子の誓いの一言一句を、香織は、噛み締めて聞いていた。体の奥底から、これからに対する期待のマグマが、せり上がってくるようだった。なんだ……。強がって見せていたけど、結局は、なんの対抗策も、その頭にはなかったってことね。

 ここまでの立役者だった明日香は、にんまりと笑んで、勝利感に浸っている。
 だが、香織は、自分たちの優勢を揺るぎないものにするための、駄目押しの一手を打つべきだと判断した。
 体中から悔しさを滲み出させているような涼子に、香織は、追い打ちをかけた。
「ねえ南さん、なんで台詞をはしょってるのよ。明日香の言った台詞、忘れちゃったの? もう一度、ちゃんと、言って」
 しばし涼子は、これといった反応は示さなかったが、ふと、瞑目した。そうして、薄目を開けると、嘆息し、口を開いた。
「宣誓……。わたし、南涼子は、いかなる時でも、暴力を振るいません。話し合いのみで、問題を解決します。……それを、誓います」

 香織は、意識して冷然たる目つきを崩さなかったが、心の中には、狂喜乱舞している自分がいた。
 それとともに、さっき、涼子に不愉快な思いをさせられた腹立ちが、めらめらと黒く燃え上がる復讐心へと変わっていく。服従しなくっちゃいけない立場なのに、あたしに向かって暴言を吐いた代償は重いよ、南さん。
「さゆりー、カメラ……。まず一枚、記念に撮っておいて」
 香織は、打って変わった和やかな声音で、後輩に指示をした。
 運動着姿は、南涼子コレクションの一番上に収まる、必須なものだ。
 さゆりは、ようやく緊張から解かれたと感じたのか、大きく吐息をついた。ぎくしゃくと身を動かしてカメラを手にすると、胸の前で構える。
「じゃあ、そういうことなんで……。南先輩、よろしく、お願いします……」
 まだ、若干、相手の先輩を警戒しているような、ぎこちない口調でそう言うと、カメラを涼子に向けて、ファインダーを覗き込む。
「ちょっと、やめてっ」
 シャッターの乾いた音が鳴ったのは、涼子が左手で顔を遮った瞬間だった。
「あらら……。顔を、覆われちゃったっ。これじゃあ駄目ですよね……。どうしましょうか? 香織先輩」
 弱ったように頬を歪めて、さゆりは訊いてくる。
 こけにされた涼子は、怒りを露わに、さゆりを睨め付けている。

 香織は、今こそ自分の出番だと、静かに気合いを込めた。
 ついさっきは、涼子を相手に気後れし、後輩の前で醜態をさらしてしまった。さゆりは、香織のことを、頼りなく感じたかもしれない。その名誉挽回の意味も含めて、ここで、涼子をねじ伏せるべきなのだ。鬼の形相をしている涼子だが、もう、怖がる必要はない。
「ねえ……。写真に、南さんを、ちゃんと映したいから、顔を隠したりしないで。なんか文句があるなら、言ってみなよ。ほらっ」
 最終的には、弱みをちらつかせるつもりなので、口喧嘩では負ける気がしなかった。
 涼子が言い返してこないので、香織は、さらに要求する。
「顔を上げて、カメラのほうをちゃんと向いて。カメラに目線を合わせて、じっとしてて」
 一方的な要求にもかかわらず、涼子は、無言でその通りにした。
 そこで再び、さゆりがカメラを構える。
「じゃあ、南先輩、いっきまーす。動かないでくださいねっ」
 シャッター音が鳴った時の涼子は、ひどく不快そうにカメラを斜めに見ており、姿勢は、片脚に体重を掛け、やや腰を横に突き出した、いかにもスポーツ選手といったポーズだった。
 その悔しそうな表情が写真に残ることに、香織は大きな満足感を得た。

 さあて、お次は……、と香織は、少し考えを巡らせた。さっきまで傲慢な態度を取っていた罰として、あんたのアイデンティティーを、小突き回すようにして傷つけてやる……。
「ねーえ、南さん。さっきは、ずいぶんと強気で、あたしにも色々と言ってくれてたけど、形勢が不利になると、とたんに黙り込んじゃうんだ? なんだか滑稽だねえ」
 香織は、喋りながら、涼子のほうへと歩を進めていった。
 前日と同様、一メートルほどの距離まで近づいていくと、予想通り、その体から、ぷんぷん汗の臭いが漂ってきた。
 ひとりだけ、汗まみれの運動着姿で立っていることが、どれだけみっともないことなのかを、まず、嫌というほど思い知らせてやる。
「なに言ってんの? こっちは、あんたに言いたいこと、山ほどあるんだから。合宿費を盗んだの、あんたでしょ、答えてよ。しらばっくれてるのは、そっちじゃん」
 案外、涼子は、まだ心が折れていないようで、荒っぽい語気で香織に応酬してきた。
 むかつく……。この、くそ女。ほっぺたを引っ叩いて、髪を引っ掴んで、腹に膝蹴りを喰らわせてやりたい。だが、互いに暴力は行使しない取り決めになっているので、それはできない。
 手を上げたい衝動を抑えて、代わりに、香織は言い放った。
「ねえ南さん。部活、頑張ってんのはいいんだけどさ、ぶっちゃけ、あんた汗臭いんだよね」
 それを言われた刹那、涼子の頬に、さっと、恥ずかしさの影がよぎったのを、香織は見逃さなかった。
 ビンゴ。なんだ……、けっこう自分でも気にしてたのね……。ならば、そのことを徹底的にあげつらって、羞恥心を煽り立ててやる。

「へっえー。りょーちんのからだぁ、汗臭いんだぁ……?」
 ふと、横から、明日香が意外そうに言った。
 好奇心の表れだろう、口端をやんわりと吊り上げて、ひょこひょこと、こちらへ歩み寄ってくる。涼子の背後に迫った明日香は、いきなり、しなだれかかるようにその両肩に抱きついた。
「ちょっ、いやっ……」
 涼子は、驚愕と嫌悪を露わにして体を左右に振り、背中に引っ付いている明日香から離れようとする。
 明日香の突飛な行動には、さすがに、香織も呆気にとられていた。
「ああん、もう……。あんまり暴れないでよぉ、りょーちん……」
 明日香は、駄々っ子みたいに文句を付けると、涼子の肩に頬ずりするようにして、くんくん鼻をひくつかせる。
 ほどなく、明日香の口元から、笑みが消えうせていった。眉を顰めて、頬の全体を歪め、ひどく苦々しげな顔つきになる。
 本当に気持ち悪がっているのか、明日香は、お化けみたいに低い声で言いだした。
「かおりぃー。この子、汗臭いわぁ。シャツが、まだ、びしょびしょだしぃ……」
 涼子の顔に、今度こそはっきりと、恥や屈辱といったものが表出した。ナイス明日香、と香織は心の中で称えた。
「それじゃあ、下のほうも、まだ濡れてんのかなあー」
 香織は、適当な口実をつけ、すっと腰を落とし、涼子のスパッツに照準を合わせた。
 膝上丈の黒のスパッツは、涼子の逞しい太ももに、一分の隙もなく張り付いている。そこへ、香織は両手を伸ばし、両脚の外側から引っ掴んだ。
 両の掌に、生地の湿り気をじっとりと感じた瞬間、涼子が怒鳴り声を上げた。
「ちょっと、やめてよ!」
 激しく腰をよじりながら後ずさって、香織の手から離れる。
 だが、そこで、背後から抱きついている明日香が、両腕に力を込めて涼子の動きを制限した。
「りょーちん、じっとしてんのっ」
 明日香が加勢してくれたので、香織は間を置かずに、再び涼子の腰へ手を回した。スパッツに包まれた太ももの、臀部ともいえる、むっちりとした部分を、両手で押さえつけた。そして、目一杯の力で、ぐっと涼子の腰を引き寄せる。
 もう、涼子の筋肉質な下半身は、目と鼻の先だった。眼前の黒い生地から、むっとするような汗の臭いが、鼻孔に流れ込んでくる。涼子の太ももの、熱い躍動感を両の掌に感じ取りながら、そこからの臭気を、さり気なく嗅ぐ。ほとんど夢見心地だった。

 香織は、我を忘れて、さらに顔を接近させていた。
 それを厭悪した涼子が、脚をがたがたと動かして逃れようとする。
「痛いって、りょーちんっ。もう、それ以上暴れるようなら、暴力だと見なすからねっ。いいのっ? それでも」
 自分よりも遙かにパワーのある涼子を拘束していた明日香が、腕力だけでは無理とみて、言葉による牽制をかけた。
 とたんに、涼子の動作が、めっきりと弱まる。
 香織は、今この間だけは、明日香とのチームワークが、以心伝心の域に達しつつある気がしていた。頼りになる友人の後押しを受け、香織は、いくらか遠ざかった涼子の腰を、強引に引き戻した。
「ああうっ」と取り乱した声が、涼子の口から出た。
 間近で見ると、パンティラインが、指でなぞってやりたくなるほど、くっきりとスパッツに浮き出ている。
 さらに、いやらしいことに、下半身に密着したその生地は、股の筋に食い込んでおり、そこを挟む、ぷっくりとした肉の質感までもが、視認できるのだった。香織は、その筋に、鼻をくっつけてみたい衝動に駆られたが、なんとか自制した。
 さすがに、涼子もそうだが、明日香とさゆりの目が気になる。変態的な吉永香織というイメージを持たれるのは、絶対に嫌だった。香織が演じたい理想像は、あくまで、クールでニヒルな吉永香織なのだ。
 とはいえ、嗅覚に意識を傾けると、涼子のスパッツから漂うむっとする臭気のなかに、眼前の恥部のそれも、そこはかとなく混じっている気がした。

 足を踏ん張るようにして、腰を引こうとする涼子と、そうはさせまいとする明日香と香織。
 衣類越しとはいえ、性器のそばに顔を近づけられているのだから、涼子が落ち着いていられない気持ちもよくわかる。しかし、だから、やめられないとも言える。
「もうっ! 本当に、いい加減にしてよ!」
 肉体的な抵抗を制限されている涼子は、代わりに、喉の奥から絞り出すように叫んだ。もう余裕のなくなった涼子の声が、この陰鬱な空間に大きく反響する。
 香織は、それを聞いて、心の中で嘲笑った。
 暴力を放棄した女が怒鳴ろうと喚こうと、なんの意味もない。むしろ、香織、いや、香織たち三人の、嗜虐心をくすぐっているのだ。
 どうして、そんな簡単なことを、頭の優秀なはずの南涼子がわからないのか。
 涼子の声など、もはや、まったくの無力なのである。
 そう結論づけたと同時に、香織のなかに、余裕と自信が生じた。
 そっと、涼子の太ももを放してやる。
「明日香。もういいよ、ご苦労さん、くたびれたでしょう?」
 寛大な態度で、慣れない力仕事をした友人を労う。
 明日香は、涼子の広い肩幅に絡めていた腕を解くと、不思議そうな顔を向けてきた。
「あれ……? もういいのぉ? なんかー、もっと色々やると思ってたのにぃ」
 さり気なく彼女は、意味ありげな言葉を漏らしている。
「なに言ってんのよっ」
 香織は、とぼけて小さく笑ってみせる。

 その隙に、涼子は、飛び退くように香織たちから距離を置いていた。それでも、まだ、涼子の目は死んでおらず、心を落ち着かせるためなのだろう、呼吸を整える動作を繰り返している。なにか、劣勢を跳ね返すべく、態勢を立て直そうとしているかのような風情である。
 香織は、両の掌を顔に寄せて、涼子のスパッツから付着した、汗の水滴をまじまじと確かめた。そうして、涼子に見せつけるように、不快感の表情を装って、両手をスカートにきつく擦った。
 今、香織と涼子の視線が、正面からぶつかっている。たいしたもんだね、と香織は彼女を褒めてやりたくなった。
 鈍痛のような屈辱感に、その身が蝕まれているだろうに、強靱な精神力の成せる業なのか、勝ち気な眼差しで、こちらを見据えている。だが、香織を詰問してきた時の、あの刺すような鋭利さは、もう、その視線には含まれていない。
 香織が、先手を取った。
「ねえ、南さん……。さっきは、南さんに訊かれたこと、答えてあげられなくって、ごめんね。南さんの裸の写真のことと、バレー部の合宿費のことだったよね……? ちゃんと話し合いたい?」
 逡巡するような間が空いた。
 ややあって、涼子の、怒りや悲しみを抑え、努めて平静を保っているような声が返ってくる。
「あんたたちが何を考えてるのかが、わからない……。写真のことも理解できない。ただ、まず、盗んだ合宿費は返して」

 香織は、思わず含み笑いを漏らしていた。
 もはや、涼子の声は無力であり、したがって、喋る言葉にも、なんの効力もない。
 とっくに趨勢は決しているため、香織のほうは、何をどう言っても許されるのだった。
「盗んだのは、南さんでしょう。なんか……、話し合いにならない。南さん、服を脱いで」
 涼子の凛々しい顔に、衝撃と動揺が走った。
 へどもどしている涼子に対し、香織は、嵩にかかって攻め立てる。
「学校で部活のお金を盗むような人と、話し合いしてあげようって、こっちが言ってんだから、南さんも誠意を示してよ。裸になる、くらいの誠意を見せてくんないと、あたしたちは納得できない。嫌なら別にいいけど、そうしたら、あたしたち三人で、絶対に学校側に報告するから」
 ここまできたら、理屈もへったくれも必要なかった。
「でもね……、南さん。逆に、南さんの態度に好感が持てたら、あたしたち、南さんに協力しちゃうと思う。あたしたち三人とも、捜索が得意なのよ。だから、もしかすると、無くなったお金も、出てくるかもしれないよお……」
 事前に打ち合わせておいた、幾つかの台詞の、最後のものを香織は言い切った。
「ねっ? さゆりっ」
 なかなか流れに参加できない後輩に、話を振ってやる。
「あっ、はい。南先輩、あたしも捜索、頑張りまーす」
 さゆりは、薄笑いを滲ませた顔を、涼子に向けた。

 涼子は、どこか焦点の合っていない視線を、あてどなくさまよわせている。
 絶望感。その暗い影が、涼子の表情を、色濃く覆っている。
「ク……」
 押し黙っていた涼子の口から、短い言葉が漏れた。
 香織には、それが聞き取れなかった。クソ、だろうか、あるいは、クズ、と香織たちに向かって呟いたのか。なんにせよ、いちいち、むかつかせてくれる女だ……。
 けれども、そういった反発心は、嫌いじゃない。
 香織は、挑発を受けた気分になり、露骨な物言いで罵倒した。
「ねえ、早く、服を脱げって言ってんの。全部だからね、下着も全部ね。素っ裸になるんだよ、わかってる? 突っ立ってないで、早く脱いで」
 
 選択の余地が残されていない涼子は、やがて、前日と同じように、Tシャツに手を掛けた。
 だが、前日とは、大きく異なっている点がある。今、南涼子は、自分がもてあそばれていることを充分に知っていながらも、衣類を脱ぎ始めているのだ。






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